「勉強はムダ」の信念を乗り越えて

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“意味のないこと”に対し、“やる気”が湧いて来ない

――というのは、当然のことだと思います。

少々大袈裟な例えかも知れませんが、「学習生無力感」という言葉があります。生き物は、「何をやっても意味がない/改善されない」と学習した(認知した)事柄に対して、無力感を覚え、無気力の状態に陥ります。

以下のような実験があります。

仕切りにより二分された水槽の一方に魚を入れ、もう一方に餌を投じます。初めのうち、魚は一生懸命、仕切りの向こう側の餌を取ろうとしますが、一向に餌へ辿り着くことは出来ません。次第に魚は、
「ああ、ここで俺が何をやったって餌は取れないのだ」
と“無力感”を強くしていきます。

そこで仕切りを外し、魚が餌を取れるような環境をセッティングしても、魚は餌を取ろうとしなくなります。「どうせ何やってもムダ」という事前の学習により、魚は餌を取ることに対し“無気力”になってしまっているのです。

“意味のないこと”に対し、“やる気”が湧いて来ない。
というのは、かくくのごとく、至極当然なことなのです。

いや正確な言い方をするならば、
“意味のないと思われること”に対し、“やる気”が湧いて来ない。
とすべきでしょうね。
 

2
私にとって「意味のないと思われること」は“勉強”です。私が「勉強」したはずの事柄は、ことごとく頭から抜け落ち、全く身になっていないように感じられるのです。

私の頭は、「視覚情報の処理」と「複数の情報を頭で関連付けること」を苦手としています。

例えば本を読んでいても、本を閉じたその瞬間に、その内容は頭から抜けています。

私は2~5(冊/月)の頻度で本を読みますが、すべからく、読んだ本の内容は本を閉じた瞬間より消え去っています。いいえ、事態はより深刻です。私は試しに読書中、
「1ページ前に書いてあった内容は何だったか」
を思い出そうとしたことが何度もあったのですが、大抵、「1ページ前」の情報すら思い出すことが出来ません。

恐らく、視覚的なワーキングメモリが極端に小さいのだと思います。
「ワーキングメモリ(作動記憶)」というのは「短期記憶」のことで、
「一時的に情報を保持する機能」
を指しますが、特に「ワーキングメモリ」という場合には、
「処理途中の情報を一時的に保持する機能」
のことを指しています。これは私達が「思考」をするのに非常に役立つ機能です。私達が頭の中で「17×13」を
17×13
=17(10+3)
=17×10+17×3
=170+51
=221
と計算できるのも、
「前の計算式を一時的に脳内に保持しながら次の計算を行う」
というワーキングメモリの働きによるものです。

本を読むにしても「ワーキングメモリ」は活躍します。「1ページ前」に書かれた情報を脳内に一時的に保持し、その情報を基に、次のページの情報を処理します。だからこそ本の内容を理解することが出来、「本の内容を理解することが出来」ているからこそ、その本がどういう本だったのか、何が書かれていたのか等、記憶にも残り易くなるわけですね。

もしかするとこの「ワーキングメモリ」とも関連するかも知れませんが、私は「複数の情報を頭で関連付けること」も苦手としています。

数学の時間に「分配法則」を習っても、先ほどのような17×13の計算に応用できるなどとはつゆほども思えませんし、

英語の時間に「英文法」を習っても、それが長文読解や英作文(つまるところ“正しい英語の使用法”)に活きてくることを理解できなかった過去もあります。
(ただ私は「英文法」の実体を知らぬまま、「何だかよく分からないが、“英文法”の試験ではこう書けば点数が来る」という“単純作業”に終始していました。)

おまけに物理で、「導体の電気抵抗は導体の長さに比例する」と習った後、同級生が「イヤホンワイヤー長くすると音質悪くなるよ」と言っていたその言葉の意味も、まるで理解できなかった。仮に私の中で経験的に
「イヤホンワイヤーを長くすると音質が低下する」
と理解していても、それが「導体の電気抵抗は導体の長さに比例する」という知識とは結び付かなかったでしょう。

「複数の情報を意味のあるまとまりあるものとして統合する機能」が脆弱ということで、私は「情報整理」も苦手としています。私の頭の中は、例えるなら無造作に服の収納されたクローゼットのようなものです。必要なとき、必要な服を出すことが出来ない。同様に私の頭は、必要なとき、必要な情報にアクセスすることが出来ない。

私は、こうした「視覚情報の処理」と「情報整理」が苦手なので、学生時代は大変苦労しました。大学受験では悉く「不合格」を突きつけられ、入学した大学でも、周囲の同級生のレベルについていけませんでした。おまけに「勉強」に対するモチベーションや自信も低下しきっていたため、まさに学校のお荷物的存在だったと思います。

私の脳裏に焼き付いているトラウマ的シーンがあります。ある講義の演習時間、周囲の同級生は講義の内容をきちんと理解し演習を順調に進めていくのに対し、私は講義の内容を全く理解できず、演習問題を前にフリーズしていたシーンです。同級生が口々に、
「これは余裕」
「これはこうでしょ」
「これはどうやるんだ…ああなるほど共鳴構造をとっているのか」
と呟いているのを焦燥感と共に聞いていることしか出来なかった、あの地獄のような時間。

私の脳裏には、この体験が根強く残っています。
それ以降、私は本を読んでいようが、教科書を読んでいようが、会議資料に目を通そうが、ネットで記事を漁っていようが、ブログ記事を書いていようが、上手く理解できない箇所があったり、情報をまとめられなかったり、得られた情報を人様に上手く説明できなかったりする度、脳裏に件の体験がフラッシュバックしてきて、

「私以外の人がやればこんなもの簡単に理解できてしまうのだろう」
「私以外の人であればこんなに時間を掛けて読む必要もないのだろう」
「私以外の人なら同じ情報でもっと多くのことに気付けるのだろう」
等、ネガティブな思考が頭を支配するようになります。

その結果、
「どうせ皆より出来ないのだから」
「どうせ勉強したって身につかないのだから」
「自分が勉強するのはムダ」
と、勉強することに意味を感じられなくなってしまったわけですね。

 
3
そもそも「勉強」に意味を感じられないのであれば、勉強なんてしなければいいじゃん
という話になります。幸いなことに今の日本において、生活するのに最低限のお金を稼ぐだけであれば、別に「勉強」なんてしなくても何とかなります。

しかしながら、私はどうしても「勉強」が出来るようになりたい。本で読んだ内容を頭に留めておけるようにしたいし、どこかでインプットした情報を整理された形で脳内に保持しておいて、いざという時に取り出し、応用できるようにしたい。

また人生で困難に見舞われた際、その局面打開の足掛かりをつくることが出来るのも、勉強…というか「自分の頭で考える力」によるものだと思っています。

そしてこれはパーソナルな理由になりますが、私は小さい頃から、「勉強の出来る人」、「頭の良い人」に強い憧れを持ち続けてきました。
今でも私は、物事の本質を見抜き、知識が豊富で、一を以て万を知ることが出来、効率的な記憶術を身に付けている人達に、かなりのジェラシーを感じているのです。

こうした、
「勉強の出来るようになりたい」-「けれども自分は勉強が出来ない」
という理想-現実間のギャップが、

「勉強に意味を感じられないけれど、それでは困る」

といった葛藤を自身に抱えさせているのだと思っています。

 
4
「自分が勉強するのはムダ」という信念は、生来から有しているものではありませんでした。

信じられないことですが、大学入学以前の私は、
「自分が勉強すること」
に意味があると本気で思っていました。勉強をすれば成績は上がりましたし、成績が上がるにつれ何となく、自分の存在価値も同様に上がっていくように錯覚されたものですから、当然かも知れません。

しかしながら、大学受験における不本意な結果や大学入学後の惨状を経て、私の「勉強」に対する意欲は著しく低下。数多くの挫折体験を通じ、結果、「私が勉強するのはムダ」という信念を獲得するに至りました。

そして、こうした信念は、何も対象を「勉強」だけに限定しません。

「勉強はムダ」という信念の根底には「自分の頭に対する不信感」があるわけですから、結果的に、
「自分なんかが頭を使っても殆ど意味あることには繋がらない」
という信念を持っているのと同じことになってしまいます。

最近になって思うのですが、“自身の人生をより良く”するためには、「勉強」、すなわち「自分で眼前の問題について調べ」「自分の頭を使って解決策を考えること」が欠かせない気がしています。

しかし、
「自分なんかが頭を使っても殆ど意味あることには繋がらない」
という信念を持ってしまっていては、たとえ
「自分の人生を良くしていきたい」
と思ったとしても、
「でもどうせ私が頭使って考えたところでどうにもならないから」
と、人生を諦めてしまうことにも繋がりかねません。冒頭にも述べましたとおり、生き物は「意味のないこと」に対しエネルギーを費やすことは出来ないのです。

局面打開のためには、どうにかして、自身の頭に対し抱いている“不信感”を払拭しなければならないと思うわけです。
 

5
「自分の頭に対する不信感」
を払拭するためには、大学受験以降に負ったトラウマの克服が必要です。今回の場合は、自身の頭を信じられるようになるような、「小さな成功体験」を積んでいくと良いと思います。

ただ闇雲に勉強をしたり、頭を使ったりしても、私の場合は「成功体験」を積むことは出来ないでしょう。何故なら、私の脳みそは「視覚情報の処理」、「情報整理」を極端に苦手としているためです。

従って、自身のこうした弱点を認識した上で、工夫をしながら頭を使っていくことが必要となります。自身の中で、比較的処理しやすい視覚情報は何なのか。いかにして数多の視覚情報を、そうした自身の中で処理しやすい情報に変換させていくか。また、どのような保持の仕方であれば、情報を効率的に整理することが出来るのか――こうした対策を、「勉強」や「頭を使うこと」によって講じていくより他はありません。

但し、「勉強」に対する「無意味感」を感じながら、こうした地道な取り組みを行っていくことは困難です。ただ、先に述べた「成功体験」を積むためには、頭全体に染みついた「無意味感」に打ち勝たなければならない。けれども、精神・根性論で「打ち勝て」というのはナンセンスです。恐らく「勉強に取り掛かる」という段で躓いてしまうでしょう。

このような場合は、「構造化」によって解決してしまうのが良いはずです。人の「やる気」に頼らぬ解決策。構造的に、強制的に「勉強」を開始せざるを得なくなる環境を作り出してしまうのです。

効果的だと思われるのは、「この時間になったら“1分”だけ勉強する。それまでは好きなことをしていても良い」と、自身の中で取り決めを行うことです。

あくまで(無意味と感じられる)勉強を「開始」するまでが最も大変になるわけですから、まずはその「開始」に至るハードルを下げてやります。それが「1分だけの勉強」です。「1分」だけなら、どんなに辛いことでも「まあ、1分だけならやるか」という気持ちになって、嫌々ながら取りかかれるわけですね。どんなに嫌でも、「1分」やれば次の時間、好きなことをして過ごしていいわけですから。

で、一旦取りかかってしまえばこちらのもので、やり始めてしまえば、本当に「1分」で勉強をやめてしまうなんてことはほぼないわけです。何だかんだ、最低でも数十分はやるでしょう。その中で、「成功体験」を積み上げるよう努めていく。こうした地道な「成功体験」の積み上げにより、
「自分の頭も使いようによっては勉強がムダにならない」
といった信念を強くすることが出来ればこちらのものです。

「どうせ自分には無理」と思っているよりも「自分にも出来るかも知れない」と思っている方が人生は充実するものですから、一つでもそうした「希望」を増やしていけるよう、頑張っていきたいものですね。

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