Precious Days

2015/12/05
From:斎藤 慶一
Subject:恵まれた容姿がその持ち主に及ぼす影響について

急にこのようなメールを差し上げるのはいかがなものかと思い、下記の文章を作成してから、送信ボタンを押すまでには相当な時間の、逡巡、葛藤がありました。しかし、かねて伺っておりましたご高名の遠藤先生が、五年間に及ぶ山籠もり生活(と言っては語弊があるでしょうか)から、つい最近になってこの地方都市に戻られ、そのすぐ後に、その隠遁生活を通じて達するところとなった新境地の数々を惜しみなく人々に伝達し、以て彼ら彼女らの懊悩、憂苦を見事、立て続けに解決に導かれているという噂が日に日に大きくなっていくにつれ、いてもたっても居られず、思い切って、送信ボタンを押した次第であります。

これからお話することは、実に馬鹿げた、私の過剰の被害妄想と自意識と自惚れの混在した、謂わば「幻覚」、「幻聴」の類と殆ど変わらぬ妄言です。本当に、馬鹿馬鹿しいのです。しかし、この実に馬鹿げた、愚かな私の被害妄想が、自意識が、自惚れが、おおよそ40年という長い期間を経て、私の全身の細胞一つ一つに隈無く根を下ろし、その結びつきを確実に強固なものとし、ついには己が細胞の遺伝子情報を書き換えたのではないかと思われるほど、私の言動を全く操るようになっていきました。いつの間にか、これらの馬鹿げた妄想の群は、私の生来の遺伝子情報や、はたまた、自身の心の声、魂の叫びに優先して私を操縦し、以て私の人生をまるで駄目にしてしまいました。今、私は、自身の将来の期待を殆ど何も持っていません。希望が、ないのです。私の先の人生の絶望を語る上で、「一寸先は闇」などという比喩は、適切ではありません。その程度の比喩では遠く及ばぬ、闇よりも、もっと恐ろしい光景が目の前に広がっているのです。それはすなわち、一寸先も、またその先も、はたまたそのずっと先も、今私の立って居るこの場と全く同様の、ちっとも何の変化も見せぬ灰色の景色が広がっているという恐怖なのです。どこか、その中から少しでも異なっているところを見出そうと、右を見、左を見、一歩前進し、振り返り、その場で座り込み、中空を見上げ、たまらず思い切りジタバタしてみても、僅かに託した望みとは裏腹にシンとして何の変化も見せぬ景色の連続により、精神の、時間の経過と共にずんずん蝕まれていく未来が手に取るように分かるような、そんな冷酷までに、絶望的で、虚無的な光景が広がっているのです。私は既に、生ける屍です。「時間の経過」を「物事の変化すること」と定義するのであれば、私には未来というものが、ありません。40歳を手前にして、死んでいるも同然なのです。ただ寿命の尽きるまで、未だ自身の若かりし過去に経験した、僅かばかりの美しい思い出の養分をちびちびと大事にだいじに吸っていくことで、心貧しく日々を生き延びることだけが私に残された最後の使命とすら感じられるほど、私の人生は、腐り果ててしまいました。その顛末を、この場で申し上げることにいたします。

私は今からちょうど37年前のこの月に、某大手電機メーカーの関連会社で働く父と、元々は父と同じ会社で一般事務を担当していた母との間に長男として生まれました。父は対人スキルに非常に優れ、父と関係性の深い人物だけでなく、初対面の人相手でさえすぐに打ち解けられる程のコミュニケーション能力を持ち合わせており、また、会話の端々から覗かれるその理知的な話し方や、機知に富んだ快活なユーモアは周囲の人々を魅了し、取り分け女性からの人気は相当のものだったようです。一方で母は、父ほど対人関係を得意としなかったものの、父に負けず劣らずの聡明さを持ち合わせ、そして何より、社内でも噂の立つほどの美貌を兼ね備えており、母に言い寄っては散っていく社内の男性は少なくなかったようです。
さて、そんな優秀な二人の間に誕生した私でありますが、どういうわけか、両親とはどうにも似ても似つかぬ、非常に冴えない人間と相成りました。「鳶が鷹を生む」といった言葉は私とてあちらこちらで耳にしたことがありますが、「鷹が鳶を生む」などということが、実際の世の中にはあるものなのですね。兎に角私は、私の両親から生まれたとは思われぬほど、無粋で、不器用で、小心翼々とした人間としてこの世に生を享け、その性質に則り、父に似付かず口下手で、他者に対し気も利かず、母と異なり「聡明」などと言えるほど頭も良くなく、いつも他者と自分とを比較しては自身の劣等具合に落ち込み、常に自信がなく下ばかりを向いている卑屈な人間に成長いたしました。

このように、“天の悪戯”とさえ思えるほど、私は両親と相異なる性質を有することになったわけでありますが、唯一、相似点と呼べる箇所がありました。それは“容貌”であります。私の容貌は母に似たことが幸いし、自分で言うのも何ですが、決して悪くないものだったと思います。勿論、私にも容姿に関するコンプレックスはごまんとあり、とても自身の容姿を特別優れているものとは思っていませんが、それでも、他の平均的な容貌の方々と比較すると、私の容貌は、きちんと気を使いさえすれば、やはり悪くないものでした。

ただしこれまで私は、この悪くない容貌の扱いに非常に窮してきました。“容姿に比較的恵まれる”というのは、一見すると無条件に喜ばしく、好ましく、優れたものであるように感じられますが、実際のところ、それを活かせぬ不器用な性質を持ってしまった者にとっては、当人にしか解せぬ苦悩が連続しているものなのであります。私は、幼稚園児の頃に初めてラブレターというものを貰ったのを皮切りに、出し抜けに同級生の女子から頬にキスをされる、小学校に上がってからは毎年一、ないし二人からバレンタインチョコなるものを必ず受け取る、クラスの女の子二人が放課後、突然私の目の前に現れては、「あたしとこの子、どっちがいいの?」といった脅迫めいた質問をしてくるなど、母から遺伝したこの容貌のお蔭でありましょう、大多数の人間が恐らく通ることのない様々な経験をいたしました。しかし、そのような時期は決して長くは続かず、小学校高学年にもなれば、異性から人気の出る男の要素は容姿に限られず、いや寧ろ、運動神経や、他者から笑いを取れる能力や、クラスにおける地位(最近では「スクールカースト」と表現されるそうですね)の高さの方が容姿よりもずっと重要な要素となり、その結果、容姿以外にはテストの点数が少々良かったくらいで、他にはクラスに何を残すわけでもなく、変に真面目で面白味に欠け、取り分け目立つところなく陰でこそこそと学校生活を送っていた私には、次第にスポットライトが当たらなくなっていきました。中学生になると、その傾向はなお一層顕著になりました。女子から人気が出るのはスクールカーストの上位に位置する、対人スキルに優れ、明るく、アウトドアで積極性のある人物や、少々やんちゃな道を行く人物に有意に偏り、それとは対照的な、さほど対人スキルに優れず、クラスの盛り上げ役になり得ぬ地味な人物はあまり人気がなかったように記憶しています。きっとどこの学校も似たようなものなのでしょう。無論私もその例外ではありませんでしたが、ただ一点、関係性が浅い人物である場合に限り、私はそれら女子達から興味を持たれることが出来ました。これは裏を返せば、私のことを相手に知られれば知られるほど相手は私から離れていったことになりますが、それは実際にその通りでありまして、私が中学校に上がった折、クラスには小学生時代からの顔見知りの学生と、私とは別の小学校に通っていた顔と名前の全く一致せぬ学生とが混在しておりましたが、私と同じ小学校に通っていた女子はまるで私を見向きもしなかった一方で、別の小学校に通っていた女子の一部は私に期待の眼差しを向けていたようで、季節が春のうちは積極的に私のもとに来ては、たわいもない二言三言の会話をしていったものでした。しかし先述しましたように、私は父に似ず大変な口下手で不器用な人間でありましたから、そのありきたりな二言三言の会話もろくすっぽ出来ず、毎回、しどろもどろの、とんちんかんでまるで気の利かぬ受け答えばかりをどもりどもりするという有様でして、相手もそんな私を見るにつけて、期待に潤っていた瞳が次第に失望の乾きに変化していき、次から次へと話し掛けて来なくなったばかりか、私を軽蔑する者まで現れ、本人の前では決して口にすべきでない嘲りの言葉を陰でこそこそ並べる者さえ出てくる始末でした。その流れは学年が上がってからも引き継がれ、やはり、クラスが変わることで殆ど初対面となる学生が何人か同じクラスになるわけですが、その一部は私と何らかの関係を持とうとし、積極的に会話を試みるのみならず、中には意図的に私と委員会を同じにする者まで出てきましたが、そのいずれも、私のあまりの不甲斐なさに呆れ、遅くとも夏になる頃にはすっかり興味を失っているようでした。私は中学二年生から学習塾に入り、そこでも新たな出会いが誕生したわけですが、そこでも同様、初めの内はちやほやされていたものの、しばらく関わった後は相手の私に見せる表情、態度が期待から失望や軽蔑の色に変わっていき、ゆくゆくは事務的な会話以外しなくなりました。その中には私の好みの女性も含まれていたため、その人が次第に私から離れていく過程における苦しさは、身の引き裂かれるような思いでした。
このような一貫した宿命に対し強烈な苦痛を覚えた私は、その翌年、自身の宿命に対する抵抗の姿勢を示しました。クラスが変わり、顔ぶれが入れ替わり、例年通り私に声を掛ける者があったときは、何とかその場を盛り上げ、相手の期待に応えてみようと努めたのです。スクールカースト上位の人間の挙動を注意深く観察し、ミラーニューロンをフル活動させ、私は狂ったように彼らの真似をしました。話し掛けられた際には、なるべく笑みを浮かべ、声はできる限り明るく、聞き取りやすいトーンで対応し、会話の中でたまに笑いを誘う冗談を盛り込むよう試みました。もう、無我夢中でした。相手の期待を裏切り、失望させることのないよう、必死だったのです。けれどもその結果は、無残なものに終わりました。私の反応を見た人達は例外なく引き攣った困惑の表情を浮かべ、これまでよりもずっと早く、私に対する失望の色を覗かせるようになりました。その空気を敏感に察知し、「そうはさせじ」とこれまた必死に起死回生の一手を打とうとした私は、自身の頭には微塵もないような、相手に認められることだけを考えた言葉――それはテレビ番組の内容や周囲の人間の失態等といった何らかの事柄を面白おかしく貶めようとする言葉が主でしたが――を即席で並び立てては相手の期待に沿うよう努めたのですが、殆ど全てが空振りに終わり、いやそれどころか、うっかり失言に発展しては相手を怒らせることすらあったほどで、以て相手の私に向ける眼差しはいよいよ、これまでよりも急激な早さで冷え切ってしまうのでした。ただし、「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」とはよく言ったもので、ただの一度だけ、必死の私の試みが功を奏し相手の大笑いを誘い、その瞬間だけは見事失望されることを免れ、その人の私に対する評価を高めたことがありましたが、いかんせんこれは私本来の実力でない紛れ当たりでありますから、以降の試みでは下手な鉄砲はさっぱり当たらず、いいえ私もこの機会を逃すまいと無我夢中に大汗して精一杯頑張ったのでありますが、ご想像の通り、次第にはじめは高かった私の評価も下降の一途を辿り、遂に相手は私に対する興味を失ってしまいました。夏が本格的に始まろうとする6月のことでした。あの、相手が私を完全に見限った瞬間に醸し出す、さーっと冷めていく雰囲気を、私は、今となっても忘れられません。相手の、私とのファーストコンタクト時に見せる潤いある輝かしい表情と、そのしばらく後、私がつまらぬ人間と断定されたであろう瞬間より見られる冷淡な態度とのギャップが、私は堪らなく、とても苦しかったのです。私の容姿はどうも、異性から「この人はこうであって欲しい」という期待を抱かせる要素を数多く含んでいたようで、その期待とは恐らく、スクールカースト上位にいる人達の性質を私が有していることだったと思われるのですが、生憎私はそれとは逆の、不器用極まりない性質を有していたものですから、結局この三年間は人様から失望ばかりされ、期待通りに振る舞い続けることは適いませんでした。

中学生時代に経験したこの苦しい三年間は、私の心に大きな傷を与えたのみならず、以降の私の人格形成に多大なる影響を与えたように思います。その結果でしょうか、私は諦念によって、自己防衛を図ることを覚えました。あらかじめ、私は他者から期待外れに思われる存在、失望される存在であることを端から自認するようにしたのです。その時私は、どうせ相手から失望されることが決まっているのなら、そうなる前に、自ら意図的に失望させてしまえば良いとさえ考えるようになりました。受け身の姿勢から、攻めの姿勢に転じたのです。

さて、対人スキルはご覧の通り著しく低かったものの、私は学校の成績はそこまで悪くなかったため、高校も、決して一流とは口が裂けても言えませんが、それなりのところへ進学しました。高校生になり皆大人になったからでしょうか、それともこの高校の校風もあるのでしょうか、高校生になると、中学生の時分に見受けられた「異性から人気のある男」の要素はただ「クラスの中心人物である」ことや「対人スキルに優れている」ことばかりに依らず、非常にバラエティに富むようになっていました。勿論、個々の人気度合いに偏りは確かに存在していましたが、それでも中学生の時のような明らかな偏りは見られず、各々が、個々人の持つ特有の“個性”から自分の嗜好に似通った“個性”を有する男をボーイフレンドに選んでいるようでした。容姿の良し悪しは、この頃にはより一層重視されなくなっていました。それに従い、私と積極的にコンタクトを取ろうとする人は随分少なくなったのですが、私は、それはそれで寂しさを覚えたものです。ああ、こんな風に、私はどんどん周りの人にとって空気のような存在になっていくのだな、などと考えると、非常に侘しくなりました。けれども私は中学校で得た教訓を活かし、無気力症候群の実験用モルモットよろしく、その期待に応えることに無頓着の姿勢を貫きました。ありのままの口下手な私を無理に変化させることなく、相手の期待に無理に応えようとすることもなく、ただ、水の低きに就くが如く、少しの抵抗もせず、流されるままに身を任せました。加えて、自身の容貌の印象を大きく決定していた長い髪を思い切り、ばっさりとカットしました。私が自身の容貌に関し少なからずコンプレックスを持っていることは先述した通りですが、その一つに顔の輪郭があり、比較的長い髪は自身のその“weak point”を隠してくれていたわけですが、その髪を無計画にカットすれば私の容姿のコンプレックスがあからさまに際立ち、以て人々の私に対する実体の伴わぬ期待を根こそぎへし折れるだろうという魂胆から、私は髪を豪快に切り落としたのでした。さっさと、失望するがいい。いや本心では、出来ることならば、私に期待を抱き関わるようになってから失望していくまでの過程を、可能な限り短いスパンで済ませてほしい、ないし、あまり長期間に渡って、私を傷付けないで欲しいという自己防衛意識に従順に従った結果だったのでしょう。さて、その効果は絶大なるものでありまして、一瞬にして私とコンタクトを取ろうとしていた人達は方々へ散っていきました。作戦成功です。きっと彼女らは、私にあらぬ期待を持ってしまったおっちょこちょいさん達だったのでしょう。早い時期に私の正体が判明したことで、貴重な若い時間を無駄にすることがなかったのを感謝して欲しいと思ったほどです。

しかし――

予期せぬ事に、たった一人の例外がありました。こんな醜くなった私から何故か離れることなく、今まで通り、何事もなかったかのように接してくれた一人の例外が、あったのです。

その方は、徳山さんと言いました。徳山さんは真面目な性格をしており、時たま言動が人々に冷たい印象を与えるところがありましたが、決してきつい性格をしているわけではなく、心根は大変優しい方で、知性滲み出すその容貌がほころんだ際に見られる笑顔には、その優しさが表れていました。非常に教養があり、話し方には容貌から受ける印象以上の知性が感じられ、おまけに大変綺麗な印象をも与える方でした。私のような人間にとっては高嶺の花、とても手の届かぬ存在であるはずでした。しかし徳山さんは、どんなに私が口下手で、不器用で、面白味に欠け、容貌に取り分け優れているわけではないことを知っても、ファーストコンタクト時から全く変わらぬ瞳と、微笑みと、優しさのまま、私と接し続けてくれました。私はこの時初めて、私が人様から自我を有する一人の人間として認められたような感覚を覚え、自身の内から、これまで体験したことのないような幸福感が込み上げてくるのを感じました。この幸福感は、日々の起床の原動力となり、日中を生き生きと過ごすに充分な動機となり、一日の終わりに、明日の訪れるのを楽しみに待つ力強い源になりました。いいえそればかりでなく、自身の周囲に広がる全ての景色を温かく肯定し、その存在に感謝することさえできる透き通りし純粋綺麗な心を創り出し、その心はこれまでよりもずっと敏感に文学、音楽、その他芸術の魅力を捉え、ずっと繊細に木々、太陽、その他自然の美しさを感じ、ずっと清明に映像、音響、役者の演技、その他効果的な演出に影響され、共鳴するようになりました。五感で覚える情報の全てが、輝きを帯びるようになったのです。この時の私は確かに、幸せを感じていました。間違いなく私の人生において最上の、幸福な瞬間でした。

しかし当時の私は、その幸せを享受するにはあまりに幼過ぎました。この幸福感をどうしても一生手にしたままでいたいとする、どうしても譲れぬ願望と、けれどもそれが本当に叶ってくれるものなのかどうか、まるで自信の持てぬ不安とが、内面において常に混在していたのです。我が身に訪れた無上なる幸福を、愚かにも、なかなか信じることが出来なかったのです。中学生より蓄積された経験から生じる、「いずれ失うのではないか」という不安感から、私はこの幸福をこの先もずっと享受できるものかどうか、試してみずにはいられませんでした。果たしてその試みは、私の人生最大の失敗となりました。37歳となった今となっても、当時のこの愚かしい駆け引きを講じなかった場合の自身の人生を考えては、嘆息することがあるほどです。さて、私は敢えて、いつもより少しだけ徳山さんから距離を置いた言動を取りました。この一事を以て、彼女が私から離れないかどうか、確認したかったのです。私の眼前に展開されているこの幸福が、泡沫でないことを証明したかったのです。その結果、私の懸念は杞憂であることが分かりました。彼女は気付かなかったのか、それともそうでない振りをしていたのか分かりませんが、今までと何ら変わらず、私を期待に潤う眼差しで以て接してくれたのです。この時私は、非常なる安心感を得ました。眼前に広がる輝かしい世界は、本物だったのだという思いが、ますます私に幸福感を与えたのです。
しかしその安心感が長期間に渡り継続することはありませんでした。私は愚かにも、彼女の見せる一挙手一投足から実体の伴わぬ根拠に乏しい懸念材料をめざとく見出しては、私の幸福の恒久性への疑問、不安を覚え、私はその不安感を払拭するため、前回よりも少し大袈裟に、彼女を避ける言動を取りました。この時も同様に、彼女は私から離れる気配を見せず、私の懸念が杞憂であることを証明してくれました。私は前回の時と同様、この幸福が本物であることの安心感を得たのですが、程なくして、また以前経験した時のように、いずれ失望されるのではないかという不安がもくもくと自身の心に立ちこめ、私は更なる満足を得んがために、更にさらに一歩、彼女から後退りました。彼女は時たま当惑したような表情を浮かべるようになりましたが、それでもやはり、私に失望することはありませんでした。私はいつのまにか、その下らぬ駆け引きに、そのしょうもない幸福の確認行為とその結果に、一喜一憂するばかりになりました。どんなに確認行為を講じても、何をしても、この眼前の幸福に対する疑惑が、どうしても確信に変わらなかったのです。そして、そんな私が遂に愛想を尽かされる時が来ました。ただでさえ大きく魅力に欠けた私が、彼女の義侠心を頼りに更に彼女を遠ざけ、いよいよ彼女にとって私という存在が一層取るに足らぬつまらぬものとなった高校二年生の2月のことでした、彼女の中にあった私への期待が、私の存在価値が、全く消失しました。彼女の最後に見せたあの、怒りと失望に満ち満ちた表情を、私は今でも忘れません。私は死に物狂いに彼女の心を取り戻そうとしましたが、もはや取り返しが付きませんでした。まったく、馬鹿なことをしてしまった。人生において、この時以上の後悔はありません。唯一私に出来たことは、眼前に展開される現実をただ嘆き悲しむことだけでした。自分で書いていて、非常に馬鹿馬鹿しく、発狂しそうなほどです。しかし私は事実を事実として、唸りながらここに認(したた)めました。

その後徳山さんがどうなったかは、私は知りません。きっと良い大学へ進学し、夢を叶え、幸せな生活を送られていることを願っています。私に彼女を望む資格など、もうどこにもないのです。

高校を卒業後、私は、平凡な私立大学の法学部に進学しました。進学動機は「何となく、法律でも学んでおいた方が良いだろう」といった不明瞭極まりないものであったため、勉強にもあまり身が入っておらず、試験前にレジュメを必死こいて暗記しては試験当日、白紙の答案用紙に吐き出すばかりの、とても真面目とは言えないもので、成績も可も無く不可も無く、折角暗記した法律の知識も数日もすれば片端から抜けていきまるで身にならず、徳山さんの一件で完全に意気消沈していたこともあって、一年次よりサークルにも入らず、人との交流もなるたけ避け、ただ漫然と大学と自宅を往復するばかりの生活を送りました。そんな私に期待を寄せる人間などもはや殆どおらず、大学時代は、これまでの経歴と比較すれば取るに足らぬ、語るまでもない一つ二つの小話を除いては、何の浮ついた話もないまま時が過ぎるばかりでした。「徳山さん以上の人はもう二度と現れない」――そんな思いを胸に抱き続けることにより、私は自身の置かれる状況を肯定するだけの人間に成り下がっていました。
そのような四年間を通じ、私は法学部のくせして法律の知識をほぼ何も身につけず、おまけに卒業論文すら提出しない(そのようなゼミを履修したのです)まま、大変不真面目な実績を片手に大学を卒業しました。

大学を卒業した後の就職先は小さなイベント施工会社でありまして、私は一年目より、スポーツ大会の会場設営で自身の生計を立てていくことになりました。入社一年目の私を待ち受けていたのは容赦ない出張続き、残業続き、飲み会続きの日々でありまして、自由な時間など殆ど無い、味気ない生活でした。出社して、ろくな説明もなされないまま現場に放り出されては、私の無知を叱られ、そもそも私は人様に何らかの指示を与えるといった行為を大変苦手とする人間ですから、優柔不断な現場監督はますます人々を苛つかせては思い切り怒鳴られ、その上飲み会の席でも、生来の気の利かなさが災いし、マナーがなっていないとしこたま叱られるばかりで、毎日が憂鬱で仕方ありませんでした。いいえ、話の趣旨に逸れるこれ以上の愚痴は自重いたしましょう。兎に角20代半ばまでの私は、生きるために仕事をしているのだか、仕事をするために生きているのだか、分からないような生活を送りました。今振り返ると、少々精神を病んでいたのではないかと思われる程、参っていたように思います。そのため、高校時代のまま止まった幼き精神を成熟させるどころではありませんでした。

激務の会社に入社し丸二年が経過した頃から、私の容貌にも徐々に陰りが見え始めました。25歳になる年には、鏡に映る自分の姿に、若さを象徴する鋭さのようなものの見られる比率が、目に見えて少なくなっていき、28歳になる年の11月を最後に、遂に全く見られなくなってしまいました。取り分け、外出時の緊張状態から解き放たれ、一息ついた際に表れる間の抜けた容姿の劣化具合は深刻さを極めていました。これは、後に激務の施工会社を辞め、週二日休み、一日八時間労働の担保された会社に転職してからも変わりませんでした。以前は外を歩くと、人々の私の容貌に注がれる一瞬の視線を楽しむ機会が少なからず訪れたものですが、その機会もめっきり減っていき、寂しさばかりでなく危機感を覚えるようになりました。容貌が武器となり得る時間はそう長くないと踏んだ私は、29歳の時、ようやく内面の強化に努めようと思い立ちました。今思うと大変遅い出発でして、その証拠として当時の私の内面は高校生の時分のそれと大して変わっておらず、未だに徳山さんの夢を見、その幻影を忘れること能わぬような有様でした。しかし当時の私には、受け身の姿勢で徳山さんのような“無条件の愛”のくれる存在を求められるだけの実力も、資格も既になく、自ら積極性を発揮していかなくてはならぬ状況に立たされていました。けれども私には、まるでその積極性を発揮していく自信がありませんでした。自分自身を他者に売り込むなど、何という野蛮行為。何という狂気。よくも人はそのようなことが出来たものだと、私にはとてもその野蛮行為の敢行が無理難題のような気がしました。しかしながら、私には残された時間が少なかったのです。この時を逃せば、私はこの先ずっと愛を手にすることが出来ぬまま、孤独な人生を歩まねばならなくなると思いました。容姿の劣化に伴い、元々小さかった自信がますます小さくなり、それにつれて生じた危機感のためか、人恋しくなったのでしょうか、私はこれまで以上に、誰かから愛されてみたくなりました。私という存在を、誰かから認められたくなりました。徳山さんのくれたような“無条件の愛”を、何とかして得たいと思いました。私は異性に認められる男の要素というものを、徹底的に研究しました。その際にインターネットは、非常に役立ち、私は自宅に居ながら、私とは内容の真逆の人生を送る男達の対人コミュニケーション術を学ぶことが出来たのですが、そこで自身の願望成就のためには、自らの性質を根本から変える必要のあるという当たり前の真実を突きつけられ、愕然としました。今や口下手で不器用で取り分けこれといった特技を持たぬ、おまけに内面は未熟にてどこか自信がなさげ、常に他者から失望されやしないかとビクビクしている私は、もはや誰からも必要とされ得ぬ事が学問的な裏付けと共にきちんと明文化されており、いや私だって既にそれは知っていたことのはずだったのですが、こうも堂々と、ありのままの私が他者から認められ、その人の人生に何らかの形で貢献する可能性が塵ほどもないという非情な現実の書かれているのを発見してしまうと、頭をドカンと殴られたような、筆舌に尽くし難き混乱、心的ショックを覚えると共に、今、「斎藤慶一」という取るに足らぬ人間の、この場に存在しているという事実が、何だか酷くみっともなく、この世界から自分の存在を跡形もなく抹殺してしまいたくなる衝動に駆られ、いや、その衝動すらも取るに足らぬものとする虚無感に心が覆われるのを感じ、ただこれまでは見て見ぬ振りをしていた、絶望の灰にまみれた自身の未来を強制的に見せられたことが私の心に、ずんと重くのしかかりました。既に、取り返しの付かぬところまで来てしまっていたのだ。私は自暴自棄に似た感情に支配されるようになり、あれほど求めていた“無条件の愛”への追求をさっぱり諦め、壊れたように私は、陰気で自信なさげの私本来の人格に蓋をし、その蓋の上に、陽気で自信満々、冗談ばかりをかっ飛ばす明るいキャラクターを自身の人格として作り出し、その人格に他者と関わらせ、以て愛される「斎藤慶一」の創造を試みたのですが、皮肉なことにこれが意外な成功と相成りまして、私は社内の人間をはじめ、前職の同僚、月一で通う美容院の美容師、他者から提供される出会いの場で知り合うところとなった人達をして「斎藤さんって実は結構面白いんですね」という言葉を引き出さしめるようになったのです。それも、その言葉を掛けてきた人の比率は女性の方がよほど高く、私はこの時の経験から、冗談を交えた取り留めもない会話をするならば、一般的に男性よりも女性の方が話しやすいことを、実感を以て体験したのでした。私は内面では心を削りながら、しかし外面では平気な顔をして、まるで私が自分に対し揺るがぬ自信を持っているような、まるで自身が周囲の有象無象とは異なった貴重な人物であるかのような堂々とした佇まい、振る舞いをし、自らの既知の世界から離れぬ場を関わりの舞台にすることで相手へのスマートなエスコートを実現しつつ、道中は自らの失敗談を面白おかしく話し(どうやら私はこれが得意のようでした)、相手の投げた言葉のボールの返球にしょうもない冗談を交えることで笑いを積極的に提供し、会話の後半には少し自己開示を行って自身の弱さをチラと見せた後で巧みに相手の抱える悩みを聞き出し、その悩みの良い聞き役に徹することで、私は失望されるばかりの男であることから見事、免れる事が出来るのでした。果たして、骨身を削った我が体当たりの実践は実を結び、衰えたとは言え未だ武器となり得た容姿のお蔭もあったのでしょう、比較的短期間で私は、人気出る男たる振る舞いの妙法を体得することが出来たのです。けれども私は、その実態から瞬間的な高揚感を味わうことはあっても、継続的な幸福感を覚えることはなく、どこか陰鬱な気持ちを抱えたままでした。自身の存在を万人受けさせるため被った仮面を愛されて、嬉しいことがありましょうか。恋愛マニュアルに依れば、余裕ある佇まいと軽重織り交ぜた充足感ある会話によってある程度の信頼関係を相手との間に結んだ後は、こちら側の障子を破るほどの優しき一押しを以て相手とより深い関係にシフトすることが出来るとあり、私も実践の感覚からそれが概ね正しいだろうと感じていたにも関わらず、仮面への愛を自身に向けられし愛へとどうしても転化することが出来ず、また私には変に潔癖なところがあったため、私はその“障子を破るほどの一押し”を敢行する気には更々なれず、一般的に成功とされる直前の段階にて、意図的にマニュアルから大幅に逸脱した、タブー視さえされている“誠実さ”を前面に相手と対峙し、以て妖艶なる相手の期待に潤う瞳に乾きを与え、私は“表面上の愛”さえ手にすることを自ら放棄したわけでしたが、私はそのことを全く後悔しておりません。仮面に向けられた愛は、本能に囚われし恋は、真実の愛ではありません。偽物です。一時の気分の高揚に身を委ねた行いは、ゆくゆくは破綻を招き、心の傷を残すだけです。本物の自分を愛されないと、意味がありません。虚しいばかりなのです。いや、そもそも私は、私の仮面を愛するその誰をも愛していなかったのです。私はきっと理想主義者、いえ、単なる人様から嘲笑されし夢想家なのでしょう。私は自らを偽り他者から愛される行為の虚しさから、愛されていた仮面を打ち捨て、孤独の道を歩むことを決め、そしてその後は、覚悟の通りの人生となりました。

30代半ばを過ぎた今となっては、自身の容貌形成において長所となっていたはずの二重まぶたが、逆に眠たそうな中年男を彷彿とさせる短所に変わろうとしています。もう私は容姿を武器にすることは出来ません。しかも中身は高校時代のそれのまま成長しておらず、未だに“真実の愛”だの“本当の自分”だのと、書いている当人でもでも思わず笑いが出るような夢想を掲げ、その夢想の現実世界に存在しないのを嘆き悲しむばかりで、誰がこんな男を愛するでしょうか、私が相手の立場なら、決して愛しません。この歳になると、“真実の愛”などという概念を語ることさえ、一笑ものです。しかし私は、求めずにはいられないのです。仮面の愛される人生に、意味を見出せないのです。かといって、一度決めたこととはいえ、生涯孤独の人生を歩み、ただ金を稼いで食べるだけの人生にも、何の意義も見出せないのです。このアンビバレンスに、どのようにして折り合いをつければ良いのでしょうか。答えは決まっていると分かっています。まことに馬鹿馬鹿しい質問です。はじめは、恵まれた容姿が与えるその人の人格への影響についての考察をお伺いするつもりだったのですが、気が付けば、求めても絶対に得られぬこととなった“真実の愛”に関する問いかけに変化していたようでありますが、私の懊悩の根本は、実は、容姿云々よりもこちらの方にあったのかも知れません。そもそも、容姿に関連した上述の私の懊悩こそ、実体を伴わぬ単なる自意識過剰の妄想だったのではないかとさえ感じている次第です。もしかしたら、全ての苦悩の原因は私の勘違いだったのかも知れません。
恥を忍んで送信ボタンを押します。あまりの阿呆らしさに辟易されるようでしたら、読まなかったことにして廃棄してください。

 

2016/1/20
From:遠藤 仁示
Subject:Re: 恵まれた容姿がその持ち主に及ぼす影響について

斎藤 慶一さん

返信が遅くなりました。斎藤さんの求める“無条件の愛”や“真実の愛”について、興味深く読ませていただきました。ご自分でもお話しされていましたが、「容姿」が関係して伴うこととなった斎藤さんの幾らかの苦悩は、この問題の解決において、それほど重要なファクターでないであろうというのは、私も同感です。恐らく問題の根本には、幼少期より植え付けられることとなった、優秀なご両親に対し抱き続けた劣等感、自己無力感があったのではないかと予想しますが、心当たりはないでしょうか。もしあるようでしたら、その根本にアプローチすることで初めて、“無条件の愛”、“真実の愛”に辿り着く道が見えてくるはずです。

“真実の愛”を求めることは既に叶わないと文中でお話しされていましたが、それは何故でしょうか。大人になりし折より、利害関係を超越した真の愛なるものの存在は有り得ないと感じられるからでしょうか。もしそうであるならば、貴方の手で、利害関係に依らぬ“真実の愛”なるものをこの世の中に存在させてしまえば良いのです。親が見返りを求めず我が子に与えるそれのような、利害関係を遙かに超越する真の愛情が、親子の関係に限らずとも存在することを示すことで、貴方と同じ境遇の人に希望を与えるような、そんな人生を歩まれることを決意されてはいかがでしょうか。貴方はその先駆者です。険しい道のりですが、このことが貴方のこの先の人生の意義にはなり得ないでしょうか?灰色の未来に彩りを加えることにならないでしょうか?貴方の世に存在せしめた真実の愛は、ゆくゆくは貴方を救う希望にもなり得ます。“真実の愛”なるものの追求を、まだ諦めるときではないと私は考えます。

さて折角ですから、「山籠もり生活」を経験した人間らしい回答も同時にご用意しました。それはすなわち、“愛”に対する執着を捨て去ってしまうことであります。手に入ることのない愛を求めては嘆き苦しむことの無意味さを知り、その「知」が頭のみならず全身に隈無く行き渡り、最後に心までしっかり浸透したならば、貴方はもう、愛を求めて嘆くことはなくなります。己が心を、俗世の喧噪に預ける勿れ。この世には、もっと素晴らしいものが沢山あります。試しに私がそうしたように、一旦俗世の喧噪から離れた場所でゆったり時を過ごしてみてください。そこで自然の織りなす秩序の美しさを、全身で感じてみてください。きっとその本物の美しさを心底から感じ取り、欲張らず、自分の周囲の「当たり前」に感謝することの出来る純粋な心を得た後、俗世に転がる数多の誘惑物の下らなさに気が付くことが出来たならば、もう貴方の苦悩は消えているはずです。後は俗世の喧噪に惑わされず、その感覚を大事に生きていくだけです。いかがでしょうか。はじめに提示しました助言とは相反する角度からのアプローチではありますが、なかなか魅力的でしょう。

上のどちらの道を選択されるかは、斎藤さん次第です。私のこの返信が、斎藤さんの苦悩の解決の道しるべになることを願っています。(あとこれは余談ですが、文中に私を「ご高名」だの「彼ら彼女らの懊悩、憂苦を見事、立て続けに解決に導かれている」だのとありますが、とんでもない。どこにそのような噂があったのでしょうか。試しに私の名前をインターネットで調べてみてください。「役立たず」だの「ペテン師」だの「舌先三寸」だのと、散々な言われようです。どなたかと私を勘違いされてはいないでしょうか。そこだけが心配です。)人の人生には、必ず何らかの意味があると私は考えています。心の声に対し素直に生きていきたいものですね。草々。

 

 




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