【なぜ?】褒められることが「苦手」だと感じてしまう理由

通常、
“褒められれば→嬉しい”
というのは、自然な感情のように思われます。「あなたは素敵です」と言われて、嬉しくならないという方が、不自然のような気さえしますよね。

しかし世の中には、「あなたは素敵です」と言われることを「苦手」と感じてしまう人がいます。自分のことを褒められているのに、どういうわけか、「嬉しさ」よりも「具合の悪さ」「気まずさ」が勝ってしまう。

私もその中の一人です。褒められると、胸がチクッとして、あまりの気まずさに、まるで自分が自分でないような、フワフワとした心地の悪い感覚に陥ってしまうことが多い。一体、なぜでしょうか。
幼少期より抱えてきた「自己否定感」と戦い続ける筆者が、その原因について分析してみました。これが読者の、何かの気付きになってくれれば幸いです。

結論を先に述べます。「あなたの○○なところが素敵だ」と言われることが「苦手」と感じられてしまう原因は、

「自分は価値のない人間だ」

と、自分で思っているからです。以下で、詳しく解説していきます。

 

「褒められたけれど、あまり嬉しくなかった」くらいの感覚であれば日常的なものだと思う。

 
「褒められることに苦手意識はそこまでない」という人でも、「褒められたけれど、今回はあまり嬉しくなかった」と感じることはあるはずですよね。その場合の原因として考えられるのは、以下の四つです。
一、褒めて貰うべきでないところを褒められている。
 ∵)二日酔いで冴えない表情で登校・出勤した際に、「やあ、今日はやけに気合い入っているね」と言われても素直に喜べません。単純に、褒められるべき箇所がズレているというだけの話。

二、他者評価と自己評価が一致していない。
 ∵)自分は100点の出来だと思っていたのに、返却された答案用紙は80点だった。点数的には、平均点を大きく超えていたので「凄い」と言われるが、100点を取れると思っていた本人からすれば面白くない。そんな時も、褒められて嬉しくなるようなことはないですね。

三、相手を信頼できていない。
∵)自分のことをあまり知らないであろう人間から褒められたとしても、「一体、あなたは私の何を分かっているのだろう?」と懐疑的になりますよね。または、「もしかしてこの人、褒めることで私を自分の良いようにコントロールしようとしているのじゃないかしら」といった懐疑が勝ってしまうこともあるでしょう。

四、褒められ慣れている箇所を褒められている。
 ∵)何度も褒められた箇所を褒められ続けていると、大して響かなくなっていきます。(羨ましい話です。)褒められ慣れてしまえば、嬉しさは半減しますよね。

余談になりますが、そのため、

“自分の褒められ慣れていない箇所”

を褒められるようなことがあると、人はとても嬉しくなってしまうものです。「自己拡大」と言われるものですが、これは恋愛分野におけるテクニックとして、様々なところで取り上げられていますね。

美人やイケメンに対し、ただ「美人ですね」「イケメンですね」と言うだけでは、彼ら彼女らの心に響かない。そこで、彼ら彼女らの“褒められ慣れている”「容姿」について言及するのでなく、敢えて“褒められ慣れていない”「内面」の良い部分を見つけて、そこを褒めてあげることによって、ハートを掴んでいく。

そんなテクニックです。余談でしたね。

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じゃあ全般的に褒められるのが「苦手」な人の抱えている問題は?

 
さて、上述したものはあくまで「表層の心理」です。今回のテーマは、

褒められることに「苦手意識」を持っている

という方が対象ですので、あくまで「表層の心理」だけをなぞっていたのでは、その原因の「本質」までは辿り着きません。この先では、更に心の奥の方まで潜っていき、「本質」を捉えていきましょう。

褒められることに「苦手意識」を覚えてしまう原因。それは冒頭にも述べました通り、「自分は価値のない人間だ」とする信念が、その人の心底に根付いているからだと思います。
この
「自分は価値のない人間だ」
とする信念は、本人にとって自覚されているか、されていないかを問いません。

「自分は存在価値のない人間だ」とする信念が根底にあると、どんな賞賛であっても、滅多に心に響かなくなります。なぜなら、「私はダメだ」という“自己評価”と、「あなたは素晴らしい」という“他者評価”との間に決定的な不一致を起こしているからです。自分では「頭が悪い」と思っているのに、「あなたは頭が良いよね」と言われたら、混乱のあまり、具合が悪くなってしまいますよね。

「自分は価値のない人間だ」という信念は、実際の「価値の有無」に関わりません。本当のところ、その人は「価値あるもの」を持っているのに、心では「自分は価値のない人間だ」と思い込んでしまっていることがあります。そのため、客観的に凄いことをしていて、それが結果的に「褒められ」たとしても、自己評価と他者評価の間の大きなギャップに、へどもどしてしまうのです。

またこうした人達の中には、むしろ、「ダメ出ししてくれた方が落ち着く」という人もいるそうですね。折角「良いもの」を持っているにも関わらず、「ダメ出し」された方が、納得するというか、安心感を覚えるわけですね。

人は自分の信念を維持するような事実を発見すると安心するものです。「自分はダメな人間だ」という信念が根底にあると、それを保証してくれるような他者の言動を見たとき、たとえそれが自身を貶めるような内容であったとしても、安心感を覚えてしまう。そのような構造です。

ちなみに私は、他人から「あなたはダメだ」と言われると凹んでしまうタイプなのですが、自分の口から「自分はダメだ」と言ってしまうことは、実は、嫌いではありません。何かのきっかけに心が暗黒になってしまった際には、このブログに、これでもかと言うほど、自分を“けちょんけちょん”に書き殴ってやりたくなります。このブログ内には、“そういった動機”で作成された記事は幾つかあります。それは他の記事と比較して、幾分、攻撃的な記事になっていると思います。『私がブログを書く理由』とか、正にそうだと思います。

このように、「自分は価値のない人間だ」という信念を心底に抱えている人間が、
自分を「ダメだ」と言ったり、
人から「ダメだ」と言われたくなるような衝動に駆られるというのは、一種の「快楽を伴う自傷行為」だと、私は思っています。

祖父江典人氏の『公認心理師のための精神分析入門』には、以下のような記述があります。

現代の病理においては、破壊性と快楽が密接に絡み合っているケースは少なくありません。
(中略)
リストカットなどの自傷行為も快感になっていることは、今ではよく知られているところでしょう。自己を痛めつけるという身体の痛みが、逆に心的レベルでは快感にもなり得てしまうわけです。これらは、ほとんど倒錯的でマゾヒスティックな快感と言ってもよいでしょう。
祖父江典人『公認心理師のための精神分析入門』(2019) 誠信書房 pp.67-68

 

 

すなわち、「自分はダメだ」と言って(言われて)自分を傷付けることに、快感さえ覚えてしまっているわけですね。少し難しめの本ですが、現代を蝕む心の暗部について、知見を増やすのにはなかなか良い本です。

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なんで「自分は価値のない人間だ」なんて信念が根底にあるの?

 
色々な原因が考えられるのですが、一つには幼少期、「養育者と心理的な絆を結べなかった」という過去が、心の傷として今も尚、残っているとするものです(「愛着障害」と言います)。例えば、こんな言葉を見ると、胸がソワソワしたりしませんか?

親からでさえ大切にされなかったのに、自分を大切にできるわけがない。
親からでさえ認めて貰えなかったのに、自分を認められるわけがない。
幼少期から、自分の存在に対して否定的な環境で育ってしまった。
幼少期に愛されなかったという過去の傷が、自分の心に大きな穴を空けてしまっている。
経済的には愛されたけれど、心理的には愛されなかった。
ありのままの自分が愛されることがなかった。
自分が客観的な素晴らしい実績を出したときしか、愛してくれなかった。認めてくれなかった。
幼少期より、自分を信用して貰えなかった。
昔から、自分の気持ちを、全く分かって貰えなかった。
肉体的に子供である時期はあったが、精神的に子供でいられる時期がなかった。
勝手に期待されては、勝手に失望される経験を繰り返して、悲しい思いをした。
どうして自分を愛してくれなかったの。認めてくれなかったの。辛い気持ちに寄り添おうとしてくれなかったの。といった、「怒り」の感情が溜まっている。

幼少期より、「養育者から“心理的に”愛された“実感”が湧かなかった」という事実は、その人の心に大きな傷を残します。その心の傷が、大人になって、

「愛情で満たされなかった心をどうにかして(※主に恋愛で満たしたくなる傾向があります。)満たしたい」
「自分の存在に価値を感じられない」
「自分なんていてもいなくても、どうだっていいと思う」
「他人は信頼できない。信頼できるのは自分だけだ」

といった、“歪曲した”信念を根付かせてしまうのですね。客観的には「歪んでいる」ように思われるこうした信念に基づき、あまりに不器用な人生を送る人が少なくないのも、こうした背景が元となっている可能性があります。思い当たるものはないでしょうか。

幼少期に「ありのままを愛されなかった」心の傷が残っていると、「自分は価値のない人間だ」という、誤った信念を持ったまま大人になってしまうリスクが非常に、高まるのです。

この辺については、岡田尊志氏の『愛着障害の克服』や『死に至る病 あなたを蝕む愛着障害の脅威』、加藤諦三氏の『自分に気づく心理学』あたりが良書だと思います。(こちらは読みやすいものとなっています。)

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自己否定感から脱し、褒められて嬉しいと感じられるようになるためには。

 
これは私自身、未達成の課題でもあるので、偉そうなことを言えません。ただ、色々な試行錯誤を経て、今私が「有効だ」と思って実践しているのは、

・自分の抱えている心の傷を自覚すること。
・日々、自分を幸せにする努力をすること。

の二点です。
自分の抱えている問題を知り、その上で、自分を大切にし、自分が幸せになるための行動を起こすよう心掛けること。
自分が自分を幸せにするために、日々、努力を重ねていること。
――その事実の積み重ねが、「自分は価値のない人間だ」とする信念を変えてくれるものと、今では信じています。

加藤諦三氏の『自分に気づく心理学』、『自信と劣等感の心理学』から、言葉を借りましょう。

私達が自分は生きるに値する存在だ、愛される存在になれるのだと決断することは、他人の好意があるからではない。今述べたように、実際には好意が今までだってあったのである。しかしその好意を感じとり、その好意を喜ぶ能力がなかったのである。
その能力をやしなうために何よりも大切なのは、自分は生きるに値する存在だと自分が決めることなのである。
(中略)
そんなに相手の好意に恐縮することもないのである。好意にあまり恐縮することは、自分がそれに値しないと思っているからである。
(中略)
相手の好意を素直に楽しめばよい。自分が特別な人間だから好意を示してくれるのではない。自分が何かを達成したから好意を示してくれるのでもない。たまたまそのような縁があったから好意を示してくれるのである。
加藤諦三『自分に気づく心理学』(2019) PHP文庫 pp.232-233

 

 

幸せになる人は見えないところで、ひたすら努力をしている。
自分の人生を人に見せることを、生きる目的としていないから幸せになれる。
見えないところの努力とは、自分を信じて毎日を明るく前向きに生きようとしている努力のことである。人知れずする努力のことである。
人は意識的に努力しないでも、前向きに物事を考えられるのではない。
前向きな人は、誰でも必死になって前向きになっているのである。明るく生きている人も、陰で涙を流さないで明るくしていられるのではない。
人知れず何度も何度も涙を流すから、明るく生きられるのである。
そのように努力しているから、とことん追いつめられたときに、腹をくくって「いまさら考えてもしかたがない。覚悟を決めよう。生きていればいいさ」と前向きに考えるようになれるのである。
加藤諦三『自信と劣等感の心理学』(2009) 大和書房 p166

 

 
動かなければ得られない:低い自尊心から自分を解放する方法
というページにも、次のようにあります。

自信なんてものは、そう簡単にもてるものじゃない。簡単に切り替えたり、すぐに覚えられる単純なものでもないし、外部からどうこうできるものでもない。あくまでじっくり時間をかけて育み、自分自身を心から信頼する内面的な問題なのだ。そこで初めて自尊心というものは生まれる。
※原文
It(=confidence ※筆者註) is an internal belief about yourself that must be cultivated over time. That begins with your self-esteem.

自尊心は、自分自身に対する感情的評価である。つまり、” あなたはあなたという人間を愛しているか?” 、” 自分自身を信頼しているか?”、” あなたがなりたい自分になる為の自己投資をしているか?”、” 自分の意見を尊重しているか?”、” あなた自身の価値とあなたの根本的方針が一致しているか?”など、すべては主観的なものだ。
※原文
In other words, do you love who you are? Do you trust in yourself? Do you prioritize your needs? Do you invest in yourself regularly? Do you respect your opinions? Are you congruent with your values and principles?

 

自分の中で、「これだけはやりきった」と心から思えるものをつくることが大切だと思います。「これだけは、“自分の幸せのため”にやりきったぜ」という実績を、地道にコツコツと積み重ねることです。

私の場合は、読書が好きなので、読書の時間を日常の中で、しっかり取り入れていく。それだけでなく、読書によって、脳内に知識のプロットが打たれることに魅力を感じているので、それでは、それはどうしたら実現されるのかを徹底的に考え、実践していく。

ブログの記事作成についてもそうですね。今までは、読まれない記事ばかりを書いてしまっていました。このような独りよがりの記事ばかり書いてしまっていては、あまり自分に対する自信には繋がらないのかなと、最近、感じるようになりました。ブログを成長させるため、読者にとって読みやすく有益な記事を書くようにする等、本気でブログというものと向き合っていくことも大事なのだろうなと、思っています。

私の場合は読書やブログを例に挙げましたが、これは「料理」だろうが「筋トレ」だろうが、自分の幸せに少しでも繋がり得るものであるならば、何でもいいと思います。

「これだけは自分の幸せのために本気で時間を費やしているぜ」

という実績を積み上げていくこと。それが、「自分は価値のない人間だ」とする信念の払拭に繋がっていくと信じています。
そしてゆくゆくは、他者から褒められることがあった際、

「どうもありがとう」

と、気持ちよく返答できる日が、来るものと信じています。

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