内向性イマジネーション

2月21日木曜日。長かった一日の仕事を終え、大きく息を吐く。駐輪場から自転車を出し、意気揚々とサドルに跨がり、いつも帰っている社宅とは反対方向へハンドルを切る。カラオケへ行こうと思ったのである。味気ない平日を彩る、仕事終わりのカラオケ。回数を重ねる度に自身の腕前の上がっている気配が感じられ、そのことを心より楽しめるこの時間が、とても好きだった。得々としてペダルを漕ぎ出す。この“ペダルのひと漕ぎ”と共に奏でられし、タイヤコンクリート間の摩擦音は、眼前に迫りし歓楽に対する感嘆の歌謳か、それとも労働にて辛抱を重ね今日一日を無事に乗り切った自身への労いの賛歌か、あるいは明日の仕事に向けた動力確保を促進するカプリッチオか――

――いやそれにしてはこの音はどうも、気分の高揚に乏しき望まれぬ音のように感じる。聴いているこちらが嫌な気さえしてくる。どうやらこのメロディーは歌謳や賛歌の類ではなく、単に自転車のタイヤがパンクしている時に発せられる不快音のようだ。

タイヤのパンク――嫌だ、信じたくない。けれども、今この瞬間に起こっている我が自転車の舵取りの不安定さを見よ。間違いない、タイヤはパンクしている。ほぼそれと決まった。残念ではあるが本日のカラオケは諦めて、ホームセンターへタイヤを修理に出さねばなるまい。大変興醒めな気持ちでそろそろと自転車から降り、後輪に触れてみる。こちらは問題がなかった。「それでは」と、恐る恐る、僅かな期待を胸に抱きつつ、天に祈りながら前輪に触れる――あっ、この野郎。今日一日、このカラオケだけを楽しみに頑張ってきたというのに、何てことをしてくれるんだ。

 

しかしこの事実をいくら嘆き悲しんでも仕方がない。眼前の事実を、嘆き悲しむ勿れ。一体、事態を嘆き悲しめば、カラオケに行けるようになるのか?事態を嘆き悲しみさえすれば、前輪のパンクが直るのか?直らないだろう。だったら、無用に嘆き悲しむのは止め給え。無用の嘆きで以て、自身の脳内を無念の情で充填し、己が細胞を壊す勿れ。

込み上げる悔しさを振り払うように、自転車と己が身を“くるっと”回転させ、以て進行方向を180度変えた。カラオケの予定、急遽変更。代わりに、自転車を押し歩いて、とぼとぼホームセンターまで向かうことになった。本日のカラオケ代は、前輪のパンク修理代と相成るのだろう。まあ、人生そんなものだよな。寧ろ、これまで何の障壁もなく送れていた日常の方が、幸せすぎたんだ。いつもと変わらぬ日常に対し、もっと感謝をしなければならなかった。

だがこの「平凡な日常に対し感謝の気持ちを忘れる勿れ」の気付きが、ほんの一瞬の感慨であることは既に分かっている。どうせ明日には喉元過ぎれば熱さを忘れ、何の変哲もない日常を当然送れるものとして、私は日々を生きていくことになるのだろう。「転んだときだけ気付く混凝土の固さ」とは、よく言ったものである。名言だと思う。
 

 ホームセンターまではおおよそ30分強といったところである。それまで、お得意の「物思い」にでも耽ることとしよう。仕事終わりの貴重な30分、ただ漫然と歩いてなるものか。


この日は2月半ばだというのに、4月上旬並みの春の陽気であった。歩いていて、心地がよい。私は、春という季節が好きである。暖かな春の日に外へ出て、芝生の上に寝転がり、目を閉じ、少し涼やかな風が体の表面を駆け抜けるのを、全身いっぱいに、いつまでも感じ取っている――この情景は、私の将来に描く大きな夢である。世のあらゆる煩わしき事柄から自身を心身共に解放させ、全身で100%,春を感じていたい。いつかそんな日が来るかしら。いつか、社会の喧噪から自身を解放させ、平穏を手に入れられる時が来るかしら。きっと来るだろう。だがそれは今よりもっと先の話で、この先、人生においてもう少しの挫折と絶望を味わってからでないと、その境地に立つことはできないだろう。あらゆる事柄において八方美人が捨てきれない今の私は、人間としてあまりに幼い。自身の精神的平穏の担保された生活を送ることを切望しつつも、その欲求とはほぼ真逆の、お金や名誉、競争への勝利といった、世俗に蔓延る誘惑を実際のところ、全く黙殺できていない。この止められぬ八方美人が元凶となって、実際にもっと手痛い目に遭ってみなければ、私は一皮剥けるのが難しいだろう。愚かなものだ。それまでせいぜい、悩むんだな。

 

そう言えば、今年の4/27から6/2まで、長崎県のハウステンボスにて「バラ祭」が行われるそうだ。先日、テレビCMでやっていた。インターネットで調べてみる限り、お洒落かつ綺麗な雰囲気の写真が沢山上がっていた。きっといいところなのだろう。2019年の春を感じるがてら、ふらふら行ってみようか。金曜日に年休を取得し三連休を創り出せば(そう、休日は「創り出す」ものである)、何とか行けるはずだ。前向きに検討することにしよう。そもそも、就職前は「就職してある程度お金を稼いだら、色々な場所へ旅行してみよう」等と考えていたではないか。昨年度は何処かへ旅行したか?殆どしていないはずだ。よし行こう。今行っておかないと、きっと将来後悔する時が来る。死ぬ前にする後悔は、できる限り少ない状態にしておきたい。よく耳にするではないか。死を目の前にした人間が口にする後悔で最も聞かれる言葉が、「もっと自分らしく生きれば良かった」というものだということを。我々は、自分自身を社会的“体裁”へ過度に縛り過ぎるあまり、“自分らしさ”というものを抑えつけすぎているし、人生をどう歩むかを選択するための視野が狭くなりすぎている。その結果、人生をある程度自由に送っているようでその実は、大変窮屈な人生を自身に課してしまっているのである。いや視野が狭くなりすぎているあまり、「大変窮屈な人生を自身に課してしまっている」ことにすら気が付いていない。体裁の仮面を全く外すことが出来さえすれば、本当は今よりももっと自由な人生を送ることは出来るのである。今一度、自身の真の心の欲求に目を向けていきたいものである。“体裁”の仮面を取って、自身の本当に欲するところのものを、全力で追いかけていく、そんな人生を、ゆくゆくは送ってみたいものである。今の私はまだまだ、“体裁”の奴隷だ。“世俗の誘惑”に尻尾振って同調する従者だ。人生の選択における優先順位は殆ど体裁>>自分 なのだ。さて、そんな私がもし明日死ぬこととなったら、何を後悔するのだろう?「これ」といったものは無い。どちらかと言うと、「過去に為せなかったこと」への後悔よりも、「これから為し得たかも知れぬ将来のあれこれを全て体験せずに死ぬこと」への無念の気持ちでいっぱいになると思う。自分がまだ若いせいであろう。少なくともこのまま日々の大半を労働に費やし、その月給で食いつなぐ生活を何年も何年も送り続けていたら、更に年を取った己に同様の問いを投げかけた際、「もっと“体裁”や“世俗”の仮面を取っ払って、自分らしい自由な人生を送れば良かった」と、その他大勢の人達と同様の後悔をすることになるであろう。

では、その「後悔」をしないためにはどうすればいいのだろう。今の仕事を心より楽しんでやれるようなマインドを創り上げるのか、それとも現職業とは別に天職を見つけ、そこでの業務をキラキラ全うするのか、はたまた世捨て人となり山に籠り自給自足の生活を営むのか。私は、本ブログで書いているような自身の書く記事や、文章そのものが突破口になるのではないかと期待している。あくまで「期待」の域に留まるが、自身の頭の中の思考を文章にまとめ、それを具現化する行為の連続が、自身の生きる意味、人生における目的を果たすための鍵を握っている、延いては「自分らしく生きる」ことに繋がるのではないかと、考えている。


それにしても、前回の記事『ウサギとカメ』同様、思っていたよりアクセス数がなく凹んだ。個人的に、前回の記事はありきたりな題名ながら他サイトの類似記事とは様相を異にしたかなりの力作であり、沢山のアクセスがなされることを期待していたのだが、2/13夜に記事を更新して、その日は勿論のこと、2/142/15とアクセス数0行進が続き、記事への期待の大きかった分悲壮感は大変なもので、その悲壮感に完全に押しつぶされそうになっていたところ、2/16にようやく一件のアクセスのあったときはそれはもう跳んで喜んだものだった。「本当の本当にありがとう!!」という感覚であった。この無名ブログの執筆に当たり、どれ程読者の存在に救われているか分からない。アクセス数が少ないため尚更そう感じている。

そもそも、このブログのアクセス数が少ないことは必然なのである。本ブログはドメインパワーを全く持ち合わせていない上に記事数が少なく、おまけにSEO対策など全く施していない。「底から生まれるもの」なんてタイトルの記事、この広きインターネット世界で誰が検索エンジンから見に来るというのだろう。大勢の人に読んで貰いたいのなら、「底から生まれるもの」などという開けてみるまで中身の不明なタイトルにするのではなく、「学習障害からの理系大学卒業――動作性IQの低い私でも化学科を出られた三つの理由――」といったタイトルにでもすべきところであろう。これは殆どの記事について言えることであるが、こういったSEO対策を専ら行わないスタンスを崩すことなくアクセス数を増やしたいのであれば、TwitterFacebookといったSNSを有効に活用し、必死に自身のブログの営業活動をするべきなのである。何故、それをしないのか。面倒だから?営業活動に自信が無いから?

残念ながら、「面倒だから」→営業していない、や、「自信が無いから」→営業していない、という論理構成は一見筋が通っているが決して真実ではない。真実は、「営業をしたくない」→「営業を面倒だと感じる自分を創り出すことで営業活動から逃れようとしている」、または「営業をしたくない」→「営業に自信のない自分を創り出すことで営業活動から逃れようとしている」というのが、正しい論理構成なのである。営業活動をしない自分で居続けることは、とても楽で、居心地が良い。私は内向的な人間で、対人関係、取り分け大勢の人と広く浅いコミュニケーションを取りつつ良好な関係を維持していく行為というものは、苦手なのである。ところで、「私は生来の内向的な人間だから」などと言い訳していると、必ず「『自分は内向的だ』という認識を自分自身で固く持っているから君は変われない(外向的になれない)んだよ」という反論に出くわす。その反論曰く、「何事についても、“その人の認識”が“その人の世界”を創り出す」ということらしい。私は、私の認識次第で、外向的な人間にさえなれるらしいのである。本当かなあ?仮にこの言が真実だったとしても、私はまだまだそれを理解できる程には精神的に成熟できていないと感じるなあ。

ああ、それにしても社会生活を営む上で、この内向性は不利益に働くことの方が多い。外向的な人は得である。今の会社に入るようになって、特にそう感じるようになった。人とコミュニケーションを取ることやアクティブな活動に参加することが明日を生きるエネルギーのチャージになり得るなんて、何というチート。何というイカサマ。社会的存在たるもの、コミュニケーション能力はほぼ必須能力である。私もこの内向性のせいで、何度人間関係でしくじったか分からない。従って、外向的であることは、良いことだ。外向性は、内向性に勝る――果たして、そうだろうか?この社会で生きていく上で、本当に、内向性は外向性に劣るのだろうか。狭くとも深い人間関係の構築を好み、行動するときは勢いで突き進むよりも石橋を叩いて渡ることを好み、様々な事柄を浅く広く考えることよりも、一つの事柄について深く考察することを好むことが、果たして「劣っている」と言えるのだろうか。ああ、表面や第一印象“だけ”で人を判断しないでくれ、という嘆きは、内向型人間の単なる甘えなのであろうか。難しい注文なのであろうか。

 

 ここでホームセンターに到着した。パンクした自転車を自転車売り場まで持って行き、事の経緯を説明した。

 「すみません、前輪がパンクしてしまったのですが。」
「ちょっと見せてください……そうですね、30分ほどで修理できると思いますが、このままお待ちになりますか?」
30分なら、そうします。」


自転車を修理業者に預け両手の空いた私は、店内にあるペットショップへと直行した。30分の待ち時間を利用して、猫を見ようと思ったのである。


延べ5匹の猫が狭いペットケージ内でモゾモゾと動いていた。猫を収容したペットケージのすぐ横に、猫の年齢を人間のそれに換算させた表が貼ってあったので目を通してみた。生まれてから一年経過時に、猫は人間換算年齢で17才も年を取ったことになるらしい。本当かよ、ねずみじゃあるまいし。たった一年ごときで、あまりに年を取り過ぎていやしないか。その後、二年経過時で23才、三年経過時で28才、四年経過時で32才…以下一年毎に4才ずつ年を取ると表記されていた。なるほど一年経過毎に17才年を取るというわけではなく、経過年数に応じて対数関数的な増加率を示すわけか。だから“20才の猫”なんてものがこの世に存在するわけなんだな。よい勉強になった。

ところで、さっきからやたらと私を見つめてくる猫が一匹ある。アメリカンショートヘアの男の子。私はどうも、さっきからこの猫にばかり心を奪われてしまっている。もし私がこの中から猫を一匹飼うことを決めていたならば、きっとこのアメリカンショートヘアを選んでしまうのだろう。「やたらと見つめてくる」という一点を除けば、他の猫と比べ特別目立っている点はないのだけれど。これが外向性の威力ってやつなのだろうか。外向性、万歳。結局、可愛い奴が勝つのだ。先程まで、「表面や第一印象だけで人を判断しないでくれ」などと抜かしていた人間ですらこの有様なのだから、やはり社会的存在たるもの、外向的であることが好ましいのだ。この猫に限らず、人間だって同じことさ。外向的であることが、好ましいのだ。「みんなちがって、みんないい」なんて言葉は、実は嘘っぱちだったのだ――なんてね。本当は、知っているのである。この世界において、いや勿論、人間社会においても、“外向的であること”ばかりが必ずしも全てにおいて優れ、皆が外向性を有することが社会にとって必ずしも好ましいというわけでないことは、実は私も心の何処かで知っていて、自転車のパンクを知ってからペットケージ内の猫を見るまでに脳内で行ったあらゆる考察の意義とは、実は、その「心の何処か」にある答えを探し出し、きちんと文章化するために行う“思考の攪拌”だったのである。「思考の攪拌」とはすなわち、果実酒をかき混ぜ、グラスの底に沈む果肉を表層で捉えられるようにするのと同様、思考をかき混ぜることで心の奥底に眠っているはずの“ある命題への解”を表層へ浮かび上がらせるための行為なのであり、ケージ内の外向的な猫を見終わった今この瞬間、遂に私はその「解」を捉えたわけである。


さて以下に、思考の攪拌によって生まれた、文章による、心の奥底に眠りし“『外向的である事が全てにおいて正しい』とする命題への反証”を示そう。

 「社会的存在たるもの、外向性を有する方が良いというのは、本当だろうか?」
「勿論ですとも。」
「無条件にそうと言えるだろうか?」
「ええ。社会的存在たるもの、人は一人では生きていけないため、生きる上では必ず対人関係というものが発生します。この対人関係を良好に保つためには、会話等のコミュニケーションがその目的達成への重要なツールになります。他者とのコミュニケーションを苦とせず、それどころかそのコミュニケーションさえ明日を生きる原動力に変えることの出来る外向的性質を持つ人間は、相互扶助、営業活動、出世競争、共同体への帰属意識、更にそれらに基づき得ることとなる人生経験値の多さ等において、内向的な人よりも多大な“利”を手にすることが出来ます。」
「なるほど。それでは外向的な人間は、世俗的な利を始めとするあらゆる“利”を得られる可能性が高いため、内向的な人間よりも優れている、すなわち、外向性は“絶対善”であり、人は皆、己の性質を外向的なものに変えるよう努めることが大切だと言うのだね。」
「おっしゃる通りです。」
「よろしい。それでは、“頭の良し悪し”についてはどうだろうか。君の主張の通りだと、世俗的な利を得られる可能性のより高い、「頭の良い人」が“絶対善”ということになり、人は皆、頭を良くするよう努めることが大切だという結論に至るが、それに異論はないね?」
「はい。異論はありません。」
「同様に、容姿の良し悪しについても考えようか。容姿の良いのと悪いの、どちらが“絶対善”であろうか。先程からの君の主張を基に答えてくれ給え。」
「容姿の良い方です。」
「よろしい。この辺りで、君はそろそろ気が付かなければならない。このようにして次から次へと相反する二つの事柄に関し優劣を定め、人が皆、その中で“優”と判定される性質を身につけることが無条件に良いとされるならば、それら“優”の性質のみを全て満たす人間こそが“絶対善”ということになり、皆がその“絶対善”的性質を持つことが正しいのだとする主張になるが、仮に皆がその“正しき主張”の実現を忠実に実行し、社会全体がその“絶対善”全てを満たす人間で溢れかえったとしたら、一体世の中はどの様になるだろうか」
「一人ひとりが、全く同じ性質を有する人間で構成される社会が形成されます。」
「それでは、そのような“全ての人間が一様である”構成の社会において、果たして『外向性』を有し良好な対人関係を持てるような能力が備わっていることは、どれ程の価値があるだろうか。全ての人が一様であるならば、もはやコミュニケーションなど必要ないのではないか。隣の人間の考えていることは、すなわち自分の考えていることと全く同じなのだ。このような状況下で、果たして『外向的』であることは優れていると言えるのだろうか?全ての人間が『外向的』であることに、何か意味はあるのだろうか。『内向的』であっても何ら支障はないのではないかな。」
「その通りです。あらゆる物事に優劣を付けようとしていた私は、間違っていたのかも知れません。」


以上、あらゆる物事に優劣を付け、全ての人に“優”(それも、不完全な人間の定める相対的な優秀さ)の性質を持つことを強要する行為は上述の通り、皮肉にもゆくゆくは様々の物事に優劣を付けていた行為を全く否定した社会構造を生み出してしまうのである。而(しか)るに、何でもかんでも優劣判定を下し、何人(なんぴと)にも“劣”(と思われてしまう)の部分を“優”(と思われている)のものへと転換させようと試みる行為は、不毛そのものなのである。「みんなちがって、みんないい」は、決して嘘っぱちなどではない。寧ろ“真実”を端的に表現していると言って良い。


前輪の修理が終わった。カラオケには行けなかったものの、その代わりに猫を見られたし、自身の心底に眠る思想を捉えることも出来たから、まあよしとするか。

 

 自身の性質を無理に外向性へ持って行くのではなく、自分らしさをある程度保ちながらも社会で上手く立ち回れるような環境の探求に、今後も尽力していきたい。




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