パーソナリティ革命と承認欲求

「八方美人」とか、「自意識過剰」、「極端に偏った内向性」といった自身の性向には、長いこと悩まされてきました。他者から否定されることを過度に恐れるあまり、常に他者の顔色を窺い、自身の挙動にも全く自信が持てず、他者と同じ時間や空間を共有する際の疲弊が大きくなりすぎた結果、対人関係を持つことに消極的になって、それを「自分はどうも、生きづらさを抱えやすいパーソナリティを持って生まれてきてしまったらしい」という言葉で結論づけては、何となく釈然としない日々を送っていました。

2016年の夏頃だったと記憶していますが、苦難に塗れた大学生活の喧噪から一時的に逃れ、幾何か精神的余裕の生まれるようになっていた折、私は自身のパーソナリティの異常性に何かしらの対策を講じようと考えるようになりました。
そこで最初に救いを求めたのは、「アダルトチルドレン(AC)」という概念でした。
アダルトチルドレンとは、幼少期より、問題のある養育者(毒親、機能不全家族)の元で育ったが故に人として健全なパーソナリティが形成されず、それが原因となって、大人になってから私生活に様々の障害を来している人々の総称のことです。ACのパーソナリティの例として、
・幼少期より、養育者から過度の期待をかけられ、それに応え続けることで家庭での自身の居場所を確保してきた
結果→周囲の人の期待に応えようとがむしゃらに頑張ることで自己満足感を得ようとする大人になった(ヒーロー)
・幼少期より、養育者から虐待を受ける中で、自己主張をしないこと、自身の存在を消すことで家庭での居場所を確保してきた
結果→自分を押し殺し、自己主張を全くしないことで諸問題に巻き込まれないようにしようとする大人になった(ロストワン)
・幼少期より、家庭内の理不尽な扱いに耐え続けることで、機能不全家庭をどうにか機能させようと頑張ってきた
結果→人や世の中への不信感から、反社会的行動に走るようになった(スケープゴート)
・幼少期より、精神的に不安定な養育者の“親役”として子供ながら懸命に支え、家庭をどうにか機能させてきた
結果→他人に尽くすことが自身の存在意義になり、それにより多くの不利益を被るようになっている(リトルナース)
・幼少期より養育者の価値観で生きることを押しつけられ、自己主張が許されない家庭で育った
結果→大人になっても自分の意志がなく、他者の言いなりになって生き続けている(プリンス)
等が挙げられ、私自身もACのいずれかに該当しているのではないか、という観点から自己分析を進めていました。ですが当時の私は、確かに自身のパーソナリティにAC的な特徴は認められるものの、どうにも自身の養育者に私をACにするだけの養育上の問題があったとは考えられず、一旦、この概念から自身のパーソナリティの改善を期待することをやめてしまうのでした。

時期を同じくして自身のパーソナリティ矯正のため手を出したのが、認知行動療法でした。私は当時から、外界から受ける物事をあまりに悲観的に受け止めすぎている自身の内面の存在に自分で気が付いていたので、その悲観的な内面(認知の歪み)を矯正するため、我流で認知行動療法に手を出すことにしたのでした。一日に数回、ノートに向き合い、
その日どういう出来事があったのか
その出来事から自分は何を感じ何に苦しんだのか
その感じ方、苦しみは妥当なものだったのか
妥当でないならその感じ方、苦しみはどういった認知の歪みから生じたものなのか
その認知の歪みには自分なりのどのような傾向、癖が認められるか
といったことを書き留め、自身の歪んだ認知(過度なネガティブ思考)を矯正しようとしたのでした。例えば、
9/25朝、私がAさんに「○○」と発言したらAさんは呆れたような表情をした。
その表情から、「私のこの発言に失望したに違いないと」感じ、苦しくなった。
それは本当に呆れていたから出た表情だったのか?たまたまそう見えただけかもしれない。そもそも人様の内心は分からないから、予想したって無駄だろう。しかもその後のAさんの私への対応はいつもと変わらなかったではないか。仮に呆れていたとしても、それを引きずっているようには見受けられない。そこまで気にするようなことではないだろう。
認知の歪みの種類→「邪推」。これまでの傾向から、私はどうも、邪推ばかりしている。
といった風に(実際は自身をもっと叱りつけるような口調でやっていましたが)、自身の認知を正していこうと試みたのでした。
しかしこの手法では、頭では認知の歪みを矯正することが出来ていても、心そのものはそれを受け入れられておらず、認知の歪みの矯正は実際のところ出来ておらず、結局同じことで傷付き、同じことを毎度毎度自分に指摘されることを繰り返すばかりでした。

続いて私が救いを求めたのがマインドフルネス(瞑想)でした。自身の身に起こったことをありのまま知覚し、ありのままに感じ、肯定も否定もせずに捉えるというマインドフルネスの考え方を取り入れることによって精神の安定を図ろうとしたわけですが、これに関しては一定の効果を得られました。例えば、
私がAさんに「○○」と発言したらAさんは呆れたような表情をし、それを受け私は悲しい気持ちになった
→その悲しい気持ちが生じたことを否定せずにきちんと認識し、けれどもその感情には飲み込まれることなく、客観的に、「今自分は悲しい気持ちになっている」と、ありのままに受け止める
→受け止めた上で、「でもこの気持ちって合理的でないかも知れないな」という気付きも同時に得る
といった具合に。或いは、
化学実験中にしょうもない失敗をする
→下らない失敗をする自分に腹が立って悲しくなる
→その感情の表出を否定せず、けれども飲み込まれもせず、ただありのままに「今自分は腹が立っている、そして自分の不甲斐なさに悲しくなっている」と受け止める
→その過程で、「まぁ、怒っていても、嘆いていても仕方がないから、冷静に眼前の問題の対処に尽力しよう」と、自身の認知、行動がコントロールされる
といった具合に、あらゆる事柄に客観性を持たせることで、相当私は自身の認知の歪みに起因する心的ダメージを減らすことが出来るようになりました。
マインドフルネスはとても有効な考え方で、私自身、現在も取り入れています。ただ、マインドフルネスで認知の歪みに起因する心的ダメージや、感情的になって不合理的な行動を取ってしまう頻度を減らすことが出来ても、その根底にある自身の認知の歪みを矯正することは出来ませんでした。

私はマインドフルネスを以てしても変えられない自身の歪んだ認知(ないし、それを引き起こしてしまうパーソナリティ)の原因を、「自分に対する自信の不足」に帰着させました。当時大学生だった私の置かれていた環境は明らかに私に自分に対する自信を無くさせるものばかりで、到底、自分に自信を持つことなど出来ていませんでした。人間、自分に対する自信が不足すると、健全な人でも認知に歪みを起こし得ます。私は自身が社会的に適応出来るような環境に身を置くことによって、自身の歪んだ認知、パーソナリティは徐々に良い方向に矯正されていくだろうと、この時は考えていました。2018年初めのことです。

しかし、私の歪んだパーソナリティは、自身が不適応を起こしていた環境が変わっても大きく変わることはありませんでした。私は大学時代では考えられなかったほど、今の環境には社会的に良い意味で適応出来ており、自信を失うような出来事も殆ど起こっていません。にも関わらず、私は「八方美人」により己を他者の攻撃から防衛し続け、「自意識過剰」なほど他者からの評価を気にし、その一挙手一投足がぎこちないままで、極度の内向性は一向に治らず、色々な場面で不適応を起こしていたのでした。おまけに私は、自分はそれなりに優しく思い遣りのある人間であると自分自身で思っていたのですが、仕事柄、これまで関わってくることのなかった特有の思考回路を持つ人々と対峙し続けるに当たり、実はどうも自分は優しくなく、思い遣りにも乏しい人間であることが分かってくるどころか、寧ろ自身はとても嫌な面(例えるなら、親切の仮面を被った悪魔の部分)を持ち合わせていることに気が付き、頻繁に自己嫌悪に苛まれる日々を送っていました。私は嫌な面を持ち合わせている自分の存在を認めたくなくて、様々な哲学を自分なりに考えては本ブログに投稿して、自身の人間性の脆弱な部分を打ち消そうとしていました。

環境が変化しても自身のパーソナリティが矯正出来ず苦悩していた2019年の春、私は愛着障害(アタッチメント障害)という概念に行き着きました。愛着障害とは、(ACと似ていますが)幼少期に養育者と健全な信頼関係を結べなかったことが原因となり、子供に歪んだパーソナリティが形成されることで、社会生活に不適応を起こす障害のことです。赤ん坊は、「自分の身に問題が発生する→泣く→養育者が『どうしたの?』と言って問題を解決してくれる」といった、養育者との様々なやり取りから、養育者との間に信頼関係を構築し、「自分の存在(命)は養育者により守られている」という安心感を得ていきます。愛着障害は、この「養育者との信頼関係」や「自分は養育者により守られている」という感覚が健全に養われず、根底に「他者不信」、「自己不信」、「自分の存在に確証が持てない」、「生きることに安心感を持てない」といった感覚を抱え続けたまま大人になることで、社会的に不適応なパーソナリティを持つことになります。具体的には、
不安定型
→幼少期、自分の身に起こった諸問題(空腹、衣類の交換、傍にいて欲しいetc.)を養育者に訴えても、養育者の気分次第で構って貰えたり、貰えなかったり、或いはその構い方がかなりの頻度でまるで見当違いのものであった経験や、良い子にしているときは愛されるが、良い子にしていないときは愛されず攻撃を受けた等といった経験によって、他者信頼や自身の存在に対する安心感が育たず、その結果、「自分が嫌われないかいつも心配で、人々の顔色を過度に窺い、皆から好かれ、皆にとって『よい子』であろうとして過度に頑張り続けてしまう」、「自他の言動を『良い』か『悪いか』という両極端の物差しでしか評価できず、ジェットコースターのように自分の気分や他者への評価が変動する」といったパーソナリティを身につけてしまう。(関連:境界性パーソナリティ障害)
回避型
→幼少期、自分の身に起こった諸問題を養育者に訴えても、養育者にまるで構って貰えず、「どうせ主張しても無駄」、「他人は信用できない」という信念が身につき、「徹底して対人関係に興味を示さず、人との関係が相当希薄になる」、「“思い遣り”等といった人情的な概念を理解出来ない」、「お金や権力といった客観的尺度以外信用出来ない」といったパーソナリティを身につけてしまう。(関連:回避性パーソナリティ障害)
恐れ・回避型
→幼少期、過保護の養育者に育てられ主体性が育たなかった上、養育者の思い通りにしているときだけ愛されていたような場合、不安定型愛着障害と回避型愛着障害を併せ持ったようなパーソナリティを獲得するようになる。すなわち、「他人は自分の人生を縛り付ける存在であるという信念のもと対人関係を極力避ける傍ら、他者に対して『良い顔』をし続けるパーソナリティ」を身につけてしまう。
統制型
→幼少期、親をコントロールすることで諸問題に対応してきた経験から、「周囲を自分の思うまま支配し、コントロールしないと気が済まない」、「自分の思い通りにならないと周囲に激しい攻撃を加えようとする」というパーソナリティを身につけてしまう。(関連:自己愛性パーソナリティ障害)
等といったものがあります。
私は、自身の歪んだパーソナリティの矯正には愛着障害の克服こそ必要だと考えるに至り、この概念に関する書籍を読み漁りました。愛着障害の克服には、(愛着障害の型に依る)信頼出来る他者の存在や、養育者との信頼関係の再構築、社会適応による他者信頼、自己肯定感の回復等の様々の対応があるようですけれども、この期に及んでも、どうにもこれらの対策に対して、判然としないものが自分の心に残るのでした。自分がそれらの対策によって自身の歪んだパーソナリティを克服出来る未来がまるで思い浮かばなかったのです。

そしてこの夏、最後に辿り着いたのが精神分析学でした。精神分析学は、自身の無意識の領域に抑圧された欲求を自覚することで、心理的諸問題の回復が促進されるとする考え方です。人間は、実現困難な欲求や、自分自身で認めたくない欲求を(自我の働きによって)無意識の領域に押さえ込む(抑圧する)ことで健全な社会生活を送り続けようと試みることがありますが、実はその無意識領域への抑圧が、様々な心理的諸問題を誘発し得るのです。例えば、「義兄と結婚したい」という非道徳的な願望を無意識の領域に抑圧した(意識に上らないようにした)結果、下肢に原因不明の痺れが生じるようになり、どのような治療によっても治らなかった。けれどもカウンセリングによって、その非道徳的な願望を意識に上らせるようになったところ、下肢の痺れは消失した、というものがそれに当たります。私の場合は、幼少期より満たされなかった「愛情欲求」の無意識領域への抑圧が、「八方美人」、「自意識過剰」といった心理的諸問題を誘発している、ということになるのですけれども、その事実を知ったとき、この考え方が自分の中で、物凄く腑に落ちたのでした。「ああ、自分は愛情が欲しかったんだな」、もっと分かり易く言えば、「自分は自分の存在というものに自信を持てていないから、それを他者の評価によって補おうとしていた。だから過度な承認欲求をいつまで経っても消すことが出来なかったのか」ということに気が付いたのです。私は自分自身で、自らの存在を肯定出来ていなかったのです。自分だけでは、自分がここに存在していて良いか判断が出来ない。だからその是非を他者からの評価によって判定しようとしていた。他者の評価を良いものにしなければ自分の存在価値がなくなってしまうから、必死に人様に良い顔して、ご機嫌取って、自分の存在を認めてもらおうとしていた。私がやめたくてもやめられなかった「八方美人」の元凶は、この抑圧された「承認欲求(愛情欲求)」だった――この事実に気が付いたわけですね。
更に、私が過度に自意識過剰になって、自分自身の他者への「見られ方」を気にして窮屈な思いをしているのも、「私の一挙手一投足が他者から失望されることとなったら、自分が存在している価値がなくなってしまう」という強迫観念から創り出された歪みであることが分かりました。
また私が、他者を気遣って優しくしているようで、その実は自分を他者から守るための防衛術を取っているだけという自身の「偽善」の正体も、「他者から否定されては自身の存在が危ぶまれるからそのような行動を取っているのだ」という理屈に適っており、とても納得の出来るものでした。
このようにして、私の歪んだパーソナリティを支配していたのは、「自分の存在に対する自信の無さ」、「承認欲求」であることが判明したのでした。これまで、「自分に対する自信は社会的適応(自分が社会から必要とされる感覚を得ること)により獲得しよう」とか、「信頼出来る他者との交流によってパーソナリティを矯正出来る」といった言葉が心に浸透していかなかったのは、これらのアプローチは、他者に自分を評価してもらう仕組みと変わらないものだったからです。他者からの承認への欲求に雁字搦めになっている人にとっては、その克服は他者への承認を得ようとするのではなく、自分自身で自分を承認して、「自分はここに存在していて良い!その理由など全く無い!」と言い切れるように訓練することでしか対応できないという主張を目にしたとき、「これだ!」と思ったわけです。
これらが一本の線で繋がったときの自身の内面で起こった革命は凄まじくて、「ついに答えを見つけたぞ!」と大騒ぎしたくなる程のものでした。で、その大騒ぎを幾分冷却して記事に綴ったのが前回の記事というわけであります(実はその「大騒ぎ」を「冷却」する前、興奮そのままに同様の内容の記事を1万5千字くらいにして書きしたためていたのですが、あまりに読みづらかったため泣く泣く破棄した、という裏話があります)。これでもう、「生きる意味」など求めて思い悩む日々を送らなくてもいい――この爽快感と、自分を覆っていた重しや虚無感がフッと軽くなる感動は、筆舌に尽くし難いものでした。
従って、承認欲求に飢えるあまり健全なパーソナリティの形成が阻害されている方は、以下の事実を徹底して自身に叩き込むことがパーソナリティの矯正に役立つかもしれません。
・自分が心の奥底の無意識の領域に抑圧した「愛情欲求(承認欲求)」、「自己否定感」を意識上に上らせ、その存在を自覚する。
・「自分はここに存在していても良い」、「自分は生きていても良い」、「そしてそれは他人からの評価に依るものではなく、自分の評価に依るものだ」、「おまけにその根拠となるものは全く無くて良い」という事実を何度も頭と心に叩き込む。
・他者の多くは私自身の批判家ではないことを認識する。彼らは単なる「縁」によって、私に好意を抱き、関わってくれていることを認識する。たとえその他者にとって多少好ましくない挙動をこちらが示したとしても、それだけを理由に自身への評価が180°変わったり、失望され関係を絶たれたりすることはないことを知ること。
・自分の他者に対し見せてしまう嫌な面は、自分が幼少期より獲得した生存戦略や、他者からの攻撃から身を守る自己防衛術の結果であるということを自覚し、幼少期から繰り返してきたこれらの行動様式に支配されず、一旦冷静になって、自分自身に帰ってくること、自分自身を取り戻すことを意識し、その行動をやめるよう努力する。

これらの対策を講じ続けているうちに、自身の歪んだパーソナリティは矯正され、社会により適したパーソナリティを獲得出来ると私は信じています。

さて、ここから話頭を転じます。これまで上に挙げた「承認欲求」(それも、ちょっと行き過ぎた承認欲求のこと)についてですが、私は、これは一部の限られた人だけに起こっている話ではなく、大なり小なり、多くの人が囚われている欲求なんじゃないかな、と思っています。他者からの承認欲求は、自身を不幸にすると思うんですよ。他者からの承認が人生の基礎になるということは、自分の人生を歩めないということと同義ですからね。
世の中、幸せになるための要素、みたいなものがあるじゃないですか。王道のやつだと「たくさん勉強して良い大学入って良い会社入って…」みたいなやつ。「お金持ちになる」とか「スペックの高い恋人を持つ」とかもそう。これら一般的な「幸せの要素」とされる価値観の共通点って、「他者に羨ましがられるか、どうか」が基準になっていると思うのですが、人生を、これらの要素を獲得するためのゲームのようなものとして捉えている人の多くは、過度の「承認欲求」がその人の心の根底にあるんじゃないかなぁ、と私は予想しています。「他者から、『凄い!』って言ってもらえるかどうかが幸せの基準」という価値観を持っている人は、心の何処かに虚しさを抱えている。その理由は、自分の好きなことや大切にしていることを基準にせず、その思いに蓋をして、他者に承認されるかどうかを基準にした選択を毎回しているから。あらゆる物事の善し悪しを、自身の美的感覚ではなく、客観的な価値によって判断し続けているから。
私は、「他者に承認されるために自分を殺す」人々がこの世には実は沢山いるのではないか、そしてこういった意識こそ、人々の幸福感を下げている大きな要因の一つなのではないか、という仮説を今では持っています。自身の行動動機が、逐一「他者から承認されるか、否か」というものに依存している場合は、多分その人は幾らお金を持っていようと、社会的地位を手にしていたとしても、幸せではないのかな、と思います。で、その空虚感を埋めるために益々承認を求めて、更に空虚感を覚えるようになっている。反対に、本当に幸せな人っていうのは、自分の存在に確固たる自信を持ち、過度に他者への承認欲求にも流されることなく、堂々と自分の人生を自分らしく生きられている人なのだろう、そんなことを考えています。

 

で、ここでは承認欲求に関する考察を色々と、まるで大発見でもしたみたいに書いていますが、結局のところ、私個人があれこれ苦心して発見した事実って、大体、とっくに他の人が先に気が付いていて、既にネットに関連情報が沢山上がっちゃっているんですよねぇ。調べてみると、『悟りの窓』というブログにて、「承認欲求は人を不幸にする」的なことが既に書かれているんですよねぇ。しかもなかなか完成度が高い。謙遜抜きに、私のブログよりもこっちの記事読んだ方が5倍は為になるでしょう。これ以前の記事でもそうですが、私の様々の苦心によって完成させた自身の哲学は、調べてみると同じような内容が他のブログで既に言及されていたり、または外部研修の場なんかで講師の方の口から「知っておいた方がいい知識、考え方」として発せられたりしていて、全然新しくなかったりするんですよね(まぁ、それはそれで“講師が聴衆の前で口にするような哲学さえ自分で作り上げられた私ってスゲー!”って考え方もあるにはあるんですが)。自分なりに「新しい」と思って書いて投稿している哲学達ですが、どれもこれも、とっくに先人達が気付いていて、そのノウハウを世に公開しているわけです。しかもかなりの質を備えて。ですから私も、それら良質なノウハウの転がっているレッドオーシャンにわざわざ同様の内容をしたためて投稿する気力が湧かなくなっているんですよねー。「ここにあるんだから、わざわざ書く意味なくね?」って感じで。前回の記事では精神分析学の考え方を『嫌われる勇気を読んでも変われない人へ新たな考え方を提供』という視点から記述することで他のサイトやその他書籍との差別化を図りましたが(多分この角度から精神分析学を紹介しているサイトや本は無い。あったら教えてください)、こういうやり方も結構、引き出しの狭い人間にとっては限界があるアプローチで辛いものがあります。
これとは別に、他サイトとの差別化を図る上で用いられるのが、「何か別の話題とドッキングさせる」という手法ですね。例えば「承認欲求」に「福祉業務」という話題をドッキングさせて、「福祉現場で働く職員の承認欲求の高さと、それに伴い生じている諸問題」みたいな記事をしたためて、他との差別化を図る、とか。後は、「承認欲求」に「小説」をドッキングさせて「過度の承認欲求に飲み込まれ苦悩の人生を歩む主人公が、自由気ままに生きる芸術家との出会いによって自身の人生を見直す物語」を作るとか。または「承認欲求」に「感性」をドッキングさせて、例えば詩を作ってみるとか。こんな風に。
この両足で 地上に立つ違和感を拭い去れずに
意味もなく足踏みなんかして その場をやり過ごしている
五里霧中の焦燥から逃れたくて
影に咲く一輪ばかりに恋をしていたら
陽光を弾く爛漫の煌めきを
今はもう 思い出せなくなった
「何かに触れたい」一心で 虚空に手を伸ばすけれど
中空から全身を伝い流れる焦燥は 執着となってこの手に収まった
手中の劇薬を 虚しくなることはわかっているけれど
生きる意味求め 縋る思いで大事に抱えて
私は今日も 暗がりに居場所を求める

これならまず被ることはないですからね。
他サイトとの差別化を図るもう一つの別の手段に、何かのテーマにおける、自分の経験を赤裸々に語る、という手法がありますが、私のブログは大抵これですね。私も色々と人生に迷ってきた人間ですから、あるテーマにおいて自身の経験談を語ることによって、これまで他サイトとの差別化を図ってこられたわけですが、さすがにこれ程の量を書いてくるとネタが無くなってくるわけです。今持っている経験談のストックは『知覚統合60台の頭の中大解剖(※仮タイトル)』一つのみですから、本ブログは殆どの記事を自身の経験談によって賄っていただけあって、なかなか苦しい台所事情なのです。

話を元に戻しますと、自身のパーソナリティについての言及がひと段落ついた今、どのようにして、他サイトにないコンテンツを作るか、という課題に立たされることとなりました。「自身の独自に編み出した(つもりになっていた)哲学は既に世の中に沢山出回っている」という事実をしっかりと認識して、いかにしてそれらとは違った着眼点から言及できるか、ということに的を絞って、これからは頑張っていきたいものです。

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