「仕事」を言い訳に責任逃れを続ける人生


 
 

「夢追い人」の抱える重責

私には人生の目標がある。それは、

「自己否定感に悩める人々の力になる」

という目標である。これは夢追い人が口々にする
「俺はいつかBIGになる」
という主張と、内容はさほど変わらない。つまり今の私は、ある意味で、夢追い人と同等の思考を持って生きている。

自分の興味あることを仕事にし、それを軸に生活できたら…といった想像を膨らませると、途端に自身の未来が輝き出す。「人生は虚しさばかりでない」ことを、気付かせてもらえた気分になる。

しかし、実際にこうした人生の目標を立て、それを実現させようと試み始めると分かるようになることがある。「夢を追う」という行為には、相当の馬力が必要になるという気付きである。

一つに、自分の興味あることで生活していこうとするには、スキルアップのための努力が、日々欠かせない。世の「成功者」と言われる方々の努力量は、凄まじいものである。
日常の多くを犠牲にして、自身のスキルアップにお金と時間を惜しみなく投じていくことは、必要不可欠となる。

次に、「自分の興味あることを仕事にする」ためには、決して自分の興味あることだけを究めていれば良いというわけではないため、付随して生じる種々の面倒な雑事にも、手を抜けないということである。興味あることを仕事にするためには、同時に、興味のない面倒な雑事にも最低限の時間・お金を投資しなければならない。

そして最も馬力を必要とされるのが、「自分の人生を自分の責任で選択する」ことに対する重責がのしかかることである。自分の人生を自らの選択によって決定させていく自由というものは、一見すると大変、都合の良いことのように思われる。
しかしその実は、心理的に相当の覚悟の要される、重たい選択である。自分の人生に自ら責任を負うことは、その先に待ち受ける苦悩を自分で真正面から受け止めることを、覚悟することだからである。

この先に待ち受けている様々な苦難に、自分の責任で真正面から対峙することは、精神的にかなりのタフさの要求される、大事業である。これは何も「受難」だけに限らず、何をするにしても、「自分の責任」でなく、「他の何かの責任」に帰着させていた方が、精神的にはずっと楽というものである。

「自分の人生がイケていないのは、自分以外の別のところに責任がある」

――そう責任転嫁いいわけできることは、精神安定に一役買う。

「自分が夢を追えないのは、自分自身、夢を追うことに伴う責任の重圧に耐えられないからだ」

とするよりも、

「自分が夢を追えないのは、それ以外の日常雑事で忙しく、そこまでなかなか手が回らないからだ」

とした方が、精神的にずっと楽である。就職活動で例えると分かりやすいかも知れない。面接で落とされた企業に対し、

「自分の○○がいけなくて落とされた」

と考えるよりも、

「あの企業はなっていない」

と企業批判に走った方が、(ショートスパンで捉えると)精神的には安寧である。
自らの人生の責任を自分自身に帰着させることは、それだけでも莫大なエネルギーを消費する上、精神的なストレスにもなる。下手をすると、自己否定感に苛まれ、自我(心)が不安定になってしまうかも知れない。なるたけ、自分以外の要素に、責任を負ってもらいたいと考えるのが普通だろう。

さて、そうしたやや軽率じみたニーズと相性ぴったりの言い訳がある。それが、

「仕事が忙しい」

の一言である。私もその一言にすがり、自分で人生の責任を負うことから、逃げ続けている人間の一人だ。

 

仕事があるから夢を追えない?

確かに、1日最低9時間、通勤や通勤準備まで含めれば、更に多くの時間を仕事に割かねばならぬ環境においては、自身の思い描いている理想の人生プランをスムースに進行させることが、難しくなる。私も仕事が無ければ是非、手を付けたい事柄というものが沢山ある。あり過ぎて困るくらいである。常々、一日の大半の時間を日々「労働」に割かねばならない現状を嘆いている。仕事が無ければ、どんなに日々が充実するか、分からない。そう思っていることは、確かだ。

ただ、それは半分事実であっても、もう半分の方は、事実でない。私は仕事に忙殺される自身の生活を嘆きつつも、一方で、仕事から一種の「精神的安寧」を得ている。それは、
「“仕事が忙しい”という大義名分さえあれば、自分の人生に自分で責任を負う必要がない」ことへの安寧であり、
「仕事さえしていれば、夢を負う必要がない」
ことへの安寧である。私は、夢を追うことが、怖い。自分の意思で目標を立て、その実現に向け、自分の責任で生活していくことを、とても恐ろしいものと感じている。

例えば、私が今の仕事を辞め、勉強に専念できる生活を得たとする。きっと初めの方は、その生活がとても充実することだろう。1日24時間を、自分のためだけに使うことのできる環境は、喉から手が出るほど欲しかったものだからだ。
しかし、時間の経過と共に、ある不安が鎌首をもたげることになるだろう。

「この勉強は果たして、実を結ぶのか?」
「再就職先はあるのか?」
「そもそも夢への情熱は鎮火してしまわないか?」

といった不安である。これらの不安が不幸にも的中し、自分の人生が、仕事を辞める以前よりも凄惨なものになったとする。その人生に責任を取るのは、他ならぬ自分である。誰も助けてはくれない。自力で、地から這い上がる必要がある。そして何より、そのようになってしまったことの責任を、自身に求め、そのショックに、自分ひとりで耐えなければならない。そんなことができるのか?私には、その自信がない。

しかし、だからと言って、このままこの先何十年と仕事に忙殺される日々を送るというのも、甚だ具合が悪い。私はやはり、「自己肯定感」という概念を軸に、仕事も、プライベートも、充実させていきたい。その願望を抑圧し、今の仕事を継続していく未来に、あまり魅力を感じられない。出来る限り、身体を壊す前に、現状を変えてしまいたい。

けれども、その先の人生の責任を、自分で負う覚悟はできていない。

そんな進退両難の葛藤アンビバレンスを解消してくれるのが、

「仕事が忙しくて夢を追えない」

という言い訳である。このような大義名分がある限りは、自分の人生に責任を負う覚悟を持てずとも、「だって仕方がないじゃないか」と決断を先延ばしにしつつ、堂々としていられる。
「仕事に時間を取られて、自分のやりたいことができない」――これ以上のものは存在しないのではないかと思われるほど、身近で、立派な大義名分である。

実際のところ私は、仕事から逃れようとしているようで、一方では仕事を求めているのである。まずはそのことを自覚しない限り、事は前に進まない。「本当はやりたいことがあるのに、日常の雑事でそれが捗らない」と言い訳することは、

・自分の人生が冴えない原因を自分以外の要素に帰着させられる点
・自分は本気になればもっと良い環境を手に入れられるのだと自惚れられる点

において、実は非常に、心地良いものなのである。まずはそれを自覚していることが、現状を改善させていく上で、必要である。
 
 

「仕事のせいで」と言う前に

自分の人生に責任を負うことから逃げているだけではないのかと、自問せよ。

そして、自分の人生を自分の責任によって選択していくことが「自己肯定感」を育む上で重要であることを、これまで、どれほど教えられ続けてきたか顧みよ。

答えはもう決まっている。
あと必要なのは、多分、「勢い」だけ。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。