他人の目が怖い/過度に気になってしまうときに考えたいこと

1
他人の目が「必要以上に怖く感じられる」ないし「過度に気になってしまう」

――そんな“警戒心MAX”の人の人生は、言語に絶する苦労と苦痛に満ち満ちている。
何せ「そこに人がいる」というだけで、身体は緊張により硬直し、心は意図せずとも不安定になってしまうわけだから。

そうして今の世の中に生きている限り、

“人との関わり”というものは、切っても切り離すことがそうそう、出来るものではない。
 

2
一度ひとたび街を出歩けば、そこには沢山の人で溢れている。

大勢の人の「目」がある環境で、「人の目が過度に気になってしまう」人達の警戒センサーは、限界値へ振り切れんばかりに作動する。他人の目が気になるあまり、

自分は人様に迷惑を掛けていないか
自分の姿や挙動は滑稽でないか
次の瞬間、自分が人前で失態を犯しやしないか

といった不安に襲われ、ただ外へ出ているだけなのに、息苦しさをも感じてしまう。

友人と一緒にいるようなシチュエーションでも、

この友人から嫌われやしないか

といった心配から、おちおち交友も楽しんでいられない。

また職場においても、

上司や同僚、得意先から嫌われやしないか
仕事が出来ず無能だと思われていないか
評価を下げられやしないか

といった恐怖から、「対人関係」で(しかも問題が全く起こっていないにも関わらず)必要以上のストレスを抱え込んでしまう。

――こうした
他人の目を極度に恐怖し、
他人に対し過剰な警戒心を抱き、
他人に全く心を開けない
という人達の内面には、恐らく「他者不信」がある。

他者不信。すなわち、

・他人は信用ならない存在だ
・他人はいつ自分を攻撃してくるか分からない

といった認識が、その人の内面の奥底に隠れている。

・過去に人との関わりにおいて大きな傷付き体験をした
とか、
・そもそも幼少期から“他人は信じてはならないものだ”と学習してしまうような不運な環境に置かれていた

等の理由によって、その人の内面に「他者不信」が根付いてしまっている。そのため、よほど心を許していない相手でもない限り、他人というものは、

自らを傷付け、
自らの存在を脅かすような、

――そんな“危険な存在である”という認識が生まれてしまっている。

従って他者を目の前にすると、自らが傷付けられないよう存在を脅かされないようにと、極度に緊張していなければならなくなる。

一時でも油断や隙を見せようものなら、いつ他人から批判されたり、嘲笑されたり、呆れられたり、失望されたりすることによって、自らが傷付けられてしまうか分からない
といった錯覚に陥ってしまう。このような偏った対人認知を抱えていては、対人関係で過度の疲弊をし、人生が苦痛に感じられてしまうのも無理はない。
 

3
他者不信」を抱える人は、同時に「自己不信」を抱えていることも多い。というのも、先に「他者不信」が生まれる要因は、

・過去の傷付き体験

・幼少期に“信頼関係”を結べるような大人がいなかった

こと等が挙げられると書いたが、これらは同時に、

「傷付き体験」→その人の自己像に多大なダメージを負わせる
「信頼関係を結べる大人の不在」→その人は「自分の存在には価値があるのだ」という感覚を学べないまま大人になる(≒肯定的な自己像が確立されない)

といった“副作用“がついてくるためだ。

「自分に自信を持つ方法」について考える(対象関係論の観点から)


「他者不信」とセットで「自己不信」がついて回れば、尚のこと「他人の目が怖く・過度に気になって」しまうのも当然のことなのだ。
 

4
自分に自信がなく、
「自分」という存在に価値を感じられない人は、

他人からの評価

によって、自身の存在価値を見出そうとしてしまうことがある。

こうした人は、

「他人から評価されている自分」は生きている価値があり、
「他人から評価されていない自分」は生きている価値がない

というように、「他人から評価されているか・否か」という基準で、自分の存在価値を決定させてしまう。勿論、生きている限り「自分は生きている価値がある」ことを証明したいと思うため、兎に角そうした人達は、

他人からの評価を得よう

と必死で――それこそ命懸けで――頑張ることになる。

他人から好かれ、
他人から賞賛され、
他人から必要とされ、
他人から全幅の信頼を寄せられる
――そんな人間になろうと、努力に努力を重ねる。それは“自らの存在価値”を懸けた戦いのようなものだ。

けれども、その人は同時に「他者不信」も有している。そのため、

他人はいつ自分を攻撃してくるか分からない存在だ

という認識も持っている。

だから、どんなにその瞬間、相手から好かれ・賞賛されていても、
相手から必要とされ・全幅の信頼を寄せられていたとしても、

「いつ、その“好意”が失われてしまうか分からない」

といった不安に襲われている。

そうした人達にとって、他人からの好意が失われることは、すなわち「自分の存在価値が失われること」を意味している。

「自分の存在価値」が、「信用できぬ他者」からの評価次第で、いかようにもひっくり返されてしまう恐怖。

「自分の存在価値」が、自力では制御できない不確定要素により決まってしまう現実に、その人は自己を見失ってしまう。またこうした自己喪失により、ますます自分に対する自信を失ってしまう。

 
5
ここで私は、上に挙げたような思考を有している人達に向け、

他人=ただの“人”である

という事実(考え方の一つ)を提示したい。

これまで、
他人からの評価によって自らの存在価値を測ってきた
という人は、もしかすると、長期間における偏った考え方の癖によって、

他人=自分の存在価値の決定者
他人=自分の存在価値の評価者
他人=自分の存在価値を測る採点官
他人=自分の人生の合否を決める面接官

といった窮屈なイメージを、他人という存在に対して、無意識のうちに抱いてしまっているかも知れない。

このようなイメージを持ってしまっている場合、
「他人の目が怖い」とか
「他人の目が気になって仕方がない」
といった感覚を抱いてしまうのは当然のことだ。なにせ、「他人と関わること」はすなわち、「自分の存在価値を測ってくる採点官と関わること」とほぼ同義になるわけだから。これでは他人が怖くならないわけがない。

だから私は、改めて
他人=ただの“人”である
という、考えてみれば「当たり前」の事実を、敢えて提示したいのだ。

他人というものは、あなたの価値を決める評価者でもなければ、人生の採点官でも、面接官でもない。私達と同じ、ただの“人”なのだ。

他人の失態を過小評価し、自分の失態を殊更に過大評価するあまり、「自分はダメな人間だ」などと思い悩む必要などない。「他人」とて、私達と同様に欠点を持っているし、失敗もするし、恥も掻くし、後悔だってする――そんな一人の、言ってしまえばただの人間なのだ。

自分の存在価値の有無を他者からの評価に依存してきてしまった人は、長年の認知の歪みによって、

「他人(=ただの人・ただの一個人)は、あなたの存在価値を決定することなど決して出来ない」
「自分の存在価値は、自分で決める」

という事実を、忘れてしまっているのかも知れない。

そのため、他人から何か否定的なフィードバックを貰った瞬間、

「自分の存在に“不合格”を言い渡された」

ように感じられて、必要以上に傷付いてしまうのかも知れない。だが、それは全くの無用の心配だ。

そんなこと言ったって、他人から評価されない自分に生きる価値を感じられない
という人もいるだろうが、仮にそうであったとしても、だからと言ってそのことが、「他人があなたの存在価値の決定権を持つこと」には決して繋がらない。

「他人から好意を持たれない」「他人から評価されない」といった事柄は、「自分の存在価値」における変数にはなっていない。両者は全く別軸で語られるべきものだ。

他人から好意を持たれないから→自分は生きる価値の無い人間だ
という論理は成立しない。せいぜい、
他人から好意を持たれないから→自分は生きる価値が無い人間のように感じられる
くらいに留めておくべきだ。自分の存在価値を決めるのは自分自身だ。他人が決定するものではないという原則に都度、立ち返りたい。

そもそも「他人からの評価」というものは、その人の置かれる環境によって、いかようにも変わってくるものだ。私自身を例に挙げると、

“某大学の化学科”という環境では勉強が出来ず、“大学のお荷物的存在”だった私が
→“障害福祉の職場”では“現場を回すのに十分な戦力”として、評価されていた

というようなことである。「私」という人間は何も変わっていないのに、置かれる環境によってその評価のされ方が、ほぼ180°変わっていることになる。

また、“他人がその相手のどんな要素に価値を見出すか”というものに関しても先の環境と同じように、見出そうとする人によって大きく異なってくるものなのだ。再度私を例に挙げるなら、

口下手のあまり自分から話さず、人の話ばかり聞いている私を、「つまらない」と言う人もいれば
→「話しやすくて良い」と言う人もいる

といったところだろうか。こちらも同様、「人の話ばかり聞いている」という私の要素は何一つ変わっていないのに、人によって全く評価のされ方が異なっているものだ。

「評価」というものの実際は、このように、置かれる環境や、評価する人によっていかようにも変わってしまう、たいへん曖昧なものなのだ。そのような曖昧なものに、自らの存在価値を全面的に委ねてしまう必要など毛頭ない。そして念のためもう一度申し上げるが、「他人」という存在は、あなたの存在価値を決定させる評価者などでは決してなく、“ただの人”だ。そこを忘れてはならない。

 
6
以上、

「他人の目が怖い」「他人の目が過度に気になってしまう」

といった人は、恐らく「他者不信」と「自己不信」を抱えていて、
「他人からの評価」
によって「自らの存在価値」を決めてしまおうとするから、尚のこと、他人の目が怖くなってしまうのだ

というロジックで物事を説明してきた。「他者不信」や「自己不信」の改善・克服については、これまで再三に渡り考察を続けてきたが、未だ絶対的な結論を見出せたわけではない。

「自分に自信を持つ」ためには何をすべきなのか

私は人との間に壁をつくる

そこで今回は、
自分の存在価値の有無を他者評価に依存している
という点に着目し、「他者不信」や「自己不信」の程度を軽くしてくれる(かも知れない)考え方である、

他人=ただの“人”である

という当たり前のような事実を、敢えて何度も書いた。

「自分の存在価値」という非常に大事なものを、他人からの評価によって決定してしまっていては、それは他者という存在が、鬼のような形相で自身の一挙手一投足を品定めする「採点官」や「面接官」、「批評家」のように見えてしまってもおかしくはない。

そのような「自らへの強烈な批評家」たる存在に果たして信頼感を持てるかと言うと、多くの人は「NO」と答えると思う。こうした
他人=自らへの批評家
のような誤った認識(認知)が、ますます他者不信と自己不信を強めているのだとするならば、

他人=ただの“人”である

のように、その「他人」というものに対して抱いている認識を修正してしまうだけで、随分、「他者」という存在に対する緊張感も、和らいでくるのではないかと思っている。

もしこの記事の読者で、
「他人の目が怖い」「他人の目が過度に気になってしまう」
という悩みを持っている、という方であれば、これを機に少しご自身の「他人」というものに対する認識を修正させ、

「あなたの存在価値を評価しているように見えていた“他者”という存在は、実は私達と同じ、“ただの人”なのでした」

という事実に書き換えていただければと考えている。

そして、その「他人」に対する新たな認識を胸に、自らの意思で、自身の存在価値を適切に測れるようになっていただければと、考えている。

自分と他人を比較し過ぎて卑屈になる病

人の顔色ばかり伺ってしまうのは「人間不信」があるから

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