自身の不機嫌の原因が分かる人は恵まれている

 

1.いつも不機嫌そうにしている人達

障害福祉の仕事をしている今日の私は、当然のように知的障害者と関わることが生活の一部になっているわけだが、彼ら彼女らと関わる中で、「いつも不機嫌そうにしている人」が存在していることに嫌でも気付かされる。そのような「いつも不機嫌そうにしている人」は、毎日のように何やら不満げな表情をしており、何かにつけて職員にその不満をぶつけている。その不満の内容は人によって様々であるが、ざっくりとその内容を一括りにするなら、「私が今不機嫌なのは○○が原因なのだ」という主張である。簡単な言葉のやり取りのできる人である場合、このような主張によって、何故、今、自分が不機嫌であるのかを教えてくれることがある。
そのような主張に対し、施設側は対応できるものであれば、しっかりと対応する。すなわち、本人の主張している“不機嫌の原因”を一先ず取り除いてみせる。しかし、これによって本人の表情が晴れることは稀である。彼ら彼女らが主張した「不機嫌の原因」は取り除かれたものの、今度は別の「不機嫌の原因」を主張し始める。「○○については解決したけれど、まだ△△が解決していないじゃないか」というわけである。またそれとは別に、折角、本人の主張していた「不機嫌の原因」が取り除かれたにも関わらず、それが取り除かれたことに対する不満を漏らす人すらいる。「不満ばかり言っている私をどうせウザいと思っているのでしょう」とか、「私のためにそこまでしないでよ」とか、「○○は別に無くさなくてよかったのに」といった不満がそれに該当する。このようにして、一つの問題が解決してもまた別の新たな問題を持ってきては、その問題を理由にいつまでも不機嫌でいるのである。「私はチョコレート味を食べられないから不機嫌なのだ」と言われ、必死にチョコレート味を渡すと今度は「ミント味がないから不機嫌だ」と言われる。そうしてミント味を渡せば次は「ストロベリーはどうした」と、こう来る。その人の要求をいくら満たしたところで、その人の不機嫌は直らないままなのである。そうして“それを与える側”の人間としては、「この人は何てワガママな人なのだろう」と思う。そのようにして「いつも不機嫌な人」は、いつまでも人間関係に軋轢を抱え続けるわけである。

2.表立って主張される理由は本当の理由ではない

このように、「いつも不機嫌そうにしている人」がどんなに自身の要求を満たされても不機嫌のままでいるのは、「その人の表面に表れている要求が全て通らないこと」そのものが、その人にとって本当の不機嫌の原因というわけではないからである。「いつも不機嫌そうにしている人」は確かに不機嫌を感じているのであるが、実は、その“根本原因”となるものは本人の「ストロベリー味が食べられないから」等の主張の中身にあるのではなく、別のところに存在しているのである。私は、こうした人達が抱えている真の欲求不満の正体は、その人が幼少期の親子関係で獲得した「愛情飢餓感」であると考えている。つまり、「いつも不機嫌そうにしている人」はその幼少期、自分が望むように親に甘えられなかったことによる「愛情飢餓感」を感じていて、その「愛情飢餓感」が、上に挙げたような種々の人生に対する苛立ちとなって、様々な社会的不適応を起こしていると考えているのである。ちなみにこれは、私の関わる彼ら彼女らに限った話ではなく、「どういうわけか生きづらさを感じる」「どういうわけか人生に対して常に漠然とした不満を抱えている」等といった“不幸せな感覚”を持つ人(健常者含む)も同様にして、心底に「愛情飢餓感」を抱えている可能性が高いと考えている。

3.その人の抑圧した「愛情飢餓感」が漠然とした不機嫌を誘発する

人間は、生まれながらにして「幼児的願望」を持っている。幼児的願望というのは、幼児の頃に自身の親に向けて発信される要求のことであり、具体的には、「私を愛して」「私だけを見て」「私だけを構って」「私が泣いたら必ず面倒を見に来て」という際限なき要求である。人は幼児の頃に、このような自身の要求を親から満たされることによって「自分は愛されている」という感覚を持つようになる。このようにして自身の幼児的願望の満たされた人間は、愛情に満たされた人間となり、「自分は愛されるべき価値ある存在だ」という、自分の存在に対する自信を持つようになる。それと同時に、「自分の身に危険が生じたときには親が守ってくれる」という安心感を得るようになる。こうした、自分に対する自信、世界に対する安心感があるからこそ、愛情で満たされた人は他人と臆せずコミュニケーションを取ることができるし、自分らしさを前面に出してこの世界を渡り歩くことに抵抗がない。自分の存在を損なうような人と関わることを避けることができ、そうして自分の特性を社会の中で上手に生かしながら、自分を認めてくれる人達に囲まれた環境で幸せに生きることができる。
しかし一方で、この「幼児的願望」が満たされないまま大人になってしまう人達もいる。幼児の頃に親の愛情を求めたとき、親が自分の思うような愛情を与えてくれないことで、自身の内面に欲求不満が生じる。その欲求不満こそが、自分の思うような愛情を得られなかったことに対する「愛情飢餓感」であり、愛情飢餓感を抱えてしまった人間は、「自分は愛されるべき価値ある存在だ」という感覚を持てない人間として育ってしまう。その上、そうした自己不信感は「この世は自分を傷付けようとするような存在で溢れている」という他者不信、世の中に対する不信感を誘発する。こうなってしまうと、この世界が、自分を傷付けようとする人間で溢れかえった、その上そのような危険から自分以外に守ってくれる人の居ない地獄のような場所として認識されてしまう。
愛情飢餓感を抱えている人にとっては、幼少期の家庭も、自身の安心できるような場所ではなかった。親に気に入られるような言動を取らなければ見捨てられるのではないか、親の期待に応えられなければ見捨てられるのではないかと怯え、親への発言には十分注意し、不意に何かが親を不機嫌にしてしまったのならば必死に親の機嫌を取って、自分の本心をひた隠し、自分の本心に嘘をつき、自分の本心を裏切り、親の意向を必死に汲み取り、親の不都合になるようなことは自分の要求であっても敢えてせず、親にとって「都合の良い子」を演じなければならないような環境が「家庭」であったような子供は、更に「愛情飢餓感」を蓄積させていく。本心では「愛情」を求めている。本当は自分を無条件に愛して欲しい。本当は自分の気持ちを必死に汲み取ろうとして欲しい。本当は自分に「あなたは世界で一番の子だよ」と言って欲しい。本当は何にも目をくれずに自分だけを見ていて欲しい。本当は兄弟よりも自分を一番に構って欲しい。しかし、このような愛情欲求は叶えられることはなかった。そのような、“叶えられることのない欲求”を抱え続けながら生活を送っていくことは非常に苦しいことである。満たされぬ愛情欲求をいつまでも意識して日々の生活を送っていくことは、本当に“死んでしまう”くらいに苦しいことなのである。そこでその苦しさへの対処(防衛機制)として、自身の胸の内にある愛情欲求を無意識の領域に押し込め、なかったことにしようとするのである。これを「抑圧」という。自身の胸の内の「愛情欲求」、「愛情飢餓感」を抑圧することによって、満たされぬ愛情欲求を抱える苦しさから逃れようとするのである。しかし、いくら「抑圧」をして愛情欲求が意識に上らないようにしたところで、自身の抱えている愛情欲求、愛情飢餓感はなくならない。意識には上らなくても、自身の無意識において、幼少期に満たされなかった愛情は渦巻いており、それがジワリジワリと、自身の人生を無意識に支配し続けている。そうして無意識的に、愛情欲求の充足のために人からの愛情を求めようとするのだが、この世界にそれを満たしてくれるような他者はそうそう存在しない。自身の満たされなかった幼児的願望を他者に満たして貰おうとしても、その他者は「君はなんてワガママな人なんだ」と言って離れて行ってしまう。そこで欲求不満は溜まったままになる。こうして、決して充足されることのない欲求に対する不満が、「いつも不機嫌そうにしている」という形で表面化することになるわけである。
またはその人が、自身を愛してくれなかった親に対する敵意を抑圧している場合もある。自分を愛してくれず、それどころか不当な仕打ちを与えた親のことは憎い。けれども親からはやっぱり好かれていたい。このようなアンビヴァレントな感情が親への敵意を抑圧させる。そしてその敵意は外部の別のものへと投影(正確には投影同一視)される。そうして「いつも不機嫌そうにしている」という形で表面化することとなるわけである。
「いつも不機嫌そうにしている人」は、どうして、自分が“わけもなく”こんなに毎日不機嫌なのか、人生に対して不満なのか、自分の置かれた環境が好きになれないのか、他者に対してこうも過度に緊張していなければならないのか、自分は客観的に幸せを感じていても良い身分であるはずなのに微塵もそれを感じられないのか、という理由が分からない。分からないけれども、どういうわけか苛々している。漠然と不機嫌である。そこで、その正体不明の苛々、不機嫌の原因を、その“核心”ではない、周囲にある色々なもののせいにしてみるのである。例えば、「ストロベリー味がないから私は不機嫌なのだ」と言ってみる。「皆が私に不親切にするから私は機嫌が悪いのだ」と言ってみる。「給料が安いから不満があるのだ」と言ってみる。「イタリアンに行きたかったのに中華に連れて行かれたから機嫌が悪いのだ」と言ってみる。「すぐに返信をくれないのが気に入らない」「雨だから気に入らない」「時間通りにバスが来なかったから不機嫌だ」等と言ってみる。しかしそれらは彼ら彼女らの不機嫌の本当の原因ではない。彼ら彼女らの不機嫌の本当の原因は、彼ら彼女らによって無意識の領域に抑圧されている、幼少期に満たされなかった「愛情欲求」、「愛情飢餓感」に対する不適応の結果である。

以上が、「いつも不機嫌そうにしている人」の真の不機嫌の理由に対する、精神分析的な私の考察である。本当に彼ら彼女らが望んでいるものは私達の知るところではないのだが、取り敢えず私は「いつも不機嫌そうにしている人」と関わることになった際は、その人の表面上の「要求」よりも、その背後にある「愛情欲求」に目を向けようと心掛けている。そうすると、これまで「とんでもないワガママ人間」に見えていた人も、実は根底では愛情飢餓感を抱えていて、その欲求不満の正しい発散方法が分からないから、このような際限なき要求が続くという形を取っているのだという認識ができるようになり、私自身、彼ら彼女らの言動に大きく振り回されることが少なくなった。このことは私の対人関係スキルにおける、大きな前進であると考えている。

4.自身が不機嫌になっている理由の分かる人は恵まれている

こうしてみると、自分が不機嫌であることの理由が分かっている人は、実は恵まれているということが分かる。本当に「給料が安い」という理由で不機嫌になっている人は、給料の安くない職場へ転職することで不機嫌でなくなる。本当に「イタリアンに行きたかったのに中華に連れて行かれ」て不機嫌になっている女性は、イタリアンに連れて行ってもらうことで不機嫌でなくなる。本当に「時間通りにバスが来なかった」ことで不機嫌になっている人は、バスが時刻通りに来た日には不機嫌にならない。しかし、自分がどうして不機嫌になっているのか分からず、その理由を無理矢理、周囲の物事のせいにしようとしている人は、給料の良い職場に入っても、イタリアンに連れて行ってもらっても、時間通りバスが来ても、心は晴れない。漠然とした苛々、不機嫌はなくならない。自分の不機嫌の理由に気が付くことがいかに人生の充実に欠かせないか、これで分かっていただけたかと思う。
自身が望んでいるものに関しても同様である。自身が本当に「お金持ちになること」を望んでいるならば、お金持ちになることで精神的に満たされる。本当に「社会的評価を得ること」を望んでいるならば、社会的評価を得ることで精神的に満たされる。しかし、愛情飢餓感から「そのままの自分が愛されること」を心の底(無意識)で望んでいながらも、それを望むことが格好悪いからといった理由で、お金持ちの身分や社会的評価を得て、そのステータスによって人から愛されようと試みても、またはそれによってどうにか誰かからの愛情を得られたとしても、心は満たされない。そういった人は、自分の本当に望んでいるものが「お金や名声のある自分を愛してくれる人」ではなく、「お金も名声も何も持っていないそのままの自分も丸ごと愛してくれる人」や「自分の満たされぬ幼児的願望を満たしてくれる人」であると分かっているならば、愛情を得るためにお金や名声を強迫的に得ようとする活動を一旦休止し、自身の抑圧した愛情飢餓感と徹底的に向き合うことが、現状打開という点で肝心になってくる。ただ、残念ながら「何もないそのままの自分を愛して欲しい」という幼児的願望は恐らく高い確率で叶えられることはないだろうと予想される。というのも、自分の子供でもない、しかも大人にもなっている他者の「幼児的願望」にしっかりと付き合っていられる人はそうそう存在しないからである。幼児的願望とは極めて自己中心的な要求であるが、そのような要求を恋人のような近しい人に四六時中続けられたのでは、その人が精神的に参ってしまう。それは、「自分のことだけ構って」「自分のことだけ見て」「自分以外の人間とは関わらないで」といった幼児的願望の充足を恋人や配偶者に求めることで、恋愛、結婚生活の破綻してしまった人達の実例を見ていただければ、その理由も分かっていただけることと思う。

これは私自身にも言えることなのだが、自身の抑圧した愛情欲求、愛情飢餓感を意識上に引っ張り上げ、その苦しみと徹底的に向き合っていくという作業は大変、苦しいものである。しかし、この「自身の真の欲求と徹底的に向き合う」工程なしに、健全な人間関係の形成や健全な社会との関わりの維持が保たれないことを考えると、「やるしかない」という気持ちにならざるを得ない。まずは自分の本心に気が付くこと。そして、幼少期に満たされなかった愛情欲求は、自分で満たす努力をすることが大切である。自分で自分の存在を肯定し、愛せるように、他者は自分を傷付けるだけの存在でないことを認識できるように、日常生活の中で、意識的に努めていきたいものである。




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