自分を取り戻す試み~心の声に「いいね!」を返す~

私は自分の「個性」を持っていなかった

私は、自身が「個性」を持たないことに大きなコンプレックスを抱いていた。

私は自分に自信がない。一方で、人並み外れた承認欲求を持っている。そのためか、いつも人の顔色、人目ばかりを気にしていた。

人から「否定」されてしまうことが、この世の何よりも怖かった。だから人と関わるときは、自らの「保身」を何よりも優先させた。私は、人様の機嫌を取ることに全神経を集中させ、自らの考えや感じ方、欲求を抑圧し続けた。こうして私は、人と衝突する機会を極限まで減らして生きてきた。

また、私にとって、自らが下らない、取るに足らない人間であることを看破され、人から「嘲笑」されることも、それと同様に恐れていた。だから人と関わらぬ間も、私は一刻も気を抜けなかった。周囲の人々の目に、私という人間がどのように映っているか、いつも気が気でなかった。恥ずかしい人間として映っていないだろうか、挙動は気持ち悪くないだろうか、こんなところにいては場違いな存在だと、笑われてはいないだろうか――私の頭の中は、常に不安と恐怖でいっぱいだった。

私は、自分の本来の欲求に目を向ける余裕を、殆ど持てていなかった。

私は普段から、自分が何を考え、何を感じ、何を望んでいるのか…そういったことが、よく分からなかった。「承認欲」以外の欲求に非常に乏しかったので、それに伴って現れる自発的な行動というものが、極端に少なかった。行動をしないので、自ずと経験も少なくなった。経験が少ないので、経験値が積み上がらなかった。経験値がないので、それにより形成される固有の価値観や人生観といったものが全く深まってこなかった。

結果、私は自身の考えや感じ方を持たぬ、意志薄弱の「無個性」な人間になった。人として薄っぺらく、その言動一つひとつが「深み」に欠けた。私の外界に表出する言葉や一挙手一投足は、自身の経験に裏打ちされた独自の価値観に基づく芯の通ったものではなく、ただ眼前の相手の機嫌を損ねたくない、ないし自らの存在を笑われたくないとする保身、下心のみによって打算された、場当たり的で安定感のない、極めて浅薄なものであった。

そういうわけで、私には「個性」というものがない。「キャラ」というものがない。他者の目には「何考えているかが分からないが、なんか終始オドオドしている人」や、「どんな人かが一向に見えてこないが、なんか終始卑屈な愛想笑いばかりしている人」、「どのように接したら良いかがなかなか掴めず、なんかとっつきづらい人」に映るだろう。そのような状態では、他者との距離も縮まりにくい。過剰に気を使われ、当たり障りのないコミュニケーションしか取ることができない。現に私は、人と仲良くなるということに対して相当の苦手意識を持っている。

そもそも私には、人と仲良くなるために必要不可欠なツールである「会話力」が全くない。人並みに「会話」というものをすることができない。物事に対する自身の感じ方や考えを持たないので、話せることが何もない。相手が会話を始めてくれるまで、黙っていることしかできない。何も思い浮かばない。会話は完全に相手任せである。相手に話題がある内はまだ良いが、それがなくなると、沈黙するしかなくなってしまう。私は、話題を生み出せない。「そう言えば先日こんなことしてみたんだけど、○○だったよ」のような話題づくりが、全くできない。私には自分の考えがない。意見がない。経験値がない。固有の価値観や人生観がない。興味や関心を持っているものがない。会話スキルも勿論ない。あるのは「人から自分が否定されていないか」ということに関する、強烈な不安と恐怖だけ。だから私は話題を生み出せない。話題となるような源を何も持っていない。

「いやいや、あなたには大学院受験や病院実習といった貴重な経験があるでしょう。それらを話せば良いのでは」と思われるかも知れない。が、私にはそれらを「会話」として成り立たせるために重要な要素である「自分の意見」、「感じ方」というものがない。従って、それらの話題を会話に活用したとしても、結末は「客観的事実」を話すだけに終始するという、非常に味気ないものとなってしまう。
「実は先日受験が終わったんだけど…あの、○○ってところに4月から行くんだけどね…○○区にあって…アハハ」
「この前病院実習したんだけどさ…あの、まあ…でももう終わってさ。今は暇なんだけど…ハハッ」

のように、まるで会話にならない。「客観的事実」は辛うじて話すことができても、その事実に伴って現れたはずの自身の意見や考え、感じ方を共有することは一切できない。だって、それらを殆ど「持っていない」のだから。

昨年秋、私はある友人から、あまりに「コミュ障過ぎる」ことを指摘された。また別の友人からは、私が「コミュ障」であり「非モテ」でありながら、それらを改善しようと努めない「行動力の乏しさ」を、結構強めにディスられた。すぐさま「好きでこうなったわけじゃない…」と返したくなったが、すかさず出かかった言葉を胸中、奥深くまで飲み込んだ。友人の指摘は尤もだと思われたため、反論することが酷く虚しく感じられたためだった。

私と話をしていても、相手は何の刺激も得られないだろうなと思う。つくづく「つまらない人間だな」と我ながら思う。刺激がなく、薄っぺらな人間だと思う。一方、私の友人は非常に話題豊富で、刺激的である。魅力的である。きっと自らの意見や考え、種々の感情、欲求を持ち、それに基づき人生を組み立て、思考し、行動し、多くの失敗や成功体験を積み、その経験から固有の価値観を身に付け、それらがその人のキャラクターとして確立されていき、その人らしさ、特有の魅力を形成し、その魅力に惹かれた者との間に固有のコミュニティを生み出しているのだろう。「4月から大学院に行きます…アハハ」の私とは、雲泥の差がある。この歳になると、その差が話題の豊富さのみならず、人間としての深さ、経済力、交友関係や恋人の有無、知識や教養、保有している情報量の多さ等の「結果」に如実に現れていった。

悔しい――」本気でそう思った。自ら人生の改善を心底切望していながら、人への恐怖心や己のコミュ力の低さによってそれらを断念し続けなければならなかった過去、そして現状に対する欲求不満が、胸中怒濤の如く噴出した。その強烈な感情を、「このままでは友人が離れて行ってしまうのではないか」という不安が後押しし、「このまま4月を迎えてしまっては恐らく大学院生活が破綻してしまうであろう懸念」、そして「それだけは何としてでも避けなければならないとする焦燥」とが、私を具体的な行動へと駆り立てた。

私は「絶対に自分を変えてやる」と決意した。「自分を変えて、うんと魅力ある人間になって、周囲の人間の度肝を抜く結果を残してやる」と誓った。

コミュ障の私は、会話力向上のための勉強をした

自身のコミュ障を改善するため、会話力向上のための勉強を始めた。単行本9冊、会話に関するネット記事数百記事、YouTube動画数百本に加え、ナンパ師、ホストやキャバクラの接客術、接客動画からもノウハウを集めた。

また、赤の他者がたわいもない雑談をしている動画を複数入手し、それらを何度も視聴しては、全部で1時間以上に渡る全会話を全て文字起こしし、それら全ての発言、コメントに対して、「なぜこのタイミングでこのような言葉が出てきたのか」、「どうすれば自分も同じ発言、コメントをできるようになるか」を繰り返し繰り返し、徹底して分析していった。

更にそれだけでは十分でなかったので、ブログ上で有益なノウハウを発信しているブログ主が販売している会話教材を、2万円超の額を投資して購入し、不足分のノウハウを補った。

そして、直近の友人との会話を逐一想起しながら、友人がどのようにして話題を提供し、それを「会話」として上手に成立させているかを改めて分析した。

私はかなりのコストを費やして会話を勉強したと思う。しかしながら、ここまでの勉強をしていても尚、私のコミュ力はあまり改善されなかった。というのも、私には会話の開始や発展、継続に必要となる「物事に対する自身の考えや感じ方」や「人生経験そのもの」、そして「人生経験により得られた経験値やそれに基づいて形成された価値観や人生観」が極端に不足していたためである。例えば「結婚観」の話をする際に、普通の人は、

「俺の友達が26歳で結婚したんだけどさ。『26歳で結婚』って、結構早くない?」

等の布石を打って、相手から「それはたしかに早いね」とか「えーでも、それくらいになると周りの人がどんどん結婚していかない?」等の発言を引き出すことができるのに対して、私は「『26歳で結婚』って、結構早くない?」の部分――すなわち、ある事柄に対する自身の考えや感じ方――を全く言えないので、同じ布石を打とうとしても

「俺の友達、26歳で結婚したんだよね…」

の先が、続かない。これでは相手も反応に困ってしまう。「へえー」とか、「で?」という反応しか返ってこず、会話は盛り上がっていかない。

他にも、「休日の過ごし方」の話をする際に、

「そう言えば俺この前アンコウ鍋食べたわ」

という布石を打って、

「アンコウ鍋?」
「そうそう。△△ってところにあって、俺凄く好きなんだよね。で、ずっと食べたいと思ってたんだけど、仕事が忙しくてなかなか行けてなくて…」
「なるほどね…美味しかった?」
「めっちゃ美味かったわ」
「それは良いね」
「うん、できればまた行きたいなと思ってて…○○は休日どっか行ったりしてる?」

のような流れで、普通の人は会話を開始させ、継続させることができるのだが、

私の場合は、
「アンコウ鍋を食べた」のような経験や、
「アンコウ鍋を食べたい」といった欲求がないので、このような布石を打つことができない。結果、

「(唐突な流れで)…休日何かしてる?」
「ん!?…えっと、そう言えばこの前○○したかな」
「へえー」
「うん…亀井はどうなの?」
「えっと…分からない。そう言えば自分、休日何してるんだろ…」
「…」
「ごめん…何しているか覚えてない…」
「…じゃあ、何かしたいこととかないの?」
「えっと…特には…」
「ええ…」

のように、どうしても、会話が不自然で微妙な雰囲気になってしまう。

こうした課題に直面した私は、自身がこれまでの人生で一体何を考え、どのような価値基準によって自らの行動を選択してきたのかということを改めて深掘りし、それらを会話に活用していく必要があると考えた。

会話力向上のため、私は過去の自身の行動を深掘った

だから私は、自身が生まれてから今に至るまでの自身の行動を振り返り、「なぜ・どのような基準に則ってそのような行動を取ったのか」を深堀っていった。

しかし、実際にやってみて思い知らされたのだが、私の過去の行動動機の殆どが「人から否定されたくないから、○○を選んだ」だとか、「自分が恥を掻くのが怖いから、○○をしなかった」とか、「人から○○と言われたから、その通りにした」等のように、自発的に為された行動というものが非常に少なかった。

その上、数少ない人生経験に対しても「自分の考えや感じ方を持たない」がゆえ、特にその経験が糧となって今の私を作り上げている…と言えるような現在へと続くストーリーを殆ど見出すことはできなかった。たとえ人が滅多にしないような貴重な体験をしていようとも、「それをただ体験して、そこから何も得ることがなく終わってしまっている」ように見受けられるものばかりだった。

すなわち、「私」という人間は何から何まで、ただ「眼前の人からどう思われているか」や「人から否定されないか」、「笑われないか」、「傷付くことにならないか」といった不安や恐れに支配されており、自身のあらゆる行動はその不安や恐れから逃れたいがために取られたものばかりだった。それらをどんなに深堀ったところで、「つまり私は一体、何なのか?」といったものは見えてこない――見えるはずもなかった。

振り返れば私は、度々物凄い「空虚感」に襲われることがあった。日常生活の中で、何の前触れもなく突如心に冷たい風が吹いたかと思えば、その刹那、底なしの絶望感に襲われ、フッと、「このまま生きていたくない。消えてなくなってしまいたい」という空虚な感覚に、幾度となく陥らされていたものだった。

私は、自分の人生を生きていなかった。自分が確かにここにありながら、その存在を無視し続けた結果、自分が自分でなくなり、その帰結として、生きているのが嫌になるほどの、空虚な人生を送ることになってしまったのだった。

私は思った。実際、私という人間に、魅力がないのではない。私という人間の魅力が表に出ていないことが、一見して私を魅力のない人間たらしめているのである。ちゃんと自分の欲求に気が付き、その欲求を実現させる過程で様々な経験を積み、それら経験に基づいて自らの価値観や考え方を形成していき、私独自の「個性」を持つことができたのなら、それはもう立派な「魅力」になり得るのだ。そしてこれは、私以外の人間全てに言えることでもあるはずなのだ。希望を捨ててはいけない。諦める必要など決してない。

これまでの人生において「自分らしさ」を見出せないのなら、これからの人生においてそれらを見出していけば良いではないか。そしてそれらを見い出した暁には、きっと自らが魅力ある人間であることを、世に示すことができるようになっている。

私は、自身の「欲求」を目覚めさせることから、始めてみることにした。

自分の感じ方が分からない私は、自身の僅かな心の声に「いいね!」を返した

私が自分の思いや考え、感じ方を持たないのは、長いこと自身のそれを抑圧し続けてきたからだ。であるならば、これまでしてきた抑圧を解放してあげれば良い。

私は、自身の心がワクワクするような事柄を探し始めた。スマートフォンを手に取って、すぐさま検索エンジンで「趣味 種類」と検索して、出力された結果それぞれについて「興味が湧いてこないか」、「それを見てワクワクしてこないか」を、自身の心に問い掛け続けた。

「グランピングはどう?」
「ミュージカルっていうのもあるらしいよ」
「ボルダリングとかもあるよ」
「スーパー銭湯は?」
「座禅は?」
「公園散策は?」
「フラワーパークは?」
「アフタヌーンティーは?」
「バンジージャンプは?」

等々、それらの中から少しでも心躍るワードがないか、自身に確認を取り続けた。

そして、僅かでも心が動けばそれに対して「いいね!」を返した。ひとまず、そこに一切の批判を禁止した。「ディズニー」のワードに心が躍れば、「それ、いいね!」と返した。「スイーツビュッフェ」のワードにワクワクしたら、すかさず「それもいいね!」と返した。髪型を変えたいことに気付いたら、ホットペッパービューティーで理想の髪型を探し、気に入ったものがどんなものであっても無条件に「いいね!」を返した。こうして、心の奥底に眠っているはずの自身の欲求を、感情を、次々に掘り起こしていった。

「いいね!」だけで終わらせず、「実際にやってみようよ!」と励ました

続いて、心躍った事柄に対しては「出来る限りそれを実現させること」を意識した。ディズニーに行きたいなら、パスポートを買って実際に行っちゃえば良い。スイーツビュッフェを体験したいなら、予約を取って実際に食べてくれば良い。理想の髪型があったなら、美容院を予約して実際にその髪型にしてくれば良い――。

そのようにして、

願望する→それを実現しようとする→その過程で様々な経験をする→そこから感じ取ったことを記録し、経験値にする→その経験値を自身の価値観や人生観に昇華させ、「個性」を育てていく

…というサイクルに乗せることに努めていった。

自身の願望を実現させるために、昼夜問わず働いた

次に私は、自身の願望を実現させるための軍資金稼ぎに勤しんだ。

私は貧学生の身であるから、経済的に余裕がなかった。従って、派遣やアルバイトを掛け持ちして昼夜・年末年始・土日問わず、休みなく働き続けた。僅かな空き時間や休憩時間には、大学の課題や会話の学習をコツコツ行った。短時間睡眠が何日も続き、この期間は体力精神共に正直、滅茶苦茶キツい思いをしたが、これまで味わった「悔しさ」をバネに堪え続けた。

その甲斐あって、結果的に自身の正社員時代を遥かに凌ぐ収入を得ることができた。
更にその過程において、様々な経験をすることができた。その都度、そこから何を感じ取ったか、どんなことを考えたか、それらのことを他者との会話の中でどのように活用できるか、といったことを記録していき、「価値観の形成」や「コミュ障改善」に役立てるよう努めた。

軍資金を使って願望を実現し、その経験を会話力向上に役立てた

軍資金が貯まったらそれらを投じて、自身の心が欲求した体験を積み重ねていった。

ディズニーシーに行った。USJに行った。その過程で、格安航空の存在を知った。カプセルホテルで睡眠不足に陥った。夜行バスの後単発バイトを入れて死にかけた。都心の美容院へ行って髪型を変えた。セレクトショップやファッションブランド店で服を買った。エイジングケアに関する知識をアップデートし、常用しているサプリメントを変えた。医療脱毛をした。シュラスコを食べた。ジャズバーへ行った。48℃もある温泉に入った…等々。

加えて、これらの経験を通じて、自らの「感じ方」を内省した。

「ソアリンは泣きそうになるほど感動したな」
「どうやら自分はスリリングなアトラクションに乗っているとき凄く楽しみを感じるな」
「カットによって陰キャっぽさが少し抜けたのは良かったし、髪型を変えることって凄く大事なんだな。そうしてみると美容師って人に夢を与える仕事だよな」
「どうやら自分は『きれいめ』のファッションを好む傾向にあるんだな」
「シュラスコではピッカーニャという部位が柔らかくて特に美味しかったな」
「48℃のお湯は相当の苦痛を味わう上に火傷までしかけたけど、入浴することで漢気だけは磨かれるな」

等、その場で感じたことを記録していった。

そして、そこでの経験や感じ方を人との「会話」に役立てるためにはどうすれば良いかを考え、具体的なスクリプトを作っていった。例えば「USJに行ったこと」を布石として、

「そう言えばこの前USJに行ってきたんだけどさ」
「えーいいじゃん」
「でしょ。俺ああいうテーマパーク的なところ凄く好きなんだよね…でも、USJってここからは結構遠いじゃん?」
「そうだね」
「そうそう。だから全然行けてなくて…。で、ちょっと前にニンテンドーワールドもできたことだし、ちょっと行ってこようと思って行ってきたんだけど…」
「なるほどねー」
「てか、○○はUSJとか行ったりするんだっけ?」
「」←ここでの相手の返答によってその後の展開を変えていく

といった感じで、自分から「話題」を生み出すことのできるようなスクリプトを一つ一つ、作成していった。

実際、「48℃の温泉に入ったことを」を布石にして、

「そう言えばこの前48℃の温泉に入ってきたんだけどさ」
「48℃!?」
「そう48℃。栃木県の鹿の湯ってところなんだけど、行ったことある?」
「いや、ないな…」
「そっか。強烈だよ、48℃は。火傷寸前。1分も入っていられないし、出た時なんて身体が真っ赤っか(笑)漢気だけは鍛えられるけど、『もう二度といいや』ってなる」
「笑」
「…○○は熱い温泉入ったりする?…てか温泉行ったりするの?」
「うーん…あんまないかな」
「そうなんだ…デートとかでもあんま行かない?」
「あーそう言えば露天風呂付きの部屋のある宿をとって栃木行ったな」
「そうなんだ!めっちゃ良いじゃん!…那須?」
「そうそう」
「那須良いよね、温泉いっぱいあるしね…じゃあ、彼女と『温泉入りたいね』みたいな感じになって、行ったんだ」
「ていうか、『男女別々で温泉入るんじゃあ、一緒に旅行する意味ないよね』ってことになって…そんで露天付きの部屋を取ったんだよね」
「あーそういう基準で決めたんだ」
「そうそう。その宿を決めてから、『さてどこに遊び行こうかな』ってことになって、逆算して遊ぶところを決めていって…」

のような感じのやり取りを、友人との間に展開することができるようになったときには感動を覚えたものだった。「あ、今自分で話題を作り出して、会話を継続できた!」と、自身が少し前進していることを実感することができた。

良いことばかり書いてしまったが、自身はまだまだ“ひよっこ”である

このように、私はこの数ヶ月という期間を使って、

自身の欲求を堀り起こす→それを出来る限り実現させる→その過程で様々な経験をする→そこから自らの感じ取ったことを記録する→その記録を使って会話のテンプレートを作成する

というサイクルを回して、自身の「個性」の確立、ならびに「コミュ障」の改善を試みていた。このような事情があって、ブログの更新が長らく途絶えてしまっていた。

短期間で随分色々なことをやった気がするが、それでも私は今も尚、自分のことがよく分かっていないし、コミュ力にだって乏しいままである。たった数ヶ月の行動で劇的な変化など起こるはずがない。私はまだまだ、「自己喪失したコミュ障」である。これだけのことをしても、「普通の人」の足下にさえ及ばない。それほど私の陥っている事態は深刻である。

が、現在も私の胸には強烈な「悔しさ」が渦巻いている。「魅力ない人間」の烙印を押され続ける人生に終止符を打ちたい――そんな欲求に溢れている。そうした熱意を原動力に、これからも引き続き鍛錬を継続し、きっと「個性」を確立させ、「コミュ障」も改善し、「この人は芯があって信頼できる」「この人は話していて心地よい、もっとこの人と話していたい」と思われるようなコミュ力と人間性を備えてみせる、そんな意気込みで燃えている。

最後に

「魅力のない人間」はいない。一見その人に魅力がないように感じられてしまうのは、何らかの事情によってその魅力が隠れてしまっているか、もしくはその「出し方」が上手くいっていないせいで、人様に、そこに確かに存在しているはずの魅力が十分に伝わっていないから…というだけの話なのである。

自らその発掘を試み、表出の仕方を工夫し続けることさえできるのならば、きっと人は自らの持つ魅力を存分に外界へ発せるようになり、内外両面から、自らという人間を最大限に、輝かせることができる。

4件のコメント

  1. 鶏さん、お久しぶりです

    この記事を読んで改めて鶏さんは改めて努力と根性と変わりたい想いの強さを最大限リスペクトします
    先ず、日夜問わず色んな環境で働き続けて正社員を超える金額を稼ぐのは幾ら休みがあっても中々出来ることではないです
    そこで貯めたお金を経て行きたい場所に行き、やりたいことをやる、強い意志を感じましたし、凄く充実したことでしょう

    僕は飲食店でバイトし始めた22歳だった頃を思い出しました。内気でいつもオドオドして、ストレスが溜まると急に癇癪を起こしたりするので、同級生には不気味に移り、まともに人間関係を構築出来ず、受験と部活の世界しか知らなかった僕が飲食店に挑戦したのは画期的な取り組みでした。

    今でこそ器用さと対応力と処理速度が自分の強みだと気づき、そこを活かして転職してコールセンターで働いていたり、同期から貴方の能力なら仕事すぐ覚えられて楽しいんだろうなとか言ってもらえたりしてますが、実は最初、飲食店のアルバイトは全然ダメで(実はその前に働いた営業のバイトは、契約取れない、仕事が覚えられない、同僚との人間関係が築けないの3重苦でクビ、次に働いたネカフェのバイトは無能ムーヴをかまして、店長に嫌われて居づらくなり3ヶ月で退職という経歴もあります)、店長には注意され続け、先輩にはテンパリ過ぎだと言われ、バイトリーダーには怒鳴られ、「俺の何がわかるんだよ!クソ」って思いながら働いてました

    僕は小さい頃からご飯を食べることが好きで、漠然と飲食店で働きたい思いが高校生の頃からあったので(学業と校則を理由に親の反対で断念)、挫けそうな時は、やっと働ける時が来たんだって言い聞かせてやってました

    実は僕もこの歳になり、旅行にハマったりしてます。理由は、行きたいと思った場所は行かないと勿体無い気がするからです。

    大変我儘な願いかもしれませんが、鶏さんとは色々話してみたいことがありますので、いつか通話でお話し出来る機会があればと思っています。詳しくは別途DMにてお伺いさせていただいてもよろしいでしょうか。メールアドレスを貼り付けてますので、メールでも問題ないです。送っていただけると助かります。

    長文失礼しました。これからも鶏さんの人生に幸多からんことを臨みます。

    1. 4ヵ月以上返信ができておらず申し訳ありませんでした。ブログを訪ねる時間を作ることができておりませんでした。
      大学院に入学してから私の方も色々なことがありました。ご連絡の件ですが,こちらからメールをお送りします。全然確認しておらず申し訳ありませんでした。今後とも当ブログをよろしくお願いします。

  2.  お久しぶりです。愚学生です。会社からせっかく退勤したものの、終電を乗り過ごして、夜桜を見て、何となく思い出して、訪れました。桜が咲くのを見ると、何とも言えない季節になりましたね。就職が予想以上にうまくいった大学院の春、地帝に院進に期待していたころの大卒の春、一方で、仮面浪人に失敗し続けた大学生の春、A判の地帝に不合格になった現役生と浪人生での春ですね。就職しても過去を引きずってばかりで恥ずかしい限りです。
     いい未来が見えないと過去ばかり思い出したがるからかもしれませんね。毛のふくろうさんの現在を見ていると、私も同じような悩みがあります。詰める社風にマッチして辛い仕事でも意欲がもてて、互いに論破する。アカデミックには些か及ばないにしても、大学のような面白さがあると思います。中年やシニアとは比較的に良くしてもらえる一方で、同世代からの評価が割れているのに苦慮しています。仕事で目一杯なのが良くないでしょうかね。
     卜〇夕や≡菱電機でもないのに、残業もして、休日出勤もして、プライベートは気にせずに、仕事ばかりする(100時間くらい残業しているので≡菱電機どころではないですね)。辞退したマスコミに心残りがあるからか、時折マスコミを選ばなかった後悔がある。自らの立場が不安になり、会社や上司には内緒でも、転職活動を進めており、再受験並みの混迷した状況になっている(人気のア社に転職で受かったのですが行きませんでした、最近になってア社がリストラを始めて複雑な気持ちです)。こんな感じでしょうか。若手になるほど、あまり信頼関係が築けず、親しくなれるのは相当の逸材か、変わった人ばかりです。人間関係で悩んでもどうしようもないことですが、このまま働いていけるのか不安です。
     自身でも思いたくないことですが、お金もある程度溜まってきたので、窓際になるよりは再受験で医者になろうかなと思うこともあります(実際は、英語以外の学力がかなり下がっており、大学受験に耐えれるか怪しいものですが)。本当に受験の弊害が現在進行で現れ、人間関係で悩むとは思ってもおらず、社会って難しいものですね。

    1. お返事が4ヵ月近くできておらず申し訳ありません。こちらのブログをチェックする時間を全く捻出できておりませんでした。
      医学部再受験を検討される瞬間もあるとのことですが,その後はいかがお過ごしでしょうか。医師と心理職とではまるで勝手が違うとは思いますが,私はとても自身が心理職として(いわゆる知能水準の低さゆえに)向いているとは思われないまま大学院に入学した身でありながら,「向いていないと思われる部分は努力かその他能力で補う」をテーマに,必死で食らいつこうと頑張っています。やらない後悔よりやる後悔の方が,後々自身を納得させる上では望ましい選択肢なのかなと思いながら。愚学生さんにも,色々な選択肢があって良いのではと思いたいですが,やはり医師となるとまた別問題なのでしょうかね。

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