【大人のためのイソップ物語】卑怯なコウモリ




何やら、コウモリとイナゴが話をしている。
私は彼らに気付かれないよう、こっそりその場にしゃがみ込み、耳を澄ませて、その会話を聞いてみる。

コウモリ
それにしても、『卑怯なコウモリ』という言い方には、心底、閉口させられます。どうやら人間の大人というものは、『卑怯なコウモリ』などという表題の、表紙に私の姿が大きくプリントされた書籍を堂々と“教育の一環”などと銘打ち、それを積極的に小さい子供に読ませて一言、「信頼のできない人間になってはいけません」などといった御託宣を並べては心得顔して喜んでいる、などという趣味の悪い性癖を持ち合わせる生き物のようですが、彼らは、本当に私が自身の性格の悪さから、コウモリ特有の類まれなる身体性を利用して、獣、鳥の双方を裏切ったなどと、本気で思っているのでしょうか。私からすれば、そんな彼らだって、どだい同じ事をしているじゃないか、と言ってやりたくなります。目の前にいる上司によって自分の意見をコロコロと変える会社員や、目の前にいる恋人候補となる相手によって、自分の趣味趣向のアピールするところが時に正反対になったり、大して可笑しくもない話に無理矢理、不気味な笑み浮かべてニヤニヤしているような大人が、ゆくゆくは我が子に「信頼のできない人間になってはいけません」などと心得顔して御託宣を並べることになるのかと思うと、私は呆れや笑いを通り越して、恥ずかしくさえなってしまいます。彼らのやっていることは、私のやったことと本質的には何ら変わりがありません。彼らは自分の力で生きていくことに全く自信を持てないから、そのような無理な他者迎合をしなければ安心して生きていかれないのです。「信頼のできない人間になってはいけません」と言っておきながら、その実、「信頼のできない人間」たる行動を取っているのは、彼ら自身です。その直視しがたい現実に蓋をして、まるで自分は全く子供の手本となる大人であるような態度を取り続けながら、それでも自分の言っていることと、していることの矛盾に心の底の底では気付いているから、その自己矛盾を解消するために、私のような弱く不器用で世渡りにことごとく失敗してきた憐れな存在を材料にしては、ここぞとばかりにその言動をあげつらい、以て自身の矛盾を押し隠してしまおうとするその魂胆ったら、いやらしいことこの上ありません。何が、「卑怯な」コウモリですか。私の何処が「卑怯」なのでしょう。私はただ不器用なばっかりに、自身の矛盾から目を背け、人様の悪口を言うような人種にはなり切れなかったというだけなのに、それだけの違いでありながら、どうしてこうも、本質的には同じことをしている人種から、卑怯だ、卑怯だ、と、言われなくてはならないのでしょう。本当に「卑怯」なのは、どっちだ。私の生き方は、ただ他の人よりも少しだけ、正直すぎた、というだけの話じゃないか。一つの卑しい他者の失敗談を、ご自分のことを顧みることもせずに、ただその表面で起こっていることのみに注目して、そこから一つ、二つの浅薄な訓戒を抽出しては、自身より立場の弱く無学な者に、その浅はかな訓戒を得意満面に垂れて、以て自身の立場を安定させようなどという魂胆には辟易とさせられます。うんざりです。私が一体、何をしたというのでしょう。あなたたちは、私の置かれていた立場や、私の内情というものを全くご存じないから、そのような無知で狭苦しい一面的解釈で以て、私の過ちをしたり顔して論うことができるんだ。
あなたたちは、コウモリの社会というものを、知っていますか。過酷な競争、弱肉強食の社会。人間界の資本主義社会なんてものは、私から言わせて頂くと、生温なまぬるい。あまりのぬるさに、私はこの目で初めて人間界を見たとき、一人でクスクス笑っちゃった。なあんだ人間界というものは、私のような存在にだって、ささやかな幸福を享受できる機会が幾らでもあるじゃないか、ということを知るにつけて、ばか笑いまで出てきちゃった。成る程、確かにこのような世界にいれば、私のような失態を犯した者を酒場でビールジョッキ片手に「卑怯だ」、「愚かだ」などと言って批判しては得意になりたくなる気持ちも少しは分かりました。ただそれは、人間界とは大きく異なったコウモリの世界を見てからにしていただきたいものです。コウモリの世界は、人間界でいうところの、各科目の総合点によってその人の優劣が決してしまう試験のような、血も涙もない競争社会です。ですから私は小さい頃より、父からは「お前は、強くあらねばならない。」と教えられて育ってきました。コウモリの社会では、強くあるということが、その者の価値のほぼ全てを決定してしまうのですから、そのような教えを説く父の言には、一つとして反駁の意を覚えるところはありませんでした。
しかし、非常に残念なことに私は「生来の男らしさ」といったものを備えていなかったようでありまして、その容貌については中性的、腕はか細く、筋肉トレーニングをしても、その労力はなかなか実際の筋肉とは結びつかず、体幹も定まらず非常にナヨナヨとしており、残酷非道な競争社会には精神的にほとほと参ってしまい、座学はそこそこできましたけれど、演習や実習の段になるとからっきしダメでまるで使い物にならず、頭の中は野心よりロマンチシズムで溢れかえり、スポーツ中継より恋愛ドラマの方に熱狂し、魚肉よりもスイーツが好きで、アウトドアよりも家で読書をすることが趣味であるような、完全内向型インドアタイプの冴えるところのない地味なコウモリでした。
当然、同性のライバルからは軽んじられる所と為り、女性からはちっとも相手にされません。同性からも異性からも人気を博する野心溢れたドンファンみたいなコウモリを傍目に、彼らと自身の置かれている立場の違いを認識するにつけ、私は自分に対する自信をなくしていきました。常に、劣等感の塊です。そんな私の姿に、父は言葉にこそ出しませんでしたが、深く失望したようでした。代わりに弟の方には、私の二の舞を演じさせぬと、それはそれは熱心に教育したようで、その結果、弟は、筋骨隆々、豪傑にして野心溢れ、競争こそこの世の正義と言わんばかりの気焔を以て、手段選ばずライバルを出し抜き、今となっては地元ではかなりの地位にまで上り詰めた有力者、というところにまで相成ったようです。父は弱々しい私などよりも、この豪傑たる弟の方にいたく熱中し、弟の人生にはとやかく干渉しようとする一方、私に対しては、「まぁ、お前は自分が良いと思う道を行って、それで満足しているのならば私はそれだけで満足だ。」といった放任の形を取っておりまして、私を小さい頃にあれほど干渉してくれた父の姿と、現在の放任主義を貫く父の姿との間隙のあまりの大きさに私はひどく狼狽し、大変、寂しい思いをしたものです。私は、自分はダメなコウモリだと思っています。私はダメなコウモリだけれど、私の周囲にいる方々の温情によって、どうにか生かされている、そんな気持ちで生きております。そんな罪深き私のような者が、人様に不快感を与えてしまうようなことがあるなどということ、そんなことは、決して、あってはならないことだと思っております。人様の温情によって生かされている罪深き私が、人様に迷惑を掛けてしまうとは、何という大罪!とんだ恥の上塗り!私は、人様に如何いかなる不快感も与えないようにと、それはそれは注意深く、生きてきたつもりでした。何なら私は、自身が空気のように、石のように、柱のようにと、誰の視界の焦点にも留まらないで、大人しく死んでいければ、これ以上の安楽はないのではないかと思いながら、生きて参りました。が、その一方で、そうした空気や石、柱といった目立たぬ地味な存在にもしっかりと目を向けて、「君は、実はよく頑張って生きて来たのだね。」と言ってくれる人が一人あれば、どんなに嬉しいことだろう、どんなに救われることだろうか、そんな矛盾した感情を抱えて、生きて参りました。私は、自身に罪の意識を持ちながらも、その罪の重さに同情してくれる存在を渇望するという、両者相容れがたい感情を持って生きてきたわけでありますが、皮肉なことに、我が本心たるその悲痛の叫びが、後の悲劇の元凶となってしまったわけです。私は獣にも鳥にも、不快感を与えぬよう頑張りすぎてしまいました。
競争というものは、なんとも馬鹿らしいものです。何が面白くて、人は競争をするのでしょう。私は正直、“獣と鳥が争いを始めた”なんていう知らせを受けた日には、獣にも鳥にも、心底軽蔑いたしました。何を馬鹿なことをしていやがると思いました。それもその争いの原因が、あまりにくだらない。獣と鳥、どちらが偉いかだなんて、そんなの、どうでもいいことです。あまりに無知で、低俗です。下劣です。独りよがりの、自惚れです。皆、偉くもあって、偉くもないのだ。そんなもの、そのときの背景によって、幾らでも変化していくものなのだ。そんな簡単なことを、どうして分からないのだろう。私はこんな馬鹿らしい争いに巻き込まれてはたまるものかと、争いには敢えて加わらず、静観の形を取っておりました。しかし競争意識の高い者にとっては、その態度がどうしても気に入らないようで、私はまず、鳥群によって捕えられてしまいました。そこでこう問われたわけです。「お前は、鳥の仲間なのか、獣の仲間なのか。」と。愚問の中の、愚問。私は、どちらの言い分にも、全く共感しておりません。鳥は鳥、獣は獣でよろしく勝手にやっていてくれ、というのが、私の本音であるからです。しかし、自らの全身を隈無く行き渡る血液の如き、滔々とうとうと全身を流れる自身の存在への罪の意識が、その苦しい本音の口をついて出るのを力の限り押しとどめ、代わりに私は、こんなしょうもない、無知で憐れな弁解の言葉によって、私の本心とは裏腹の主張をペラペラと展開してしまったのでした。
「愚問もいいところです。私のような者を鳥と言わずして、何を鳥と言いましょう。この翼を見てください。私はこの翼を使って、大空を舞うことだってできるのです。私の日常生活における移動手段といったら専ら、この翼を使った飛行であります。獣のように地面を這いつくばってその四肢を土壌で黒く汚し、間抜け面して自らの鼻を地に近付けては米塩の資を得ようとするなどといった下賤な真似は、断じて、致しません。信じない奴は、愚劣です。私は、飛行ができるのだ。飛行のできる獣が、この世にあるものか。それは神話やおとぎ話の世界だけの話じゃないか。物事はもっと、現実的、写実的に捉える必要があります。空想や疑念など、要らないのです。ただ、目の前にある現実を、その五感によって感得せんと試みる、それ以外に真実を正しく捉える方法が、あるでしょうか。私はないと考えます。断じて、あり得ません。そもそも、ペンギンも、ダチョウも、飛ばないじゃないか。家禽化されたニワトリだって、飛ばないじゃないか。どうして、翼を持って、飛行する我が身を“鳥に非ず”と断ずることができましょうか。そのような疑念は、もはや、気の迷いや悩乱といったものを通り越して、狂気ともいうべきものです。一条の疑念が湧くことさえ、恥ずべきことです。不名誉なことです。翼に生えているこの毛は体毛でなく、羽毛です。これはれっきとした羽です。これがどうして皮膚なものか。私は自身の鳥たる血筋を、尊敬いたしております。信じない奴は、馬鹿だ。大馬鹿野郎だ。」
嘘つきというのは概して、このような大袈裟な表現を使うものです。自身の主張に自身で納得がいっていないものですから、嘘つきというものは、赤面のあまり泣きたくなってしまうほどの大袈裟な言葉を使用することによって、眼前にいる者のみならず、自身の説得をも試みなければならなくなるのです。私は、苦しくて仕様がありませんでした。私は鳥ではありません。しかし、私には決して人様に不快感を与えてはならぬという、絶対的な使命があるのです。この使命に背くことはできませんから、私は、どうしても、眼前の鳥群を失望させまいと、嘘八百を突き通し、以て鳥の仲間入りを果たさなければならないのでした。しかし鳥の仲間入りをした後となっても、私は争い事には殆ど参加しませんでした。これは絶対のことであります。私は常に、人様の不快感を与えるような真似は断じて慎まなければならないと考えておりますから、もし私が争い事に積極的に参加でもして、それによって獣側に何らかの形で不利益をもたらしてしまうことがあるということなど、想像しただけでも、身震いがするのです。私はただ、一刻も早くこのくだらない争いが終われば良いと、ただ、そればかりを願っておりました。
明くる日、私の友人が、出し抜けに私の元を訪ねてきました。友人は厳粛な顔つきで私を一瞥すると、「話がある。」と、一言、挨拶もなしに言い出しました。私は卑屈な微笑を以て彼を迎え入れると、すぐにマグカップに紅茶を注ぎ込み、その友人の目の前に差し出しました。友人はニコリともせず、紅茶には一口も口をつけないまま、「君は、何だって、鳥の仲間に入ったんだい?」と、ギロリと目を光らせて私を詰問し始めました。私は目の前が真っ暗になるような気が致しました。私は獣です。哺乳類です。胎生動物です。この翼は羽ではなく、皮膚です。皮膚に生えたこれらの毛は羽毛ではありません、体毛です。我が顔面に嘴の類はなく、口腔内にはびっしりと歯が生え揃っています。それに間違いはありません。飛行ができるという一点は、実際の所、鳥たり得るのに必要な条件でも、十分な条件でもないのです。私は誰がどう判断しても、獣であるという事実からは免れ得ないのです。それを私は、「如何なる人様にも不快感なるものを与えてはならぬ」という自らの信念に忠実であったばかりに、このような裏切り行為を働くことになってしまったのでした。何という悲運。善良なる市民の負う、抗いがたき薄幸の宿命!私はその場に崩れ落ちたくなる衝動を抑えて、ただ、下ばかりを向いていました。友人は「まぁ、今は仲間割れを起こしている場合でもないか。」と言うと、両手で眼鏡を取って、苦しく笑いました。私もつられて笑おうとしましたが、上手く頬を緩めることはできず、ただ、「私は、争い事が嫌いなだけなんだ」とだけ小さく、返しました。途端に友人はギュッと真面目な顔になって私に何かを言いかけましたが、それは途中で思い留まったようでした。そして一言、「お前の信念を尊重したい気持ちもあるが、時と場合というものを、よく考えてからにしてくれ。」と言い放ち、その場を後にしました。私は自分を殴ってやりたくなりました。
断じて言います。私は、卑怯なのではないのです。ただただ、卑屈なのです。人様に、不快感を与えたくないだけなのです。もし私が卑怯なのだとしたら、それは卑屈の結果です。その人の上面だけで、対象の全てを判断しようとするような真似をしてはいけません。対象の上面だけを見て、その人の何が分かるっていうんだ。そうやって人は、結果的にたまたま上面の悪く映ってしまった、不器用な善良なる人間を血祭にして、その一方で、真に軽蔑すべきの、上面だけは善良な、しかし中身は真に邪悪なる人間の方を讃えては、それによって自らの現状、身分の維持、安定に心血を注いでいる。馬鹿馬鹿しいことこの上ないじゃないか。人様を蹴落として得る安定は安らぐか。善良なるか弱き市民を批判して得る安泰は落ち着くか。私はただ、自身の有する罪悪を、他人より多く自覚していただけなんだ。本当に反省しなければならないのは、私のような不器用な者を批判することで自らの罪悪から目を背け、狡くも安泰を得ようとしている、あなたたちの方なんだ!

イナゴ
嘘ばっかり言っちゃって。悪いが、君の主張にははっきり言って、同情の余地も、共感の首肯も、何一つとして感じられるものがなかったよ。何が善良なる市民だ。寝言は寝て言って欲しいものだね。君は自分では気付いていないかも知れないが、君のその自己弁解めいた憐れみの主張も、実際は人からの同情が欲しいだけなんだろう?君の主張からはね、僕はこんなに惨めです。こんな惨めな僕にどうか深い同情をしてくださいっていう、押し売りの傲慢を感じるんだよね。君がやっているのは、弱者の岩陰から為されるか細い正義の主張ではなく、ナルシシストの壇上から為される自己演説だよ。君みたいな人間ってのは、どうしてこうも理論武装と、嘘と、それを主張する声の大きさばかりは秀でているのだろう。理論武装や嘘が得意なだけなら一向に構わんのだが、その暴力的なまでの一方通行の理論をまるで自分の本心や、世の真理のようにして他者にまで大声で振りかざすものだから、やられているコッチ側としてはたまったもんじゃないんだぜ。何なら言わせて貰うが、どうして君は俺を売ったのさ。結局、君のしていることは自己防衛なんだよ。君の言う「人様に不快感を与えてはならない」っていう信念だって、その実、自分を守ることの域を全く出ていない。そんなんだから、人から愛されないんじゃねぇの?あ、何なら言わせて貰うが、俺が君を恨んでいるから、こんな嘘八百を並べ立てては君の悪行を糾弾しようとしているのだ、なんていう空虚で稚拙で浅薄な反論は真っ平御免だぜ。獣と鳥の両方に自分を売ろうとしたのも、後に俺を売ったのも、こんなところで自己演説を振りかざしているのも、全ては君の自己防衛のためにしていることなんだよ。君自身のためにしたことなんだ。しかもタチの悪いことに君がやっているのは、自己不在による、自己防衛だ。君には自分の立場というものがないから、どこに所属していたって、自分を感じられず不安なんだ。君は内面ではコウモリの仲間にも、獣の仲間にも、鳥の仲間にもなれていないんだ。それどころか、君が君自身の味方でさえなくなっているんだ。君を卑怯なコウモリたらしめているのは、そうした自己不在に対する現実への逃避の結果だと、俺は思うんだがね。君にとっては、誰が大切で誰が大切でない、とか、何が大事で何が大事でない、といった信念がないんだよ。ただ君にとって、視界に入るもの全てが大切のようでいて、その実、全てが大切でない。だから結局は、獣も、鳥も、コウモリも、イナゴも、裏切ることになった。いやそれだけじゃない。君は自分自身さえも裏切っている。君は自分自身をも裏切っているから、誰も愛せず、信じられず、そうしてその結果、誰かを裏切り裏切られるだけの関係で、人付き合いが終わっちまうわけだ。寂しいものだね。まずは拳で自分の胸をドーンと叩いて、「俺はここにいるぞ!」と力の限り叫ぶことから始めてみるんだな。そこが君の人生のスタートラインだと思うぜ。君には自己がないんだよ。自己がないから、何を愛し、何を信じ、自分が何を好きで、何をすべきで、そのためにどういった行動を取っていけばいいかってことが、まるで分からないんだ。自分を大切にしろよ。自分で自分を大切にしようとしないで、どうすんだよ。人様から大切にされることによって自分を大切にしようとするんじゃねぇよ。自分で自分を大切にするんだよ。自分で自分を大切にした先に、果たして自分は何を大事にして、何を信念として、そうして、誰を大切にするべきなのかってことが、見えてくるんだよ。その結果辿り着いたのが獣なら獣で良いし、鳥なら鳥で良い。コウモリならコウモリで良い。勿論イナゴだって良いぜ。まぁ、オレはイナゴだけは止めとけって言わせていただくがな。なんなら、誰にも着いていかないってのもそれはそれでアリだ。自分の選択によって、自分の生き方を決めていく。それが、自分の人生の責任を自分で負って生きていくってことだろう。人ってのは、自分の人生に自分で責任を持てるようになって初めて、そこから人生が始まっていくんだ。この人に嫌われたくないからああしよう、この人からこう思われたいから、このように振る舞っていようってのは、それは人生じゃねぇぜ。自分はこの人に着いて行きたいから着いて行く。自分はあの人を信じているから着いて行く。人からどう思われるかってことより、自分がどう思うか、ってことを優先して生きていく。これが人生だ。自分の人生の選択を、人に委ねるな。自分の意志、自分の責任に委ねて、人生を生きていこうとしねぇでどうすんだよ。
スイーツが好き?読書が趣味?良いじゃねぇか。それの何が悪いんだ。少なくとも君には、スイーツや読書の持っている魅力が分かっちまうってことだ。十分じゃねぇか。どちらが勝った負けたのくだらねぇ競争なんかよりも、スイーツや読書の方により多くの魅力を感じて、それに嵌まっちまったその感性が、君という存在の一つの魅力を作っているわけだろう。君には分からないかも知れないが、何らかの対象の持つ魅力に気付けるってのは、こりゃそれだけで立派な長所たり得るんだぜ。人が何と言おうと、君の長所だ。人からそれは長所だと言われて初めて、自分でそれを長所と認めるような態度でいちゃ駄目だぜ。自分で自分の長所を長所と積極的に認めてやらねぇと駄目だ。
それに、君が女から全く見向きもされないってのは、俺から言わせて貰えば、全然、大したことじゃないね。断じて、大したことではない。俺にとっちゃ、君が女から見向きもされないことなんかより、君に振り向かせたい女が一人もいないってことの方が、よっぽど問題だと思うがね。どうせ特定の誰かが良いってわけでもねぇんだろう。君みたいな人はね、結局のところ、誰でも良いんだよ。自分に振り向いてくれるなら、自分を認めてくれるなら、自分を優しく慰めてくれるなら、誰でも良いんだ。違うとは言わせないぜ。まずはそのいやらしい魂胆を正さないことには、本当の意味で人を愛し、人から愛されることなんて、できやしないぜ。愛されたいなら、まずは自分から愛しなさいっていう格言めいた所論は、実際のところ、こんなところを言っているんじゃねぇかと俺は思っているんだ。
何だその浮かない表情は。悪いが、俺を馬鹿にしてもらっちゃ困るよ。君はそうやってすぐに人を小馬鹿にしようとするから嫌になるよ。君は、人様が君を小馬鹿にすることを軽蔑していながら、自分より冴えない人間を目にしたならば、その軽蔑は何処へやら、途端に君自身がその弱者を小馬鹿にしようとするのだから、恐れ入るよ。自分より冴えない人間を隙あらば小馬鹿にしてやろうなんていうその浅ましい態度は、実は君自身の内面に余裕が全くないってことの表れなんだぜ。君は心の底の底では、自分の必死の理論武装の裏にある大嘘にとっくに気付いているんだ。何が、「上面だけで人を判断するな」だ。上面だけで判断してくれなきゃ一番困ることになるのは、君自身の方じゃねぇかよ。君は上面だけは「罪の意識」だの「人様に不快感を与えたくない」だの「争い事は嫌い」だのとのたまっているが、その裏側にあるのは、劣等感と、負け惜しみと、憎悪と、復讐と、弱虫と、虚栄と、傲慢と、逡巡と、しどろもどろだけじゃないか。そんな醜い自分を隠すために、君は、自分が無力で罪悪感に苛まれる可哀想な存在である振りをして生きているんじゃねぇのかよ。上面はおろか、真の内面を見られちまって一番困るのは、君の方じゃないかよ。あまり、俺を笑わせないでくれよ。俺は笑えば笑うほど、何故だか俺を笑わせてくれた奴への怒りや憎しみが腹の底から湧いて出てくるっていう厄介な悪癖を持ち合わせてしまっているものでね。ダメだな、何だか我慢ができなくなってしまったんで言わせて貰おうか。この、大馬鹿野郎!人様を蹴落として安らぎを得ようとしているのは、むしろ君の方じゃないか!いや君の場合、人様を実際に裏切っておいて、それでいて自身の安寧さえ得られていないのだから、尚更タチが悪い。いい加減、己の真実から目を背けて、嘘の上に更なる嘘を重ねた挙句、自縄自縛に陥るのはやめろよ。嘘ばかりついている君はくして、口を開けば開くほど人生に息苦しさを覚えることになるような人種みたいだから、これからはしばらくの間、口を開くなよ。言葉じゃなくて、行動で示せよ。俺はね、口ばかりで行動の伴わない人間の人生ってのは、全部嘘だと思っているんだ。どんなに素晴らしい御託宣を並べようが、どんなに立派な正義を主張しようが、どんなに美しい愛を語ろうが、行動が伴っていないんじゃ、それは嘘っぱちだ。酒場の戯言と変わりゃしない。君は行動によってのみ、君の全身隅々まで行き渡っちまったそのナルシシズムとお別れできるんだ。俺はこれ以上、何も言うことはない。が、反論は受け付けねぇぜ。君の“論”はもう腹一杯いただいたんでね。言い返したいことがあるのなら、行動で示してくれ。論をぶつけ合うのはそれからさ。

イナゴはそうコウモリに告げると、クルッと背中を向け、ピョンピョンとその場を離れていった。
コウモリはその姿を見送った後、やおら翼を広げるとバサリとその場を飛び立った。彼が私の眼前を横切ると、私は自身の頬に、彼の確かな風圧を受け止めた。

そこで初めて、私は自身の頬が僅かに緩んでいるのを、知ることとなった。




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