疲れた。

疲れた。私は生き方を誤った。

昔から、「認められること」「人から“凄い”と言われること」を動機に生き方を決めてきた。幼い頃から承認欲求のやけに強かった私にとって、「人から承認されること」が人生の全てだった。

「本当は、自分は何をしたいのか」

そんな心の声よりも、「人から承認を得ること」を主眼に置いて生きてきた。私の人生の主体は「自分」ではなく「承認欲求」で、常に私は「人の視線」を意識しながら生きてきた。

小さい頃から、真面目な優等生の振りをしてきたのも、
「良い子ちゃん」でいたのも、
試験で高得点を取ろうと頑張ったのも、
偏差値の高い学校を目指したのも、
良い企業・高収入の職業に憧れを抱いていたのも、

全部が全部、人から「凄い」と言われるためのものだった。

けれども私は、人から「凄い」と言われることを望みながら、その実、「凄い、すごい」とそやされる人間にはなれなかった。欠乏感は満たされぬままだった。自己を蔑ろにしてきた分、人生に対する空虚感も随分、鬱積し続けた。

私は認められたかった。凄い人だと言われたかった。優秀な人だと認識されたかった。容易には替えの利かない人間だと思われたかった。そうした欲求が非常に強かったから、いつしか人生は私のものではなくなった。気が付くと「自由」であるはずの休日も、自分のための休日ではなくなっていた。

私は、仕事終わりや仕事のない休日の時間を使って、沢山の本を読むようになっていた。

自身の承認欲求や自己否定感を改善するため、主に心理系の本を好んで読んだ。一方で、自己啓発本の類も読み漁った。

私は「自己啓発本」を通じて、社会的に「凄い」と言われる人の特徴やその思考回路、行動パターンを無意識裡に分析しようとしていたのだった。

そうして得られた知見を自らに活用し、あわよくば自分も「凄い」と言われる人になろうとしていた。「なろうとしていた」と言うか、「ならなければ自分の存在意義が見出せない」くらいの、切迫感を覚えながら読んでいた。結局のところ、私が休日の読書に求めていたのは「娯楽」でなくその先にある「承認」だった。

でも、本当のところ私が休日に望んでいるのは、休養であって、寝不足の解消であって、時に雰囲気の良いカフェやレストランで一息つくことであって、旅行へ行くことであって、緑溢れる公園で気分をリフレッシュすることであった。それらが、私という人間の真の望んでいるところだった。決して、延々と室内に閉じ籠り、「凄い」人のノウハウを学んでは自己の「理想と現実との大きな間隙」に嘆き悲しむことではなかった。

けれども、私の内なる「承認欲求」は、私の望む「休日の平穏」を許さなかった。
私が私の声に従って行動したところで、私は誰からも承認されることはない。それでは自身の承認欲求が満たされるとこは永遠にない。ならば学びを止めてはならぬ、ということになった。私は自身の心の声を抑圧し、せっせと読書に励んだ。私は承認欲求の奴隷だった。私という存在、そのソフト面を牛耳るのは間違いなく「承認欲求」であった。

休日をも承認欲求に侵食された私は、仕事で過度に疲弊するようになった。心に余裕を失って、感情制御が難しくなり始め、日々の生活における憂鬱が増していった。

「これはいけない」と思ったので、私は私生活を見直すことにした。そこで私は、「承認欲求の休日侵食」を発見した。私は思い切って、読書をやめた。その結果、休日は主にネットサーフィンのような生産性皆無のコンテンツで一日を潰すようになった。けれども、今のところ心はやや穏やかになった。知らぬところで私は無理をしていたのだと知った。

私は休日を「休日」として利用できていなかった。休日を自分のために過ごすことが出来ていなかった。だから心に余裕を失いやすくなっていた。もっと自分のために時間を使わなければならないと悟った。

外出可能な世の中になった折には、もっと自分のために旅行行ったり、外食したりしなきゃいけないなと思った。心のSOSの気配を感じ取ったら、その声にはしっかりと耳を傾けてあげなきゃいけないなと思った。

ただ、自分のために時間を使い続けたところで、人からの承認が得られることはない。ここに葛藤が生まれた。

「自分」を主体に人生を送れば、心はやや穏やかになる。けれども喉から手の出るほど欲しかった「承認」は多分、得られない。

「得られなくたっていいじゃない」というマインドを手に入れられれば良いのだけれど。
「承認欲求」にただ飲み込まれてしまうのではなく、それを自ら手懐けることさえ、出来たなら。

「承認欲求」に人生を引っ掻き回され続けてしまったせいで、「自分」という存在が置いてきぼりになっているのだろう。

心の奥底で、「本当はこうしたかった、ああしたかった」と弱々しく訴えている自分がいて、

でもそんなか細い声は、荒れ狂う承認欲求の蛮声によって掻き消されている。

私の方が積極的にアプローチしてやらねばならんのよな。

承認欲求の煩さで響き渡る空間を脇目もふらず突っ切って、

奥底で縮こまった、半ば主張を諦めている自分自身の手を取って、

「何でも言ってごらん。今日は君のために、この場にある時間と、お金と、体を使っていくよ」

と、何度も何度も囁き続ける。

自分を大切にしよう。自分を大切にするためにきちんと考えよう。どんな自分が置いてきぼりをくらっているのか。どんな声によって、その存在が掻き消されてしまっているのか。考えに考えて、それらの正体を掴んだなら、徹底して自分を大切にしていこうとすることが大事なのだろう。

旅行へ行きたいなら、行けばよい。
公園に行きたいなら、行ってくればいい。
ベッドに横になっていたいのなら、横になっていればよい。そこに人からの承認がなくたって構いやしないじゃないか。そもそも人からの承認を過剰に求めてしまうのは、「自分で自分のことを承認できていないから」ではなかったか。逆説的だけれど、人からの承認を得たいなら、まずは自分が自分のことを承認してあげないと。

確かに、自分がただ生きている、好きなことをして過ごしているというだけで、自分のことを承認してくれる人なんていないかも知れない。

けれども、自らを大切に扱うことで、自分で自分を承認することが出来るようになれば、そもそも人からの過剰な承認なんて要らなくなってくるし、自分の心に余裕ができてくれば、承認欲求なんてものに過度に飲み込まれぬよう、ある程度自らを制御することだって出来るようになる。少なくとも理屈上は、そうなっているはずだ。

自分の声を聞かなすぎたんだよ。人からの見られ方だとか、世間体だとか、そんなもの、自己の人生の満足に比べれば、どうだっていいじゃないか。

第一、自分の外側の容姿、学歴、年収、知名度、社会的ステータス等が人様から認められたところで、自分自身の真の欲求が満たされていないなら、その人生は間違いなく空虚だと散々、学んできたはずだったろう。

人生が苦しく感じるのなら、
生きていて満たされないものを感じているのなら、
自らの心の声を聞こうとすることが大事だ。虚しい感情の裏には、様々な心的外傷や心的課題、葛藤の傷の痛みに掻き消され、見えなくなってしまった真の自己が隠れている。その手をそっと取ってやって、

「今は君のための時間だ。好きなことを言ってくれていいんだよ」

そう囁くことから、人生は始まっていくのではないか。そんなことを最近は考えている。

親の価値観で生きてきた人はもっと自分にアンテナ張っていこう

6件のコメント

  1. 昨日鶏さんのブログに偶然辿り着きました。
    特に対人恐怖の記事に「分かるなぁ泣」と思いながら読まさせてもらいました。
    そして自己分析力すごいなぁと。

    https://aca-japan.org/docs/problem.html
    ↑この文献や本も鶏さんの分析の役に立つかもです。
    私は自助グループに通って昔より対人恐怖が和らいだので、紹介もしたくてコメントしちゃいました。
    共感できる記事をありがとうございました!

    1. これはありがたいです!早速拝見します。

      ACの自助グループ、存在は知っていましたが参加したことはありませんでした。実際に通われて「対人恐怖」が和らいだとのことで、やはり効果があるのですね。
      「人と会って話をする」ということに大きな抵抗がありますが、行き詰まったときの選択肢として検討させていただきます!

      1. よかったです^^

        ちなみに自助グループは「聞くだけ参加」や「調子が悪い時はパスする」ことも全然可能です。(そういう方も割といます)

        一時期、私は人の中に入ると「命の危機を感じてしまうくらい」怖くてしんどくて悩んでいたので苦笑、
        「12ステップ」という独特の概念に新しい発想をもらったし、自分が変わって回復するきっかけになりました。

        アメリカ発祥なので言い回しがちょっとスピリチュアルじみてて小難しいですが、決して怪しいものではないです…笑
        気が向いたらぜひ見てみてください。(大変になっちゃうので、これには返信しなくて大丈夫ですよ^^)

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