「抑うつ」の正体を“身体の疲れ”から考察

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抑うつが強く、ただ
「生きているだけ」
「呼吸しているだけ」
「その場に寝転んでいるだけ」なのに、人生の営みに関する「何もかも」が嫌になってしまって、窮余の一策、全てを投げ出してしまいたくなる衝動――否、「衝動」と表現するには、あまりに勢いと躍動に欠けた「逃避願望」――に支配される、

 
そんな人生を、歩んでいる。

 
ここ一、二年間における私の人生の課題は、上記の
「抑うつ」
を取り去ることにあった。

自身の抱える「抑うつ」の原因として、私がこれまで着目していたのが「自己否定感」だった。

“自己否定感”っていうのは、
「自分の存在に価値なんてない」
と、自分で自分の存在を否定してしまっている心の状態のことなのだけれど、

不運にも、こうした
「自己に対し否定的な感覚を抱えながら生きている人」
というのは、世の中には一定数いて。

「自分は世の中の邪魔者だ」
なんて信念を抱えながら生きている人は、自分で自分の存在を肯定できない分、

“他者からその存在を肯定されること”を、過度に求めてしまう。これが「行き過ぎた承認欲求」へと繋がっていくことが、往々にしてある。

生きるモチベーションを
「自分を楽しませること」「自分を大切にすること」「人生を充実させること」
に置かず、
「他者から承認されること」
それも、
「自身の傷付いた自己像修復のため他者承認を求めること」
に置いてしまうことは、人生に主体性を失うことになる。

自分のものでありながら、主体が自分に置かれぬ人生を送ることは、大変虚しいものだ。

おまけに、こうした動機より生じた「承認欲求」は、どんなに満たそうとも、決して満たされることがない。なぜなら「自己像の傷付いた人」の求める承認とは、
一端の“大人”として得られる社会的な承認(ex.お金持ってるすごーい等の賞賛)
のことでは決してなくて、

親がその子供に与えるような、
たとえ無力でも、役立たずでも、泣いてばかりでも、ただ「生きている」というだけで、その存在が全面的に(自身にとって重要な他者から)「肯定」されるような、無条件の承認
なのだから。

で、このような「無条件の承認」を、親元離れた一端の社会人が獲得することはほぼ不可能であり、どんなに承認――すなわち、傷付いた自己像の修復――を希求したって、決して“本当に求めているもの”が得られることはない。幼少期に十分な承認を与えられなかった大人達は、
「何をしても満たされぬ」
欠乏感から、次第に「抑うつ」感を強めていってしまう。

 
2
上記
「その人自身の背負っている“自己否定感”ゆえに抑うつが強まる」
メカニズムを「自己否定-承認欲求モデル」と呼ぶとして、

私はここ一、二年という期間、ずっと「自己否定-承認欲求モデル」を基に、自身の「抑うつ」について考察してきた。

いや、「自身の抑うつ」の範囲を超えて、ありとあらゆる事象を「自己否定-承認欲求モデル」で説明しようとして来たきらいがある。何でもかんでも「自己否定感」「承認欲求」を軸に物事を考えてきた。

同時に私は、極端な視野狭窄に陥っていた。自身の「抑うつ」の原因を、「自己否定感」、「承認欲求」に帰着させ考察すること自体に関しては大いに結構なのだが、それだけでは行き詰まることがある、ということに気付いていなかった。現に私は、知らず知らずのうちに行き詰まった。いつまで経っても、自身の自己否定感や承認欲求を克服することが出来なかった。

他の多くの事柄に関しても言えることかも知れないが、複雑な要因が絡まった問題を解決するにあたって、どんな有効な策であっても、そればかりに頼った「一本槍」の対処ではまったく心許ない。一つの事象に対し、もっと多面的に考察できるようになっていかなければ、複雑な問題の全体像や、その解決の糸口は見えてこない。

そこで今回は、『眠る投資 ハーバードが教える世界最高の睡眠法』(田中奏多著)を基に、

「強い抑うつ感」に「身体的な疲れが大きく寄与している」その構造について、注目していきたい。“新たな視座”の獲得だ。

3
「身体の疲れは→心の乱れに繋がる」
という理屈は、直感的に理解できる。「寝不足の日はイライラしやすい」というのはその典型だろう。身体が疲れていては、自分に余裕が無くなり、結果心も乱れやすくなる。

では、その「メカニズム」とはどういったものなのか。これは「身体-脳-心 相互作用」の仕組みを理解することで見えてくる。

例えば極端な寝不足等によって身体が疲れると、身体に自律神経失調症のような症状が現れる。吐き気、頭痛、気怠さ、頭がぼーっとした感じ等がそれだ。

こうした「身体のネガティブな変化」が脳に伝わると、CEN,DMN,SNの三つからなる脳内ネットワークにおいて、DMNが優位になる。DMN(Default Mode Network)とは
「ぼーっと考え事をしたり」
「記憶を整理したり」
「閃いたりする」
ときに働くネットワークのことであり、片一方のCEN(Central Executive Network)とはシーソーのような関係にある。CENは、
「集中力・意思」
を司るネットワークのことであり、CENが活性化することによって、何かに集中したり、意思の力を働かせたりすることが出来る。

SN(Salience Network)はCENとDMNを調整する役割を担っている。片方のネットワークが活性化すると、もう片方のそれは抑制される。
つまり、
CENが活性化しているときにはDMNが抑制され、
反対に、DMNが活性化しているときにはCENが抑制されている。
例えば、
「一点集中して仕事をしている状態」は「CEN優位」であり、
「過去の囚われや未来への不安等、思考があちこちに分散され仕事に集中できていない状態」は「DMN優位」ということになる。

DMNは、記憶整理や閃きを司る大事なネットワークである一方で、「思考の分散」を司るネットワークでもある。DMNは「ぼーっとしているとき」に活性化されやすい上、DMNがあまりに優位になり過ぎると、「抑うつ」が強まってしまう。これはDMNが脳の神経伝達物質「セロトニン」(俗名「幸せホルモン」)を消費するためである。セロトニンの減少が、うつ病発症の原因の一つと考えられているのは周知の事実だ。

さて、「身体の疲れ」により自律神経失調症のような「頭のぼーっとした状態」に陥ると、脳内ネットワークの「DMN」が優位となる。
こうした「脳の変化」は「心の状態」に作用する。易刺激性となり、ストレス耐性が低下する。思考力・集中力が低下し、些細なことでイライラしたり、不安を感じたりする。これらによってますます脳内の「DMN」が活性化。セロトニンがバシバシ消費され、抑うつが強まっていく。と、こういう仕組みだ。

昨今、世間を騒がせている「コロナうつ」。原因は様々考えられるだろうが、その一つに「身体の疲れが→心の乱れに繋がる」というこのモデルで説明することが出来る。

自粛生活によって、太陽の光を浴びる機会が減少する。日の光に当たらないと、体内のセロトニン量は減少する。セロトニンは、夕方になると睡眠を促すメラトニンに変わるが、セロトニンが十分でなければ当然、メラトニンも不足する。メラトニンが不足すると睡眠不調に陥りやすくなる。睡眠不調が更に自律神経を乱し、脳内ネットワークの「DMN」が活性化。抑うつ感情が強化される。と、このような説明となる。

自粛による「日の光に当たる/当たらない」の要因以外にも、
・自粛によって運動不足→身体が疲れていないので睡眠不調→DMN活性化→抑うつ強化
・自粛による食事時間の乱れ→中枢と末梢の身体リズムが乱れる→自律神経の乱れ→DMN活性化→抑うつ強化
等、様々な要因が「抑うつ」を強化するリスクとして挙げられる。こうした
「自粛生活による“身体-脳ネットワーク-心の乱れ”が、うつ病発症に繋がった」
とする説明こそ、「コロナうつ」に対する考察の一つだ。

話を元に戻すと、私の抱える「抑うつ」は「自己否定-承認欲求モデル」以外にも「身体的疲れ→心の乱れモデル」からの説明も可能となる、ということだ。なぜなら私の勤務は不規則であり、「寝不足」が必ず発生する勤務形態になっているからだ。

特に今週は酷い。聞いて欲しい。これはただの愚痴に近いかも知れないのだが、聞いて欲しい。
私は今週、
月~木曜まで早朝勤務して、そこから9時間以上職場に拘束される。
金曜は9:00から21:00まで働かされ、
退勤後、24:00に再び職場へ行って翌6:00まで宿直。ちなみに「宿直」は寝られてせいぜい「2~3時間」程度。極度の寝不足で土曜の6:00を迎えることになる。
ただ、地獄はこれだけでは終わらない。更にこの日、6:00に退勤したら再度9:00に出勤し、そこから9時間以上労働しなければならない。翌、日曜日は休日だけれど、月曜日からまた不規則な5連勤(&土曜は6:00まで宿直)が始まってしまう。(※)

このような生活が続けば、「土・日曜日の休養に失敗」した折の精神的地獄は計り知れない。
「土・日曜の貴重な時間を一切無駄にしたくない!」
という思考の強かった私は、何度も「土・日曜日の休養」の失敗を繰り返した。結果、ほぼ毎日、「寝不足」での出勤を余儀なくされた。

寝不足は「身体の疲れ」、延いては「自律神経の乱れ」を引き起こし、それにより脳内ネットワークの「DMN」が活性化されると、集中力・思考力が低下。勤労意欲も低下し、それがますます「DMN活性化」に拍車をかける。結果、体内セロトニン量が減少し続け、「抑うつ」が強まってしまう。

さて、「抑うつ」が強まり、心が弱ってくると、自力で自身の自我(メンタル)を支えることが難しくなる。その結果、誰かの支えが欲しくてたまらなくなる。傷心した者が、普段はなんとも思っていなかった異性の何気ない一言でコロッとやられてしまうのは、自力で自我を支えることが出来ず、普段より誰かの助け、支えを強く強く欲してしまっているからだ。

話が脱線し続けてしまうが、現に私が人生で最も苦しんだ「大学時代」は特に、「誰かからの支え」が欲しくてたまらなかった。受験戦争に敗れ、その傷をいつまで経っても癒やせぬ自身に嫌悪の情を覚えながら、「大学の授業にもロクについていけないダメな自分」とも向き合わねばならなかった。自身の脳の構造、ゆくゆくは発達障害の疑いまで自身にかけ、身内にその苦しい胸の内を吐露したこともあったが、全く理解されず「そんなのただの甘えだ」と一蹴されてしまう時期もあって、

そんな折は尚更、誰かの助けが欲しくてたまらなくなった。現に私はそうだった。心が弱るとは、こうしたことも意味している。

私は今、「身体的疲れ→心の乱れ」によって、自力で自我を支えることが難しくなっているのかも知れない。

だから自身の力で「自己否定感」の暴走を止めることが出来ず、「他者承認」を過剰に求めてしまうのではないか。そんな自分を「自己否定-承認欲求モデル」のみに基づいて、

「承認欲求に突き動かされるな!自己否定感は自力で払拭せよ!」

と言い聞かせたって、問題はちっとも解決しないし、何ならこれは「自己虐待」にさえ当たってしまうかも知れない。「身体の疲れ→心の乱れモデル」に従えば、
「もっと自分を大切にしろよ」
「もっと身体を気遣えよ」
といったアドバイスが必要ということになり、仮にこれが正しいとするならば、一つ間違うと「自己を追い詰めるアプローチ」となってしまう先の対応は、却って問題を悪化させてしまうことになるからだ。

ただでさえネガティブな自己像を抱えていて、心のメンテナンスには人一倍、気を使っていかなければならないはずだ。そんな私が一つの視座のみで自己を制御しようとするのは、少々危険だ。

前回更新した『疲れた。』という記事と、先日読んだ『眠る投資』、過去の自身の経験等を踏まえ、

上述したような具合に、私は同じ「抑うつ」に対しても、多面的な分析・考察の出来る人間になっていかねばならんな、と考えるようになった。こうした思考が出来るようになったことにて自身、一歩前進、といったところだろう。
 

さて、意図せず本記事が、前回更新の『疲れた。』という記事へのアンサー記事になりそうだ。まあ別に、困ることはないから良いんだけど。

 

 
(※)「有休消化」により、今週木曜日は「休み」になりました。やったー

疲れた。

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