ウサギとカメ

むかしむかし。

あるところに、

ウサギと

カメが

いた。

幕は高等学校、五限終わりの放課後。帰りの会終了の合図と同時に、この日もカメは一目散、ウサギの席へ直行する。いつものことだ。カメはこの時間になると毎度、部活動が始まるまでの間、気の弱いウサギに執拗な絡みを展開するのである。

「おい。今日も君は、授業中の先生の問いに手を挙げなかったな。確かに、今日出された問題はいつもより難しいものが多かったが、さすがの君でも、最後の“指数計算”の設問くらいは答えられたはずだ。「いや、それすら答えが分からなかった」とは言わせないぜ。君なら、あの設問を絶対に分かっていて、間違えなく正解を答えられたはずだ。どうして挙げなかった。万一答えを間違っていたとしても、『手を挙げた』という積極性そのものがきちんと試験の加点対象になるんだぜ。先生が授業の最初で言っていたじゃないか。『正解不正解に関わらず、授業中に手を挙げた回数の二分の一の点数を、試験の得点に上乗せします』って。これを活用しない手はないだろう。ちなみに俺は、この制度を大いに活用している。俺は今学期、確か八回手を挙げたはずだから、その八に二分の一を掛けた、四点が試験の得点に加点される。この四点は大きいぞ。たとえ試験で90点に数点及ばなくても、評定には堂々の“5”を付けて貰えるのだからね。その点、君はどうだろう。初回から一度も手を挙げていないじゃないか。加点ゼロ。試験で90点を切ったらどうするつもりだ。ウサギともあろう者が、俺より低い評定を貰ってその悔しさ故(ゆえ)にわななき震えていて良いのだろうかと、俺は思うよ。まあ、どの選択肢を取るにしてもそれは君の勝手であって、俺がとやかく言うのも余計なお世話ってところなのだろうけれどね。しかし俺には、君の考えていることがさっぱり分からないよ」

「何度も言うけれど――」
ウサギは小声で返す。
「僕はカメより低い評定を貰うことよりも、あの異様に“シン”とした空間で勢い手を挙げて、仮に答えを間違ってしまった時に被る甚大なる心的ダメージの方が、ずっと怖いんだ。僕は中学生の時分、さっきの授業と同じような、授業中の積極性が評価に加算される形式の授業で、やはり評定を少しでも高くしようと過度の緊張に苛まれながら頑張って手を挙げていた時期があったけれども、ある日、いつものように、授業中に先生の生徒に問うた質問を、これは自分でも正解で以て答えられる質問と即座に断定して、一定の自信に基づく興奮と少しばかりの緊張で震える手を挙げて、どもりどもりその回答を口にした瞬間、先生の目が点になり、また一瞬にして空間を占めるあらゆる分子の運動が停止したような、決まり悪い沈黙の冷め切った空気が教室中を充填して、僕は、脳を流れる血液の循環が止まったような、目の前の真っ暗になる感覚に陥り、しかしそのしばらくした後、活発でクラスのお調子者、いつもは冗談言ってクラスの人間を笑わせてばかりいるある一人の男子生徒が、この時ばかりは何故か真面目くさった声とそのトーンで以て、ボソリと先の質問の正解を言い当て、その後(のち)、教室全体を覆っていた沈黙の空気は氷解し、先生も普段の表情を取り戻し、「そうですね」とその男子生徒に返して、何事もなかったように授業が再開されたという、あの悪夢のような、拷問の如き一日を境に、僕はもう、どんなに簡単な、ないし自信のある質問、問いであっても、絶対に答えないと心に決めているんだ。あれ以来、僕は皆の前で発言をすることが怖くなった。いや前々から怖かったのだが、より恐怖するようになった。その一件から、僕の脳内で毎日のようにあの光景がフラッシュバックするようになって、その都度僕は大声を上げたくなるのだけれど、勿論その場でいちいち大声を上げることなんて出来ないから、その代わりに首を大きくブンブンと振って、その動作で以て、頭にへばりつくその嫌な記憶もろとも振り払っている。それも一度や二度のことではない。何度も、何年間も、しかもそれが毎日のように続いているんだ。こんな嫌な思いを更に重ねることは、二度と御免被りたい。同様のトラウマを重ねるリスクに苦しみガタガタ震えながら手を挙げ点数を稼ぐよりは、僕は、手を挙げぬことを前提とする心穏やかな授業を受けたい。その結果一段階低い評定が来るならば、それはもう仕方がない、文句言わずにその評定を受け入れる他はないと考えている。」

「はあ。何年も前の、君のそのちっぽけな失態を覚えている人間なんて何処にもいやしないよ。いや、そもそも君のその一事を“失態”などという言葉で表現するのも、どうかと思うくらいだ。そんな大昔の“くだらない”記憶に囚われてむやみに自身の可能性を狭めるのは賢明でないと思うぜ。そんなことよりも、過去のそのトラウマとはしっかりと決別し、今のこの瞬間に意識をフォーカスさせて、新たな改善への道を歩んだ方が良いと思うけれどな。君がその過去のトラウマに囚われ続けることは、今後の君の人生について長期的に考察した際、間違いなく“損”の方向に傾いてくると思うぜ。」

「“くだらない記憶”、か。確かにカメの言うとおり、僕がトラウマを植え付けられたあの一事のことをわざわざ『覚えている人間なんて何処にもいやしない』のかも知れないけれど、他でもないこの僕自身が、その失態のことを鮮明に覚えてしまっているという事実にも、目を向けて欲しいな。誰がどう思っているのかなんて、そこまで関係ない。この“僕”が、当時のそれと色褪せぬ辛い記憶を持ち続けてしまっている、だからこそ今も尚こうして苦しんでいるんじゃないか。結局のところ、トラウマというものは、その原因となったある出来事に対して、“誰がどう思っているか”ということよりも、“その人自身がその出来事をどう捉えているか”ということの方が、ずっと大きな影響を与えるものだと思うけれどな。たとえ他の誰もが気にしていないような事柄であったとしても、当の本人がそれを気に病んで、苦しみに顔を歪めてしまうようであれば、それはその人にとって、一大事なんだ。耐え難いものであるはずなんだ。誰かが口出しできるものではないんだ。そもそも、世間の客観的判断だとか、一般常識等といった尺度のみで以て、一概に否定することの出来る個人の信条や価値観なんてものは、実はこの世に存在しないんじゃないのかな。」

「ちぇっ。口だけは一丁前ときたもんだ。それじゃあこちらからも言わせて貰うが、君の信条だとか、価値観だとか、またはそれに伴う主義、主張といったものは、とどのつまり、その場凌ぎの進歩無き空論に過ぎないんだよ。君のその過去のトラウマに対する考察は、一見すると筋が通っていて正しいことのように思われるが、その実は何の解決も生み出さぬ無用の長物だ。要らねぇ思考だ。その筋を通し続けることは、君の未来にとって、何の得にもなっていない。果たして、君がその“過去のトラウマにいつまでも囚われる自分”を肯定し続けることに、何か意味はあるのだろうか。俺は、“何故、眼前の出来事に上手く対処できないのか”を徹底的に考察する実用性低き哲学よりも、“その先”の考察、すなわち、“そのトラウマを払拭するためには、どのような策を講じられるか”について思考を巡らし、行動に移すことの方が、君にとって、いや、生きとし生けるものにとってずっと大事なことだと思うのだけれどもね。過去にトラウマを植え付けられるような経験をしてしまったことは確かに変え難き事実であるかも知れないが、それならば、そのトラウマを払拭するためにはどうすれば良いか、そのためにはどのようなアクションを起こすべきなのか、そういった前向きな、成長ある方向に思考を向けるべきだと、俺は言っているのだ。例えば今回の件で言うならば、君が授業中の問いに対する回答を誤った時、教室中の空気が冷え込むよう感じられるのは、君が周囲のクラスメイトや先生と良好な関係を築けていないせいだと、俺は思う。日頃の君とのコミュニケーションが全く足りていないせいで、君の周囲のクラスメイトや教科の先生は、授業中に頓珍漢な回答を言い放った君に対して、どの様な反応をすれば良いのか、またどのような応答を示せば良いのか、全く分かり兼ねているんだ。だから君を適当にフォローする方法を見出せず、黙り込むより他なくなってしまう。俺みたいに、日頃から周囲の人間とコミュニケーションを取っていたならば、決してそうはならない。仮に俺が授業中に間違った回答をしたとしても、先生は日常的な俺とのコミュニケーションから俺に対してどのような関わりを持てば良いか分かっているわけだから、その経験を基に適当な反応を示してくれるし、その先生と俺との間の自然の応酬を見たクラスメイトも、両者の実に自然なる雰囲気、呼応を敏感にあらゆる感覚器官で感じ取り、変に身構えることもなく、そこに緊張した空気の生まれる余地は存在しなくなる。正解しようが間違えようが、何ら大きな変化は起こらぬ。だから俺は授業中に手を挙げて答えを間違えることが、何の苦にもならない。これは俺の、日頃の努力の賜物だ。いや何も、俺には君のような過去のトラウマが存在しないから「授業中に手を挙げる」ことに対しここまで深く考察したことは無いし、そもそもそんな下心からではなく、心から好んで周囲の人間と日常的にコミュニケーションを取っているわけで、その結果がただ「授業中に手を挙げる」行為に対するメリットに繋がっているに過ぎないのだが、つまるところ、今回の例でいくと、今の君の惨状への解決策は「過去に囚われ続ける自分を肯定ばかりしていないで、思考を前に向ける」ということと、「周囲の人間ともっとコミュニケーションを取る」という二点に集約されるといったところだな。これで君の、これからの課題は決定したも同然だ。“やらない”ための言い訳ではなく、“やる”ための解決策を講じろ!ほら、今から教室に未だ残っている連中と、片っ端からコミュニケーションを取って来い。それで君の未来は幾分明るくなる。手を、挙げられるようになる。成績が上がる。そうだろう。何か不満でもあるか。もう一度言うが、“出来ないことの言い訳”ばかりを考えていないで、“出来るようになるためにはどうすれば良いか”、をよく考えて実行せよ、だ。ほらどうした、早く行ってお話して来いよ。まさか渋っているんじゃないだろうな。今から行うちょっとした努力で、君の人生が大きく、しかも良い方向に変わるんだぜ。“やらない”なんて言わせねぇ。早く行って来い。ぐずぐずするな。」

ウサギはいよいような垂れて、ただでさえ小かった声が、いっそう小さくなる。
「カメのその主張は概ね正しいと思うよ。僕の抱える授業のトラウマの件について、原因は周囲とのコミュニケーション不足にあり、か。お見事。あっぱれな分析だと思ったよ。確かに、僕が周囲ともっとコミュニケーションを取るようになれば、教室中があのような空気になることはないかも知れない。ただ、それは僕が“良好に”周囲とコミュニケーションを取る事が出来て初めて達成されることなんだ。僕にはカメのような高いコミュニケーション能力が無いし、快活さも無いし、そもそも多くの人々と関わらんとする欲求が殆ど無いから、その様な自身の性質、性格を全く無視した分不相応の試みを敢行したところで、その試みにどうしても適応できぬ自分自身に苦しむばかりで、結局のところ中途半端かつ悪しき実績と、それに伴う嫌な、目を背けたくなるようなトラウマしか得られないはずなんだ。僕はそんな、結果の伴わぬ苦労をわざわざしようとは思えない。」

「進歩のためには相応の苦労が必要だと思うがね。」

「苦労の仕方を間違えてはいけない、と言っているんだよ。カメの言っていることは、“自分の持つ性質、性格を努力で変えよ”というのと、何ら変わらないんだ。そしてそんなことは、到底無理な話なんだ。この際だから言ってしまうと、僕は性来の内向的な性格を有していて、例えば多くの人々と沢山の関わりを持ったり、そこから多くの刺激を得ること――つまり、内向的な人とは真逆の、外向的な、明るく、陽気な人々の好みそうな事柄――に対してかなりの苦手意識を持っていて、しかし社会的存在たる者止むを得ずそのような“外向的対応”の求められる場面に遭遇することはどうしてもあって、そのような折には、僕を始めとする内向的な人間はかなりの無理をしてでも、何とかその場に合わせた“外向的環境”への迎合に努めるけれど、その後は、自身の性格に反する言動を取り続けた無理が祟った相当の心的消耗によりグッタリしてしまうわけで、しかしながらそれは総合的に見れば負の性質と言えるものだから努力によって直していこう、矯正していこう、等と言われたところで、生まれ持った性質は努力だけでは改善することが不可能の事柄だから、そうそうどうにかなるものでもないんだよ。内向的な人間が、外向的な人間の真似事をしたって苦しむだけなんだ。無理矢理自身の内向性を外向性に矯正する努力をするよりも寧(むし)ろ、内向的人間に生まれたが故に有することとなった、外向的人間には無い長所を伸ばすことに照準を当てた方が、ずっと重要で、有意義なことなんだ。遺伝子は、努力では変えられない。」

「『遺伝子』とは、また大きく出たな。」

「遺伝子だよ。内向的な人間と外向的な人間の違いは、「刺激に対する感度の違い」なんだ。外部から刺激を受けた際、感度の大きい人間は内向的な性質を持ち、そうでない人間は外向的な性質を持つと言われているわけだけれど、これは先天性のものなんだ。アメリカで子供を被験者として行われたとある実験に、未知の刺激を与えた際、“暴れる”、“泣く”といった反応を示す子供は将来内向的な人間となり、そうでない反応を示す子供は外向的な人間になったことが確認されたとする報告があって、つまりこれは、内向的な人間にとって強い刺激は、先天的に、外向的な人間と違って苦痛となり得るものであることを示すものなんだ。内向性を有し、外部刺激に対して過剰反応をし心的疲弊を重ねてしまう僕は、社交性ある外向的性格を持つカメとは、まるで脳の構造が違うんだ。これで分かったろう。内向的な性格の者にとって、あまりに多くの人と関わったり、賑やかな環境に長い時間身を置くことは、刺激が強過ぎて、疲弊してしまう。だから仮に僕が「大勢の人と良好な関係を構築し続ける」ことを目標に行動をしても、その試みはきっと失敗に終わる。そのような対策を立てることは、決して適当であるとは言えない。内向的な人間にとって刺激の強い環境は適していないし、そもそもこれらのことは、先天性のものだ。その“先天性のもの”を努力で変えようとすることは、僕達で例えるのなら、カメが僕に“かけっこ”で勝とうとする試みと殆ど同じようなことなんだ。どだい無理な話じゃないか。僕はそんな無謀の挑戦を試みるよりも、自分の特性をしっかりと把握した上で確立された、自身に合った、独自の考察に基づく解決策と努力で以て、この現実と向き合いたい。今回の場合は、“無理してまで手を挙げない”と心に決めることで授業を受けることに対する緊張感が抜け、却って僕は授業そのものに集中出来るようになるから、その“授業中の集中”から生まれる、単元のより深い理解によって試験で高得点を目指す。これが僕なりの賢いやり方――自分の特性をしっかりと把握した上で確立された、自身に合った、独自の考察に基づく解決策と努力――であり、このやり方を否定する気は、今は更々ないんだ。」

カメをどうにかして説得しようと紡がれたウサギの必死の言葉は、残念ながら、カメには届かなかったようである。寧ろカメの闘争心を煽る結果となってしまったようで、このカメの闘争心は、彼の口から、破滅的な、自暴自棄とも取れる恐ろしき、しかし至って、カメ自身の内面の本気と見られる一言を放たせてしまったのであった。

「――勝てるよ。」

「――は?」
ウサギは思わず、聞き返した。カメが何のことを言っているのか、分からなかったためである。

「いやだからさ。努力をすれば、“かけっこ”だって何だって、君に勝てる、と言っているんだよ。」

この人は、一体全体何を言っているのだろう?
ウサギは再度、自らの耳を疑った。脳を可能の限り回転させ、カメの先の主張に対し、どうにかして自身の腑に落ちる解釈を与えんとした。初めは、カメが下手な冗談を言っているのではないかと疑った。また、ウサギに対する苛立ちがあまりに昂じたが故、カメがうっかり口を滑らせてしまったのではないかと疑ってみた。しかし至近距離で窺い知れるカメのその目は、本気であった。カメのその目の潤いと、顔面の緊張感ある張り、そして全身の、凜とした堂々たる佇まいは、カメが純粋な心で、先の言葉を放ったことを物語っていた。どうやら、カメは本気で、ウサギに、かけっこで勝つつもりでいるらしかった。

この純真たるカメの心意気を、笑うこと勿れ。このカメの気持ちの分からぬ人は、仮に“ウサギ”を“秀才Aさん”に、“カメ”を“凡才Bさん”に、そして“かけっこ”を“勉強”にでも置き換えていただければ、カメのその心を、遙かに深く、より身近なものとして理解出来るようになると思う。Bさんは、Aさんには到底、敵わない。もし通用するとすれば、Aさんが全くその方面での努力を放棄し、一方でBさんが必死の努力を継続した時のみだ。しかしながらそのような状況は、滅多に起こらぬ。“秀才Aさん”が努力とさえ思わず行う、苦痛なき軽い勉強が、“凡才Bさん”にとっては相当の努力を要する大事業の如く感ぜられる状況の存在する可能性さえ極めて高く、この場合、精神的に余裕綽々たるAさんが満身創痍のBさんを軽く成績で上回ることは、容易に想像できる。この一例からも分かるように、Aさんが「全くその方面での努力を放棄」するような状況は、どうにも、なかなか起こりようがない。このことは、以下のウサギとカメのかけっこにおいても端的に表れることになる。

カメは言った。
「君みたいな、大した努力もせず言い訳ばかりをして行動を起こさない人間を見ていると、俺は悲しくなるよ。『ああ、きっとこの人はこの先、幸せになることはないんだな』などと考えてしまって、俺はやりきれなくなるんだ。この際だからはっきり言おう。この世界で幸せになれる人間の条件は、ざっくり言ってしまうならば、ただ一つだ。努力で以て自己を改善していける人間であること――これに尽きる。これに決まっている。俺達には、社会で上手く生き抜くため、未だ備わっていない様々の要素が沢山ある。これら沢山の不足を、努力で補っていける人間こそ、社会に順応に適応し、幸せを掴んでいくことが出来るのだ。君の場合は、その不足が“コミュニケーション能力”であり、仮にそれを改善出来たとすれば、君の人生は“他者と円滑なコミュニケ-ションを取れるようになること”によって、良い方向に大きく変わっていくんだよ。ちょっとした努力の継続が、幸せになれるか否かを決めるんだよ。何が、『遺伝子は、努力では変えられない』だ。そんなものを言い訳にしていたら何も成長しなくなるじゃねぇか。君の場合は、他者との関わり合いが上手くいかないばっかりに、学校では試験で損をすることにもなれば、これから社会人ともなれば、コミュニケーションの取れる人間と比較して仕事が能率的に行えなくなるし、出世にも影響するようになる。自己の承認欲求もろくに満たせず、社会的には孤立感をも覚えるだろう。これらは努力して自分を変えていかないことには、高い確率でやってくる未来だ。確かに遺伝子そのものが変わることはないだろうが、そこは数多の“トライアル&エラー”と、そこから得られる経験値で以て先天的な負の性質を心掛けひとつで改善し続けていけば良い話だ。そのような努力もせずに、元々の性格や性質を言い訳にした努力の放棄により自身が置かれることとなった、あまり好ましくない現状に甘んぜざるを得なくなっている君を見ていると、俺はやりきれなくなる。お節介にも、どうにも静観してはいられない。」

カメのこの力強き真っ直ぐの主張に、ウサギの心はグラと揺らいだ。カメの言っていることは、実は正しいのではないか。実は自分は、あまりに多くの事柄を先天性のものと結び付け過ぎていて、その改善の困難さにかこつけて、必要以上の努力の放棄をしてしまっているのではないか。遺伝子という単語に、甘え過ぎてしまっているのではないか。そのような疑念がふと脳裏をよぎったが、その疑念を、自身のこれまでの人生から得た多くの経験、試行錯誤と、そこから生まれた様々の哲学が、しっかりと払拭してくれた。そう言えば自分にも、カメと同様の思考を有していた時期があったではないか。カメの持つその思考は、確かに美しかったし、魅力的なものであった。他者より勝る努力で以てあらゆる困難を乗り越え、自身の理想を掴み取る。その試みの成功した暁には、その経験そのものが多くの人々の賞賛されるところとなる、立派な信念たり得るものとなる。否、立派な信念どころか、一見するときちんと筋の通った、当たり前の、幼少期より教育される基本的な考え方のようにも思われるではないか。しかし、だ。この思考には一つ、大きな欠点がある。自身の力ではどうにもならぬ困難に直面した際、無情にも露わになってしまう大きな欠点が、ある。『自身の力ではどうにもならぬ困難』とはすなわち“生まれ持つこととなった自身の負の性質に由来する困難”のことであるが、この先天性の負の性質というものを努力だけで全く変えることにより、その困難を乗り越えることは不可能だ。カメのような思考に完全に囚われてしまうと、その不可能な目標の達成出来ぬ自分自身に必要以上の自己責任論を振りかざすようになり、その結果待っているのは不甲斐なき自分を責め続け、けれども一向に事態が好転することなく心身共に消耗するばかりの未来であり、そこに幸せなど存在しなくなってしまう。この考えは、やはり譲ることが出来ぬ。努力による自己改善は確かに大切だ。しかし、そればかりに頼り過ぎると、何処かで、破滅の道を辿ることになる。これがカメの、一見筋の通った幼少期より教育される素晴らしき思想の、一つの、しかし致命的な欠点だ。幸せというものが、カメの考えるそれのような、窮屈極まるものであってたまるか。
努力だけで何事もどうにかなるという考えに過度に傾倒することは、危険である。カメにもその考えを、少しでも知ってもらいたい。勢いを取り戻したウサギは、どうやら体勢を立て直したようである。先程より少しだけ、声のボリュームが大きくなった。

「世の中にある程度定まった“幸せの形”なるものが存在していて、そこを目指すことが人間の“幸せ”たり得るなどという考え方には、あまり賛同したくないな。幸せになるための努力っていうのは、ある一定の型に自身を嵌(は)めるための努力ではなくて、ありのままの、何の成形加工も施さない自分のまま充実した日々を送る道を模索する行為の事だと、僕は思う。もっと言うと、幸せな社会っていうのは、苦心に苦心を重ね、型にはまった幸せを得ようと躍起になる人々の大勢いる社会のことではなく、どんな性質を有する人でも、自分に合ったそれを活かして幸せになれる方法が何処かにに存在している、それが本当の“幸せな社会”と呼べるものなんだと思う。カメの主張は、分かる。努力をして結果が出れば、それは自身の成長に直結して、より良い人生を送れるようになる可能性が高くなる。でも、やはり世の中には、大きな結果の出しようのない試み、努力というものも確かに存在していて、それは先天的に負った性質の改善という一事が大きく関わることなのだけれども、そこをどんなに頑張っても、確かに少しは改善するかも知れないが、掛けた時間や労力の割には進歩がなく、そのためモチベーションも上がらず、けれども必要のあるものだから更に苦心して努力を継続するも、その苦心も虚しく無残にも周囲から叱責され、その周囲からも置いて行かれるばかり、しかもそんな自分を『努力不足』の一言で責め続けては、いよいよ意気消沈、自信喪失、健全なる心が、生活が、死んでしまうことになる。カメのその思想は素晴らしいものなんだけれども、あまりにその考え方に傾倒してしまうと、“自身の力ではどうしようもない困難”にぶつかった時、その人の人生がめちゃくちゃになってしまう。時には、“努力の放棄”というものが、幸せを掴むための立派な戦術となり得る状況が存在するんだ。そのような放棄すべき努力とは、正にカメが先に主張していた、僕に“かけっこ”で勝つようなことであり、このことは、内向的な僕がカメのような外向性を努力で以て体得することと、同じ関係なんだ。確かにカメがかなりの努力をすれば、必ず足は速くなる。でもそれは“かけっこ”で僕に勝つ程度には遠く及ばないし、それを目標に定めてしまったら、どんなに努力をしても遙か目標に到達しない自分自身に嫌悪感をも抱いてしまうだろう。同様に、僕が多くの人間と沢山の関わりを持ちそこから様々の経験を積めば、今より対人において多少は上手く立ち回れるようになる。でも、だからと言ってカメのように、水の低きに就くが如く“良好なる対人関係”を継続するには遠く及ばない。強い刺激を受け続ける際の心的疲労感は、一向に改善しない。この素質は僕にとって、主たる改善すべき事柄ではないんだ。僕のしてきた過去の手痛い経験が、それを教えてくれている。カメは足の速さで優劣の定まる世界を確実に避けるべきだし、僕はコミュニケーション能力で優劣の大きく定まる世界を極力避けて、その中で自身の理想とする姿を追い求めるべきなんだ。」

ウサギは必死の説得を試みた。が、残念なことに、やはりカメの心にはまるで届かないようであった。

「よし分かった。よく分かった。君と俺とは、分かり合えない人種なのだということが、よく分かった。今日は、君にしては珍しく饒舌だったね。俺は感心しちまったよ。いや感心したっていうのは、君のその甘ったれた信念の方ではなくて、その舌の回り振りの方に感心しちまったんだ。君でも、その気になればベラベラと喋られるじゃねぇか。そんだけ喋れれば、上等だ。将来はTEDにでも出て、大衆の前で大演説を振りかざしてくれば良い。どうやら俺は君を見くびっていたようだ。そんなに言うなら、“かけっこ”で勝負しよう。俺は必ず努力を積んで、君に勝ってみせるぜ。その暁には君も大いに反省して、ちゃんとその腐りきった考え方を改めるんだな。」

以上の言葉を残し、カメは教室を後にした。
一方、カメの心を言葉だけでは響かせることの出来なかったウサギは、しばらくしおれた後、不承不承教室を後にした。
あの純真たるカメを、自らの手で負かさなければならないのか――ウサギは、酷く憂鬱であった。

ウサギに宣戦布告したその後のカメの努力といったら、凄まじいものであった。おおよそ二年もの間、ほぼ休むことなく体を鍛え続けた。専属のコーチもつけ、正しき方法で、徹底的にトレーニングを積んだ。この間行ったトレーニングはカメにとって、心身共に、非常に苦しいものであった。しかしウサギに勝つことを目標に、粘り強く努力を継続した。その結果として決戦の当日、カメの姿は見違えるものとなっていた。かけっこのタイムでは、他のどのカメをも遙かに凌駕する成績を収めていた。斯(か)くの如く、カメの努力は確実に実を結んでいた。片やウサギは、それまでの日常を特別変えることなく過ごした。自転車で登校し、授業を受け、剣道部の活動に参加して、自転車で帰宅する。その生活に、“かけっこ”に向けた特別の努力は存在しなかった。が、跳躍走行に適した身体構造を持つウサギは、普段の規則正しき生活を継続するだけでも、ただコロコロと動き回ってさえいれば、自身の意図せぬところで、走行に用いる筋力の最低限の維持という努力を実行できていたのであった。そして残酷なことに、それはカメの必死のトレーニングで得られる努力の質を難なく上回っていた。

さて、決戦当日。ウサギとカメの“かけっこ勝負”の噂はこの二年の時を経て学校中に知れ渡り、その様子を見ようと、校内には沢山の見物人でごった返していた。大半が、カメの応援者だった。その多くは下馬評を覆す、カメの大どんでん返しを期待する面白半分の見物人であったが、一部、カメの必死に努力するその姿に感銘を受け、カメを心底から尊敬している者もあった。後者は、心からカメの勝利を願っていた。ウサギの側に付く見物人は、せいぜい二、三の、ウサギと仲の良い友人くらいで、その数は殆どいなかった。ウサギは元来コミュニケーション能力が大して高くなく、校内にカメほどの多くの仲間がいないのである。ウサギは完全にアウェー状態だった。
この日のウサギは絶不調であった。昨晩は決戦への緊張から眠られず、おまけに大勢のカメの応援者に包まれたこの校内の雰囲気が精神的にどうにも堪(たま)らず、まるで全身の血流があべこべになっているような、自分が自分でないような感覚にさえ陥っていた。一刻も早く、この居心地の悪い環境から解放されたかった。
いよいよ、スタートの時が来た。

位置について

ウサギとカメは、各々スタートラインに付き、静止する。

よーい、

多くの見物人が我が身を乗り出し、二人の勝負の行方を見守らんとする。

どん

かけっこ開始の合図が、かかった。両者同時に、地面を強く蹴り上げる。ウサギはあまり芳しくない体調と相当の精神不良により、思わず足が縺れ、チグハグなスタートとなってしまった。一方カメは日頃の努力の成果が出たようで、良好なスタートを切り、そのまま波に乗った。好調なペースで、ずんずん進む。が、その好調たるカメの遙か先を、ぎこちない足取りながらも、絶不調のウサギは走っていた。ウサギの、地面を強く蹴り上げるその足の筋肉の付きは、カメのそれとは比べものにならぬ程の脚力を生み出していたためである。また、後肢に備わるウサギの四趾は足の接地面積を小さくし、ウサギの意図せぬところで、より強力な地面の蹴上げを実現していた。大きくカーブした背骨は、ウサギの跳躍走行を適切に補助した。このような走行に適する身体的特徴を持たぬカメは敵うところなく、ウサギにずんずん離された。こうなるとカメの頼みの綱となるのは、かの有名な童話『ウサギとカメ』のように、ウサギの心的驕りまたは体力の消耗故、ウサギに昼寝をして貰い、その隙を狙い一気に抜き去るというシナリオであった。努力は決して裏切らない。この先、必ずドラマが待っている。カメはそれを信じ、自分のペースで前へ前へと歩みを進めていった。ところが、ウサギに備わる逞しき筋肉は、ヘモグロビンよりも酸素飽和度の高いミオグロビンを豊富に持つため、持久力に優れていた。ウサギは走行中、確かに疲れを感じてはいたが、その程度は休憩をするほどではなかった。また、警戒心の強いウサギのことである。この完全なるアウェー状況下、勝負に負けた際に被る心的ダメージを警戒し、とても競争中に昼寝をするなどという嘗めた行為に出ようとは思えなかった。寧ろ、休憩を必要とすべきは走りに適さぬ体を持つカメの方であった。カメはどうしても、道中で数回にわたる小休憩を取らなければならなかった。カメが休憩を取っているその間にもウサギはずんずん進み、難なく山の頂に到達し、ゴールテープを切った。結果はカメを大きく引き離す圧勝であった。下馬評通りの必然たる結果に、見物人の大半は多少の落胆の表情を浮かべ、そそくさと帰り支度を済ませた後、方々へ散っていった。カメを尊敬する見物人は、眼前に現れたあまりに無情極まる結果に目を潤ませながら、それでもカメに必死のエールを送っていた。

勝利が決定した後、ウサギは一つ大きく息を吐いた。同時に、自身を覆っていた嫌な緊張が幾分弛緩し、勝負に勝ったことに対する安堵感が生じるのを覚えた。それに伴い襲って来た抗い難き眠気に身を委ねることにし、ウサギは眠りに就いた。しかし先刻まで勝負をしていた興奮の余韻が殆ど消えておらず、眠りは随分浅いものだったようで、ウサギは比較的短時間で目を覚ましてしまった。目を覚ました時には既に、カメがゴール地点まで辿り着いており、ウサギの前で鎮座していた。ウサギは驚いた。ウサギの予想よりも遙か早くに、カメがゴールをしていたからである。
ウサギは眼前で、神妙にかしこまっているカメに何か言葉を掛けようとしたが、適当な言葉を思い付くまでに時間が掛かった。「予想していたよりも、ずっと速かったよ」などという言葉は、たとえそれが本音だとしても、きっと今のカメの心には届かないだろうなと思った。そのような慈悲の如き一言は、却って、カメを惨めにするだけである気がした。それならば、掛けようと思っていたものとは内容の真逆の言葉を、敢えて掛けてやったらどうか。案外そっちの方が、敗者は救われるところがあるのではなかろうか。ウサギは思い切ってカメに言った。
「随分、遅かったね。」

カメは苦しく笑って返した。
「めちゃくちゃ頑張ったつもりだったのだが、話にならなかったな。」

苦笑し返すウサギに、カメは続ける。

「正直言って、この二年間は俺なりにかなり苦しんだんだ。どんなに頑張ったって、思うように結果は付いてこなくてさ。コーチに、『両の後ろ肢で地面を力強く蹴り上げて、飛ぶようにして走るんだ』とトレーニングの徹頭徹尾で指導され続けて、理屈は分かっていたのだけれど、思うように体が動かなくって。自分の体を叱りつけていじめ抜いて、辛く苦しい筋肉トレーニングにも、柔軟体操にも耐えて、どうにかその走法を体得したけれど、結果はこのザマか。練習中に『もしかしたらウサギの言っていたことは正しかったのかも知れない』と思う瞬間が何度もあったけれど、その度折れそうになる心を立て直しては、努力を続けてきたんだけれどもな。それなのに、どうしてこんな仕打ちを受けなければならないのだろうね。必死に頑張っている人間を、天は斯くも簡単にコケにするのか。まったく馬鹿馬鹿しいにも程があるよ。俺はこの一件で急に、生きることが酷くつまらぬものに思えてきてしまった。」

カメのこの言にウサギは少しばかりの寂しさを覚えたが、構わず自分の思うところを主張することにした。少しでもこの言葉が、カメに届いてくれれば良いなと思いながら。
「だから言ったろう。『遺伝子は、努力では変えられない』んだ。でもこの言葉は、何も虚無主義を推奨するために述べた言葉ではなくて、事実を事実として、しかしながら最後は皆の救いになる考えと思って述べた言葉なんだよ。僕は、この事実は時に残酷な言葉として自身に突き刺さってくるけれども、最後は自身の身を守るセーフティーネットとしての役割を果たしてくれるものになるんだということを、分かって欲しいんだ。今回の件で言うならば、この言葉は、カメが『足の速さ』ばかりが重視される世界に身を置くべきでないことを教えてくれている。もしカメがこの言葉を知らずに、努力で『足の速さ』を改善することにより幸せを掴もうと躍起になっていたら、たちまち人生が苦痛だらけのものになってしまうんだ。折角カメには“高いコミュニケーション能力”という素晴らしい武器があるのに、『足の速さ』ばかりに拘って、それが評価に直結する環境に身を置き続けていると、素晴らしい性質を有しているにも関わらず自己否定にばかり走ることになって、必要以上に自分を責め続けて、以て自信の喪失、自己の喪失、そして程なくして生きる意味の消失にまで繋がってしまう。そんなの、もったいないよ。カメにはしっかりとした長所があるんだ。それを活かせる環境に身を置くことこそが、カメにとって幸せへの第一歩となり得るんだよ。そしてそのような、如何なる性質を有する人間であっても、自分を殺すことなく幸せになることの出来る環境の存在している、そんな社会こそが、真の幸せな社会なんだと、僕は思う。決して、努力で『足を速く』出来る者だけが幸せになり、そうでない者は不幸せのままであるような社会が、幸せな社会とはなり得ないと、僕は思うんだ。」
悲しみに暮れるカメは小さく、けれども確かに頷いた。



13件のコメント

  1. お久しぶりです。
    仮面浪人のブログ時に「私も吃音で悩んでいます」という趣旨のコメントをしました、jokerです。覚えておいででしょうか?

    亀井さんがこのブログを立ち上げてからも、度々記事を読ませて頂いていました。
    亀井さんの大学時代については、前ブログにて拝見していましたが、今回の「ウサギとカメ」にも、亀井さんの「努力」に対する考えが書かれていて、とても面白いなと思いました。
    かけっこで、カメが大どんでん返しで勝っちゃうのかなと思いましたが、ウサギが無慈悲(?)にも圧勝してくれたので、ある意味安心しました。

    「努力」に関しては僕も思うところがあるので、少し持論を書かせて頂きます。
    そもそもなぜ大人たちが「努力は大切だ、欠点を改善していくことが大切だ」というのかと言うと、「幸せになる確率を上げる」ためだと思うんです。
    学力やコミュニケーション能力を上げていけば、いい学校、いい会社に入れる確率が上がり、結果的にいい人生になるという考えです。いい学校には優秀な人間が集まるし、いい会社では給与が高く、残業があまりないという待遇を得られます。反対に学力や容姿、コミュ力が低い人は低偏差値の学校、安月給、長時間労働のブラック企業へ入る確率が高くなり、不幸になりやすくなります。
    じゃあ、改善しようのない欠点を抱えている人間はどうすればいいのか、どうすれば幸せになれるのか…、それは自分たちで考えていくしかないのかもしれません。
    基本的に、学校というところはマイナーな欠点、ハンディを負っている人を前提とした教育をしていないので、どうしても僕たち発達障害を抱える人間にとっては、大人たちの言うことが厳しく聞こえてしまうんだと思います。
    そういった、世間の声にも負けずに、日々を一生懸命に生きることが、僕たちの「努力」なのだと思います。

    個人的には、大学時代の話よりも、亀井さんが「今」どうなのかということを知りたいですね。仕事内容や、職場で経験したことに対する考えなどを記事にして頂けると嬉しいです。僕も社会人三年目なので、会社での出来事の方がより共感できるかもしれないです。
    お仕事大変だと思いますが、頑張ってください。

    1. お久しぶりです!
      もちろん覚えています。引き続きブログを読んでくださり有り難うございます。その後体調等お変わりありませんか?

      努力について
      努力をして自己の欠点を補ったり、長所を伸ばすことは大事です。jokerさんの仰る通り、これらの努力は人の幸せになる確率を高くします。何でもかんでも気質のせいにして努力を放棄する姿勢はいただけません。気質のせいでどうにもならないものと、そうでないものをしっかりと区別していく必要があります。その作業はとても難しいものですが、取り分け生きづらさを覚える方々には必要となる作業なのかなと思っています。

      そうですね、発達障害者に限らず、誰しも一生懸命生きることは、幸せを掴むために大事なことだと思います。大人の言う「努力大切論」は概ね誤っていないですし、取り敢えずはその論に従って生きていくことが人生の基本だとさえ考えています。しかし、それは決して100%ではない思想。一見全く正しいですが、実は綻びのある思想なのです。従って、不運にもどこかで道に逸れてしまったとき、この論の強さに囚われるあまりに、自分ばかりを責めてしまうことはナンセンスな可能性もあるんだよということを、このお話を通じて伝えられればなと考えています。努力の報われる話ばかりがこの世に溢れていたら、それは一部の人にとって息苦しいものかも知れません。

      ブログについて
      大学時代ではなく「今」についてですね!了解です!次の記事(正確に言うと、次の次の記事。次の記事は2018年の総括にしようかなと考えています)は大学から離れて、就職後のあれこれについて書きますね。

      コメント有り難うございました。jokerさんもお仕事、頑張ってください。

  2. お久しぶりです。あおです。

    ふくろうさんの記事はいつも、更新されてから1週間以内には拝見しています。今回の記事も、とても読みがいがあり、おもしろかったです。

    ふくろうさんは、お仕事や体調の方はいかがでしょうか。私はといえば、前期の途中から、自分の数学に対する能力のなさに呆れ、実質大学を休学状態になっておりました。現在は後期が始まっているので、そこからはぼちぼち学校に行っているところです。本文の中で、「あまりに多くの人と関わったり、賑やかな環境に長い時間身を置くことは、刺激が強過ぎて、疲弊してしまう。」という箇所がありましたが、そういったことも原因の一つにあり、前期はいよいよ学校に行けなくなったように思われます。

    さて、今回は「努力」に関しての記事でしたね。私自身も、ふくろうさんが今回の記事で書かれたようなことは、本当にしょっちゅう考えることです。そして、やはり私も、「努力」に対してほぼほぼ同じ考え方を有しています。

    「努力」という言葉を頑なに押してくる人、例えば「自分もお前のように最初はうまくできなかったが、今はできるようになっている。よってお前は努力が足りない」といったことをいう人は、結局、その人がその分野に関して、一定の(先天的な)能力を有していたといえると思っています。ただ、もしかすると、本当にその人は、その分野に対して才能を持っていなく、常人には到底考えられない量の努力をして、高いレベルになったのかもしれませんね。ただもしそうであるならば、その人は自分の有している限られた時間を、とんでもなく非効率的な使い方をしていることになるため、やはりそれもそれで良い話ではないと思われます。ある程度センシティブな人にとっては、その時間の無駄プラス、圧倒的な心的疲労を引き起こされます。(現に私がそういう状態になっております)ですから、やはり幸せに生きようと思えば、自分が先天的に向いている事柄に対して、自分の有した時間を最大限つぎ込んでいくということが重要だと思っています。

    ふくろうさんも、ハイレベルな大学の理学部で学ばれていたので、これは共感できることと思うのですが、例えば勉強という分野に関しても、できる人は本当にできる人がいますよね(笑)自分が後何年、本気で勉強したらこの人のレベルになるのだろう。。。と、考えさせられます。頭の回転の速さが、段違いで違う。そういう人は大学という、学びの場所が、本当に最高の場所であると思います。なぜならその人の有した能力を、最大限に発揮できる場所であるのですから。私も、自分のとってのそういったフィールドを探していかないといけないなと思っています。そしてそのことに対して、たくさんの努力をしていきたいなと思っています。

    「神よ、願わくばわたしに、変えることのできない物事を受け入れる落ち着きと、変えることのできる物事を変える勇気と、その違いを常に見分ける知恵とをさずけたまえ」(ニーバーの祈り より)
    どうやら、その違いを常に見分ける知恵は、神からは与えてくれないようなので、それは自分の努力(行動)をもって、見定めていきたいなと思っています。

    1. お久しぶりです。
      有り難うございます。そう言っていただけて嬉しいです。と言うのも、実は今回の作品、自身のブログ史上最も力を入れて書いた記事だったので(笑
      仕事はぼちぼちやれています。大学時代に比べると、断然今の方が健全な生活を送れています。自身、「社会人になったらもっと大変だ」という言葉を散々聞かされ続けてきた身ですが、今のところ、その様なことはありません。この言葉があおさんの将来への希望になってくれればなと思います。

      努力に関しては、“その人がどの様な人生を歩んだか”によって各々の認識が違ったものになると考えていますが、私はやはり、本記事のような認識が真実に近いことのように感じています。一定の結果を出すための努力を継続できるだけの素質というものは、どうしても必要です。仰る通り、「努力“だけ”でカバーした」というのは誤りで、正しくは「最低限の先天的素質と、圧倒的努力量でカバーした」だと思っています。カメは幾ら頑張っても、ウサギには勝てません。これは人間の脳みそだって同じです。
      しかしそんな私も、「圧倒的な努力で他者を出し抜く」系の話にはかなり惹かれますし、憧れている人間の一人です。ただ憧れと現実は違うので、そこはきちんと見極めなければいけないところです。

      そうですね、共感します。勉強の出来る人は非常に出来ます。一切、勝てる気がしません。彼らにとって自身の得意の活かせる学校は、確かに、最高の場所でしょうね(笑)我々は、自身の特性の活かせる(または負の特性が出にくい)環境の模索に心血を注がなければなりませんね。そのための努力は、決して怠れないものですよね。

  3. ふくろうさん、初めましてゴットと申します。ふくろうさんの作品熟読させていただきました。私も実は障がい福祉職員です。日々大変な苦労がよくわかります。私は生活介護というカテゴリーにいます。毎日誰かに、殴られたり蹴られたりしています笑、ただ今までは物を扱う仕事しかしてなかったので、対人になったときに、こんなに楽しい仕事があるんだなぁと思い、日々務めています。又、素晴らしい作品作って下さい。楽しみにしています。個人的にはウサギとカメが最高でした。
    因みに八方美人は社会にとって大きな武器になると、私は思いますよ、そんなに悲観的になることは無いと思います。
    したくても出来ない人もいっぱいいると思いますよ、因みに私は出来ないので、ふくろうさんが羨ましいです。理不尽が許せなくて、つい反抗してしまいます。社会から取り残されるタイプです笑、話しが脱線しましたが、又、愛のある作品待ってます。失礼します。

    1. はじめまして。記事を読んでくださり、ありがとうございます!

      そうなんですか!私も生活介護で働いています。生活介護は確かにいろんな事がある仕事ですが、それゆえ(あとはコメントにもありましたが、対人ゆえ)に起こる様々なドラマには感動することも多いですよね。お互い、良い物語を沢山作っていきたいものですね。
      これからも創作頑張ります。ウサギとカメお褒めくださり、ありがとうございます。本当に、この作品は創るのに苦労したのです(笑)

      八方美人に関してですが、常に他者が自分に求めている言動を考え、それに適うよう努める生活を続けることはかなりの疲れを伴うし、いずれイソップ物語のコウモリのようになってしまうのではないかという恐れもあるため、出来ることならば、改善していきたいところです。いえ、100%改善することは出来なくても、もう少し、肩の力を抜いて自分の意見を主張できるようになりたいなと考えています。私としては逆に、反抗できる人を羨ましく思っているところです。

      これからも質の良い作品作りに励んでいきますので、今後ともよろしくお願いします!

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