『さらば空腹』
今年度に入り、職場が変わった。のみならず、これまで自身が26年弱継続してきた生活リズムが数時間、ズレることになった。そのせいか分からないけれど、今年度に入って4~5ヶ月経った頃から、「空腹」というものを覚える機会がめっきり減った。それに加えて一回の食事量も減ったような気がする。先日、自宅の体重計に乗ってみると、半年前のそれと比較しておおよそ7 kg減っていたので、どうやら食事量が減っているという感覚は正しかったようである。
兎に角、空腹を覚える機会が減った。休日、一日中ブログ記事を打っていたら、ある時から腕がブルブルと震えてきて、そこで、そう言えば今日は食パン一枚しか食べていなかったなぁ、という事実に気が付く。ここで初めて、自身空腹を覚えていることを知る。と言うより、「栄養不足であることを知る」と言った方が適切であるかも知れない。現に空腹は覚えていない。腕がブルブルと震え始めるという事実を以て、ようやく「空腹」という概念を思い出し、重い腰を上げ、栄養補給をする。そうすると腕の震えは収まるので、多分、食事と腕の震えの間には因果関係がちゃんと存在している。
腕の震えが不快だから、食物を摂取する。
これが現状における私の、食事との向き合い方である。甚だ不誠実な向き合い方になってしまったものだ。
私は、自身のこうした感覚の鈍磨が、職場におけるストレスに起因していることを危惧した。摂食障害――。現に、部署異動により過重なストレスを覚えるようになった同僚の一人が、摂食障害っぽくなっていた。彼女はこの頃、過食と拒食を繰り返すようになったらしい。私にもその兆候が現れているということなのだろうか。今は未だ分からない。判定には、12月の健康診断の結果を待つことにしよう。
ところで、これは今から1ヶ月程前のことであるが、私は仕事終わりに、大学時代の友人三人と会ってきた。その内一人は久々の再会であった。するとその久々の友人が、こんなことを言い出した。
「俺はたまにアイスしか食べない生活をするのだけれど、それが三日目に入るとダメだね。腕が震えてくる。俺はこのとき、自身の体内の『ミネラル不足』を痛感するんだよね。腕が震えたら身の危険を感じて、ちゃんとした食事を摂るようにしているよ」
私は嬉しくなって、友人のこの言に大いに賛同した。私も一日殆ど何も食べないでいると、就寝前には腕が震え始める。その旨を彼に伝えると、
「一日じゃならないなあ。三日だよ、三日。」
と返ってきた。
三日――。
かく言う私も数年前、三日間の断食を敢行したことがあった。この時は水分を除き、何も口に入れなかった。不思議と激しい空腹感や腕の震えに襲われることはなかったが、二日目、三日目には身体全体が怠く、階段を上るのもしんどかった。しかし、こんな苦行の先には明るい未来が待っているようである。あるサイトに、「三日間の断食の後の食事は神の味がする」という体験が載せられてあったのである。私は断食中わくわくしながら、三日間の断食を終えたその翌日の朝食に対する感動への期待に、胸を膨らませたものだった。確かに、空腹は最高の調味料、などと言いますからね。
断食最終日の翌朝。運命のメニューは食パンであった。期待を胸に食卓に着き、食パンと対峙する私。この食パンは、神の味がするに違いない。そう信じていながらも、しかしどういうわけか、眼前の食パン、私の目には全く美味しそうに見えなかった。一抹の不安が過ぎる。が、その不安を振り払うように勢いよく食パンを両手でつまみ上げると、えいやと口に含んだ。神の味を、私は信じます――
――信仰が足りなかったのであろう。その食パンに、神の味は宿っていなかった。食パンは、食パンであった。いつも食べている食パン。いつもの味の食パン。それ以上でも、以下でもない。ところで私は、「それ以上でも、以下でもない」という表現があまり好きではない。「それ以上でも、以下でもな」かったら、もやはそれは何にもならないではないか。正しい表現に拘るならば、「それより上でも、下でもない」とか、「そのもの以外の何でもない」という表現が適当であって、「それ以上でも、以下でもない」などと表現するのは、果たして何事か。反物質だろうか。ダークマターのことだろうか。私は甚だ興醒めな気持ちで食パンを平らげると、食卓を後にした。無論、何口囓っても、食パンは食パンであった。これに懲りた私はそれ以降、断食なるものは行っていない。
三日間のアイス生活も断食も、どうしたって健全ではない。しかしお互いこうして一応元気に生きている。12月の健康診断までは現状維持で、この感覚の鈍磨とほどほどに向き合っていく所存である。
『週休二日』
私は現在、「週休二日」という労働条件で働いている。漠然と、「週休二日」という条件で働くことは好きじゃないなぁと感じている。具体的に、休みがもっと欲しいものだ、と感じているのである。今の私はそれなりに“やるべき事”と“やりたい事”、“やってみたい事”を抱えている。これら全てに着手するためには、週休二日では全く足りない。たとえ収入が少なくなってしまっても良いから、休みを増やしたいものだと考えている。自分以外に守るべきもののない人生である。人生の大半を労働に捧げてしまうのは、味気ない。私は人生を楽しみたいと思う質(そのようになったのはここ数年の話だが)なので、いずれは今の労働条件を何らかの手段により変えようと思っている。仕事中心の人生には喜びを見出せない。
『長期休暇』
「朝目覚めたら、枕元に3億円が積んであった。この3億円、自分の好きに使ってよい。果たしてあなたは、何に使うでしょうか?」
こんな質問を自身に問い掛けることで、本当に自分のやりたいことが見えてくる、といった内容の書かれた実用書がどこかにあったと記憶している。私は「3億円」という金額を「3兆円」に変えて、果たして自分は何を求めるだろうか?と考えた。多分私は、長期休暇を求めるだろうな、と思った。今の仕事を区切りの良いところで辞めて、数ヶ月スパンの長期休暇を自身に与えるだろうなと思った。何の憂えもなく、数ヶ月という期間を自分のために費やしてみたいものである。社会人になってしまうと、連休はどんなに長くてもせいぜい5~10日程度のもので、とても「長期休暇」とは言い難い。いや人によってはこの程度でも「長期休暇」と言うのかも知れないが、私にとってはやはり言い難い。大学生の時のような長期休暇、この先訪れることはないのだろうか。私は大学時代、春夏合わせ計6回(厳密には8回)の長期休暇をとても不幸な使い方をしてしまった。とは言っても、いずれも自身の精神的成長のためには必要な時間だった。だからこれは仕方の無いこと。仕方の無いことなのだが、そうは言っても今振り返ると「ああ、とても勿体ない使い方をしてしまったなぁ」と感じずにはいられない。どうにかしてもう少し楽しめなかったものか。どう考えたって無理ですね。まぁ、仕方の無いこと。仕方の無いこと。嘆いても仕様がありませんね。
『カップラーメンと知覚統合』
私はカップラーメンに苦手意識がある。正確に言うと、カップラーメンの作り方に苦手意識がある。もっと正確を期する言い方をすると、「カップラーメンの作り方の指示文を読み込み、その指示に正確に従うこと」に苦手意識がある。私はカップラーメンの容器の側面に印字された「作り方(召し上がり方)」の欄を見ると、必ず大学時代に苦労させられた化学実験を思い出す。
私の脳みそは、視覚情報の処理が苦手である。取り分け、視覚情報から仕入れた情報を元に、その情報を実際の動作に落とし込む能力というものに相当の欠陥がある。それを端的に表しているのが、この、カップラーメンに対する苦手意識である。
カップラーメンを作ろうと思う。そこで、容器の側面に印字されている作り方を確認する。そこには、例えばこのようにある。
1. 蓋を半分ほど開け、かやくと粉末スープを容器から取り出す。
2. かやくと粉末スープを入れ、熱湯を注ぐ。
3. 蓋をして5分間静置する。
書いているだけで具合が悪くなってくる。私の脳みそは、これらの情報を適確に処理することに大変な時間を要する。まず、「1. 蓋を半分ほど開け、かやくと粉末スープを容器から取り出す。」という日本語は理解できる。しかしこれらの情報を読んで意味を理解したからと言って、それらの情報は幾らも頭に残っていない。せいぜい残っているのは、語尾の「取り出す。」という動詞くらいのものである。これでは何を取り出すのか、どうやってそれを取り出すのかが、分からない。そうしてまた頭から読み直す。しかし結局は同じことで、相当集中して読まないことにはさっぱり頭に残らない。いや正確には、頭に「残」ってはいるのだが、その残った情報を、必要なときに頭の中から上手く取り出すことができないのである。どうにか「かやくと粉末スープ」を取り出すことを理解したとしても、既に「蓋を半分ほど開け」てそれらを取り出すことが頭に残っていない(その情報をこの場で適確に引き出せない)。そうして、混乱する。どうやって「かやくと粉末スープ」を取り出すのか、分からず混乱する。そうして文頭に目を遣ると、「蓋を半分ほど開け」とある。成る程、蓋を半分ほど開ければ良いのか。そうして蓋を半分ほど開けた時には既に、その次の工程が頭に残っていない。ええっと、開けてどうするんだっけ。また文頭から読み直し、そこでようやく、「そうか、かやくと粉末スープを取り出すのか」と知る。しかし取り出してからの次の工程に関しては、もうすっかり、何をすべきなのか分からない。このように、私の脳みそは、視覚情報の処理、及びそれらを実際の動作に結び付けることが苦手である上、一つ一つの動作の目的を頭に留めておく能力に問題がある。この場合では、「私は今カップラーメンを作るために手を動かしているのだ」という目的と、目先の動作がリンクしていない、という問題がある。従って、動作一つ一つがどうしても「点」の情報として脳内にプロットされてしまう。よって、「半分ほど蓋を開け」ることと、「かやくと粉末スープを取り出す」ことと、「かやくと粉末スープを入れる」ことが頭の中でリンクしていない。「私はこれからカップラーメンを作るのだ」という目的と、眼前の動作が頭の中でリンクしていない。だから、次の情報がなかなかスッと頭に入ってこない。記憶を留めておくことができない(必要な情報を頭から適切に取り出すことができない)。さすがに、簡単のために「カップラーメン」で例えただけであって、私は何もたかだかカップラーメン一つ作るのにここまで苦労することはない。いつもはエピソード記憶が、自身の視覚情報の処理能力の欠陥をカバーしてくれている。つまり過去の経験――カップラーメンを何度も作ってきた経験――によって、私は視覚情報を上手く処理できなくても、「どうせこんな感じでしょう」という具合に、難なくカップラーメンを作ることができる。「蓋を半分ほど開け、かやくと粉末スープを取り出し、容器に入れる」ことが読み取れなくたって、過去の経験から、それら一連の作業を遂行することができる。ただ、敢えてエピソード記憶に頼らず、容器側面の視覚情報の処理だけでカップラーメンを作ろうとすると、とても苦労する。その具合は、先に述べたとおりである。
大学時代の化学実験は、無論これよりもかなり難解なものである。難解な単語、難解な指示、難解な論理、難解な留意点がテキストに視覚情報として並んでいる。それらの視覚情報を適確に処理し、指示通りの作業を正確に行うことは私にとって至難の業だった。心を病みそうになるほど、至難の業だった。カップラーメンの容器側面の指示文に対する苦手意識は、どうも大学の化学実験で経験したそれに似ている。と言うかその簡易版そのものである。このような経緯もあって、カップラーメンの作り方を示す容器側面の視覚情報は、私に大学時代の化学実験を彷彿させるのであった。
私は、「カップラーメンの作り方」のような簡単な(一般人を基準として、「簡単な」と表現した)視覚情報を動作に結び付けるに際して、常々動詞を意識するようにしている。上の例の場合では、「蓋を半分程開け、かやくと粉末スープを取り出し、容器に入れ、熱湯を注ぎ、5分間静置する」というひとまとまりの文章(流れ)で捉えるのではなく、「開ける」、「取り出す」、「入れる」、といった動詞ばかりを意識する。そしてその動詞とそれにかかる目的語を、倒置法でリンクさせる。すると下のようになって、比較的文章が頭に入ってき易くなる。
開ける。蓋を。
取り出す。かやくと粉末スープを。
入れる。かやくと粉末スープを。
こうして、カップラーメンは以前よりも作り易いものとなった。もっと良い方法を思い付けば、その都度紹介しようと思う。
カップラーメン一つ取っても、考えなければならないことが沢山あって、疲れるものである。が、実生活を送る上で来す不便など、大学のような環境で来す不便と比較すれば、可愛いものである。なにせそのせいで迷惑を被るのは、自分だけで済むのだから。