私がブログを書く理由




3月3日、火曜日。
『自分に嘘をつくな』というタイトルで一つ、記事を書こうとしてパソコン前に鎮座した。

しかしその後数時間。
結局500文字も書くことができずに、作業は全く頓挫した。こうも文章が書けなくなるのは久々のことであった。

私は、ブログのアクセス数を増やそうとしていた。自分の好きなように記事を作成していたのでは事態は好転しないということを、この二年間において、身を以て知らされた。私は、思うようにアクセス数の増えぬ現状に、少しいじけていたのである。

ようやく重い腰を上げて、一冊のマニュアル本を手に取った。『本気で稼げる アフィリエイトブログ』という本である。どうやらその界隈では有名なものらしい。
ページと共に、iPhoneのメモ帳機能を開いた。読んで得た知恵を、徹底的に活かしきる構えだ。右手にマニュアル、左手にiPhone.その眼は野心に燃えていた。

読後のこと。私は自身のブログ運営に関し、大いに反省させられるところとなった。私は自身の記事作成の方針を、大きく変えていかねばならないと思った。

きたる、2020年3月3日、火曜日。
パソコンを立ち上げ、傍らではiPhoneのメモ帳を開く。仮タイトルは『自分に嘘をつくな』。
しかしこのタイトルでは検索流入が見込めない。本文を書き上げた後、然るべきタイトルに変更する必要がある。従って本文の作成が急がれる。読んで貰えるような本文。メモ帳に記述したノウハウを見直す。まずは読者に「共感」を。次に、読者の求める「情報」を。

さあ、確かな一歩を今、踏み出せ。

――結果、500字書くこともままならなかった。
記事の頭で、「この記事は自分のことが書いてある!もっと読みたい!」と思わせられるような共感の文章を書いていかなければならないのだが、それができなかった。

「皆さんは自分に嘘をつき過ぎて、疲れてしまった経験はありませんか?」
と、書き出せなかった。

「理想の自分と現実の自分とのギャップに悩んでいる人はいませんか?」
「期待通りの自分を演じることに疲れてしまった人はいませんか?」
「本当の自分を押し隠すのに必死になっている人はいませんか?」
と、書き出せなかった。
いや「書き出す」ことだけならできた。キャッチーな言葉だけは出てきた。しかし、それに続く気の利いた言葉群がどうしても、自分のものとしてまとまってくれなかった。

自分の言葉にならぬ言葉を必死に紡いでいこうとするその姿勢にこそ、嘘があるというものだ。

私はこうして、『自分に嘘をつくな』の作成を断念した。

そもそも、『自分に嘘をつくな』の作成動機そのものに嘘がある。私は一体、何のためにブログを書いているのだろう。嘘をつかずに言ってご覧。

そんなものは決まっている。他者からの「承認」が欲しいからである。自分の存在価値を、どうにかして他者に認めてもらいたいためである。そこに殊勝な理由は殆どない。この記事では、嘘を書くまい。もう嘘は御免である。

下手に老成しているようなフリをするから、嘘しか書けなくなるのである。26歳には26歳にしか書けない文章を書け。精神未熟者なら精神未熟者なりの文章を書け。26歳が、30歳、40歳のフリをするな。未熟者が、成熟した者のフリをするな。未熟なら未熟のまま、不完全なら不完全のまま、それをここに投じたらいい。もう嘘は書くな。

私は、その第一印象から期待される程の人間的魅力を、全く備えていない人間である。そのため、学生時代は辛酸を嘗めたものである。
私は不器用で、口下手で、頭もさほど良い回転をせず、そうして中身の空っぽな人間である。
私は自分に自信がなく、自分が他者からどう評価されているか、ということにしか興味がない。従って、その挙動はぎこちなく、自分の意見というものを持たず、それどころか、自分の感想というものも曖昧で、今自分が何を思うのか、何を感じるのかというのも、眼前にいる相手次第でコロコロと変化し(変化させなければならず)、その姿は自分というものを持たぬ根無し草である。だから、私と関わる多くの人は私に失望するのである。ああ、こいつは思っていたほど、人間として中身のない奴だ、という評価を下す。そして私の元を去って行く。それを鋭く看破した私は、心の中で「行かないで」と懇願する。しかしその声が届くことは決してない。残るのは心の傷のみである。「自分はしょうもない人間だ」とする心の傷のみである。その傷を癒やそうとして、ますます私は、他者迎合をする。そうして自己喪失し、より一層、魅力に乏しい人間として他者の目に映ることになるのである。

私がブログを書く理由。それは、このようにして負った“心の傷”を癒やそうとする試みに他ならない。
私は、こんなに文章を書けます!
私は、こんなに色々なことを考えています!
私は、皆さんが思っている程、くだらない人間ではありません!
とする、アピールに他ならない。有り体に事実を述べよ。嘘は絶対に書くな。嘘を書くから、人の心に届かないのだ。

私は、心の底の底で、人を信頼できていない。
いつかは自分の元から離れて行くのではないか――。
そうした恐れがもととなって、対人関係を築いている節がある。私は、人様から好印象を持たれることを激しく求めながらも、一方では恐怖している。何故なら、何らかの拍子に、私に好感を持つ一人の人間を前にして私の真の姿が暴き出され、その一件によって、
「なんだ。この人は自分が思っていたほど、大した人間ではなかったのだ。私の勘違いだった」
と、私の元から去って行っていくのではないか、という不安を拭い去れないからである。私は、化けの皮が剥がれてしまうのが、恐い。

そのくせ、私は人との精神的な結びつきを求めている一面がある。人は恐い。けれども、分かり合っていたい。そうしたアンビヴァレントな感情が、尚更事態をややこしくしている。人が恐いのであれば、関わらなければよいではないか、という風には、なっていかない。愛されないことが予想されていながら、それでも愛されたいという自己矛盾を抱えている。

だから、如何にして、自身の化けの皮が剥がれるのを防ぐか。如何にして、自身の化けの皮が剥がれ、それにより人が去って行ってしまった際、傷付いた心を守っていかれるか。それを考えたとき、私にとって、ブログという形でこうして文章を起こすことが、大きな自己防衛としての機能を果たしているわけである。これは逃げ場である。人が私の元から去って行った際、
「でも自分にはブログがある」
と逃げるための手段である。それに、決まっている。嘘はいけない。嘘をつくから、何も書けなくなるのだ。

そもそも、私以外にも、そんな心理的防衛を意図してブログを開設している人間はいるはずである。それはブログだけに限らないだろう。バンドマン然り、YouTuber然り、芸術家然り、インフルエンサー然り、である。自己防衛が第一動機となって、これらの活動を始めた者はいるはずだ。

しかし、
「本当は、自分の存在価値を何らかの形で証明するために、ブログをやっています。」
と言い切ってしまうのは、発信者側として非常に都合が悪い。そうしたエゴは何とかして隠さねばならない。
そこで、「本当は承認を求めてやっています」という第一の動機の部分に蓋をして、その上に、一見すると至極真っ当の、社会的動機を付与する。
「多くの人に感動を届けたい」
「好きなことで生計を立てたい」
「趣味の延長でやっている」
等が、それである。この一言によって、我々は堂々と、エゴに塗れた活動を始めることができるのである。

以上に挙げた「感動を~」の動機は、あったとしても、二の次、三の次である。第一の動機は、
「それによって自分の存在を承認されたい」
――これである。これに決まった。少なくとも私の場合は、これに決まっている。その他の理由は、取って付けたものである。大嘘である。
その事実を意識の表層に引っ張り出せるせるようになるまでに、何と長い年月が掛かったものか。私はこの醜い事実に、見て見ぬ振りをし続けていたのである。それを自覚することは、私にとって甚だ具合の悪いことであったから。

私は、自分が必死にもがいていないと、いやもがいていてさえ、人は自分の元から去って行ってしまう、という強い他者不信を抱いている。本当は、そんなことはないのだろうけれど、この感覚は、理性だけでは封じ込めることの困難な呪縛となって、私の認知、行動を雁字搦めに規定している。

私にとってブログは、そんな心の傷を癒すための手段なのである。真の動機を、隠すな。嘘はいけない。嘘をつくな。ところで、先程から自身を戒めるように「嘘をつくな」、「嘘を書くな」と言ってきたお蔭で、本記事における筆の進みは頗る良いのだけれど、実はこれこそが、「自分に嘘をつくな」ということの本質なのではないだろうか。嘘をついたままでは、筆は止まるものである。嘘はいけない。それを伝えたいならば、まずは己が身を削って、それを示すべきなのである。

真実を続ける。

私は心の底の底では、自分のことを、くだらない人間であると思っている。価値のない人間であると思っている。

私は昨年の7月末、加藤諦三氏の『自分に気づく心理学』という本を読んだのを機に、私自身の深層心理には、「自分は存在価値のない人間だ」とする自己否定感が潜んでおり、この「自己否定感」が、自身の様々な精神的諸問題を引き起こしているという現実を思い知ることとなった。このことは私の人生における最大の発見であった。
それからの半年間は様々な書物を読み漁り、自身の自己否定感の原因の究明、その改善法を学んだ。それはもう無我夢中であり、休日ないし平日の隙間時間のほぼ全てをそれに捧げたと言っても過言ではない。

それにも関わらず。

それにも関わらず、私は「自分は価値のない人間だ」とする自己像セルフイメージを変えることが、できていない。

私は、頭では分かっているのである。頭では、私という人間が、「何の価値もない人間」ではないということなど、とっくに理解している。本当に私に人間として何の価値もないのであれば、私が今置かれている、この環境は無い。断じて、無い。今こうして、私が大きな不自由なく暮らせていけているのも、私に人間としての何らかの価値があるためである。そんなものは、分かっている。目の前に広がっている事実を事実として客観的に認識するよう努めることで、それはどうにか達成された。私には人間として、何らかの価値がある。何の価値も無いのであれば、とうの昔に死んでいるはずである。それを頭では、嫌というほど了解しているはずなのである。

それにも関わらず。

理性の声は、深層心理を動かせない。どんなに大声上げても、深層心理は微動だにしない。
「私は人間として、価値がない」という信念が、上書きされない。これはもう「呪い」のようなものである。

私にとって、

「私は価値のある人間だ。私という人間には、何らかの魅力があるのだ。だから私はこうして、人、社会との繋がりを持てている。おまけに、こうして文章を書くことだってできる。どうして、人間として“何の”魅力もないことがあろうか。それこそ、非論理的というものである。そんなものは、オカルトだ。盲信だ。思考停止だ。」

と、散々に自身に前向きな説得を試みることよりも、

「私は人間としてダメである。」

と、自身を滅茶苦茶に罵倒することの方が、しっくり来るのである。これは、深層心理がそうなっているからである。

言葉による自身への罵倒――これは一種の「自傷行為」なのではないかと、私自身、考えている。

自傷行為をする者に認められる心理として、“自分を傷付ける”行為そのものより感じる、「マゾヒズム的快感」が伴っている場合があると、精神分析では解釈する。すなわち、ある意味で、リストカットをする者はリストカットをすることによって、過食をする者は過食をすることによって、ヤケ酒をする人はヤケ酒をすることによって、一種の快感を得ているというわけである。

私は、リストカットをする者の心理というものが、長年どうにも分からずにいた。「ヤケ酒」ならば分からなくもないが、どうして自身の手首を切りつけることがその人の精神安定に一役買うのかということが、全く分からなかった。
けれども私自身、自身を「価値がない」、「魅力がない」、「中身がない」と言葉によって散々に痛めつける行為が、実は「自傷行為」であるのではないか、ということに気が付くにつけ、リストカットをする者の心理というものが、少し分かったような気がする。これは傷付いた自己認識セルフイメージ(心にある傷)と、生身の自分に付いた傷とを一致させることによって、精神安定を図ろうとする行為なのではないだろうか。
心は傷付いているのに、肉体が元気でいるのは多大な違和感が残る。そこで、自分の肉体も傷付けることによって、肉体にも、傷付いた心と同様の傷を与えようとするのである。これによって、心と肉体のイメージが合致され、一時的に、落ち着くというわけである。そしてその行為そのものによって、ある種の快感を得ている。

または、傷付いた心から湧き出て来る、やり場のないネガティヴな攻撃的エネルギーを、自身の肉体を傷付けることによって発散させようとする試みかも知れない。ともすれば犯罪行為にすら繋がる可能性のあるネガティヴな攻撃的エネルギーを、自身に向けることによって、解消しようとするのである。

ここまで書いて、そう言えば「自傷行為」の動機に関する、似たような解釈がどこかの本で為されていたような気がしてきた。誰の何という著書だったかは失念した。

ただ、自傷行為によって精神安定を図っても、それは一時の安定にしかならない。
「仕事で嫌なことがあって、その晩だけヤケ酒をする」
程度の自傷であればまあ問題ないだろうが、傷付いた自己像セルフイメージを癒すためにするような根の深い自傷は、結局は自分を一層傷付けるばかりで、真の問題解決には結びつかないであろう。

自傷は、その人の生存のためにどうしても必要となるようなときには、無理に止めなければならない行為だとは思わない。しかし、自身の内面に渦巻く欲求不満の解消を、ただ“自傷”の一点にのみ依存するのは良くない。
精神分析では、欲求不満のエネルギーを社会的に好ましい形で発散することを推奨している(「昇華」という)。すなわち、スポーツ、仕事、勉強、創作活動といったものに、そのエネルギーの全てをぶつけることによって、解消を試みるのである。それは簡単なことではない。すぐにできるものでもない。人によっては、数多のトライアル&エラーを繰り返して、何年、何十年も経って、ようやくできるようになるものかも知れない。

兎に角私も、精神分析で言うところの「昇華」を目指すべきである。そのためには、自身の内面にあるネガティヴなエネルギーを、下手に老成ぶることなく、26歳(今年27)なりの未熟さでぶつけていくことが重要なのではないか、と思われる。ただしそれさえ、その根底に「他者承認の渇望」があることを忘れてはなるまい。

記事作成前はもっと大しけの記事になる気がしていたが、自傷のくだり辺りから、冷静さを取り戻し、大分、文章も落ち着いてきたようである。

ということは一先ず、本記事の役目はこれにて果たされた、ということになるのだろうか。

そういうことにしておこう。

 




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