劣等生な「私」の存在意義

常々、ブログを更新したいと思っていながら更新できないのには明確な理由がある。

 
 

大学院生活が忙し過ぎるのである。

 

「日中、私が勉強に費やせる時間の合計」…①

「大学院で課される課題・実習をこなすのに必要な時間の概算」…②

の関係が

① ≒ ②

であるにも関わらず、それに加えて

「急遽、宿題が出された」

「飛び込みで、一日実習が入った」

「カンファレンスで発表をすることになった」

「研究発表会がある」

「学内研修会が入った」

「面接指導を受けなければならない」

「常用薬が切れそうなのでそろそろ通院をしなければならない」

等という臨時のイベント・タスクが発生すると、① ≒ ②のバランス関係が瞬く間に崩れてしまう。

バランス関係が崩れると、睡眠時間を削ることによって、どうにか立て直しを図る他なくなる。が,このようにして睡眠不足が続いてしまうと、

「作業効率が低下し、課題をこなすのに通常の何倍もの時間が掛かってしまう」

「意欲が極端に減退し、課題に着手するまでに必要以上の時間が掛かってしまう」

「自己制御能力が低下し、課題をやらねばならぬ時間にAIと将棋を指してしまう(しかも大抵負けるので尚のことフラストレーションが溜まる)」

といった問題が出てきて、ますますキリキリ舞いをすることになる。このような生活が入学以降、ずっっっっっっっっと続いていて、M1後期に入ってからは尚更、余裕がなくなってきたように感じる。

以上の理由により、私はブログを書きたいと常々思いつつ、書けない。四六時中、心身ともに「追い込まれている感」がある。

 
 

他方、私の同級生も同様に「時間に追われているのか?」というと、どうもそのようなことにはなっていないようである。

もちろん大学院生活が「忙しい」ことに変わりないのだが、その中でも、

アルバイトをしたり、

友達とディナーしたり、

恋人とデートしたり、

ゼミ合宿に参加したり、

飲み会をしたり、

「丸一日オフ」の日をつくったり、

知能検査をクライエントに実施したり、

実習先をもう一つ増やしたり、

といったことをやりつつも、破綻せずに大学院生活を送っている。とても人間業とは思えない。私がこれらのことを一つでも取り入れようものなら、たちまち生活が破綻することは想像に難くない。

「私と他の同級生、何がそんなに違うのか?」を考えた時、やはり第一に挙げられるのが「知的能力の違い」だと思う。私と他の同級生との間には、知的能力に「決定的な差」がある。

これは心理学専攻特有のものだと思うが、心理学専攻の大学院生は

知能検査を(練習のため)大学院生同士で取り合う

というようなことをやることがある。であるから、「自分の知能を知っている」という大学院生が割と多い・・・と言い切ってしまって良いのかは分からないが、まあ少なくとも私の所属する大学院の場合は、多い傾向にある。

私は同級生全員の知能を把握しているわけではないが、どうも話を聞く限り、私と他の同級生との間には全検査IQで25〜30もの開きがあるということが最近、分かってきた。

すなわち、私は自分よりもIQが25も30も高い人達と同じフィールドで戦っている、ということになる。

おまけに私は、全体IQを構成する下位指標の一つが「軽度知的障害」と呼ばれるほどの水準しかない。それによってクリニックからは「軽度の学習障害(限局性学習症)の診断書を出せる」とまで言われているような人間である。

検査結果の数値だけ見るならば、言わば私の知能は全ての指標において、他の同級生の「下位互換」なのである。これがどういうことを意味しているか、さすがの私にも想像がつく。

そりゃあ、「勝てるわけないよな」と思う。「某大学に所属するいち大学院生」という同じ立場・環境にあったとしても、私と他の同級生との間でそのQOLに大きな差が出てしまうのは、当然のことだよなと理解ができる。

数値上は私の「上位互換」と言えるような人達と、共に大学院生活を送っていれば感覚的にも分かってくることだけれど、明らかに私と他の同級生とでは、ある経験を通じて積み重なる経験値に、圧倒的な差があることを実感する。

授業を受ければそこから吸収できていることの質・量がまるで違っているし、発表資料をまとめるのに掛かる時間も全然違う。物事を理解するのに掛かる時間も大きく違えば、理解したことを応用する力に関しては尚のこと歴然とした差を感じる。ディスカッションやグループワークでは私一人が置いていかれがちであり、事例論文やカンファレンス資料を読んでいる時でも、資料から読み取れている・ないし処理できている情報量に凄まじい差があるのを感じている。

このように、自身の力不足を感じさせられるような日々・出来事が続いていると、どうしても気分は落ち込みがちになる。劣等感や将来に対する不安だけでなく、「私の存在意義って何だろう?」というところまで考えさせられる。この業界に私のような人間は、必要ないということなのだろうか。そのようなことを毎日、自問させられてしまう。

 
 

…業界が私を不要な存在と見做しているかどうかは分からない。ただ、もっと広い視野で「私の示せる存在意義は何だろう?」と考えたときに、一つ見えてくることがある。それは、

「私がこの問題に上手く対処し生き残っていくことによって、勇気づけられる人々が世の中には存在するのではないか」

というものである。すなわち、

「私が大学院を出て、心理職として自立できた姿をお示しすることによって、私と同じような知的水準を持つ人々に対して、

この人がここまで出来たのなら、自分だってこれくらいのことはやれるのではないか?

という希望と勇気を抱かせられるのではないか」

ということである。

私は、私くらいの知能の人間が大学院を出て、専門職として自立しているという例を一つも知らない。前例がないゆえに、私は自身の無能さを自覚する度に

「私のような人間がこの業界で活躍するのは無理なのではないか」

と自問させられる。このとき、もし先に挙げた「前例」となる人物が存在していたのなら、どんなに心強かっただろうかと思うわけである。つまり、

あの人ができたのだから、私もきっとできるはずだ

という、希望とともに自身を奮い立たせてくれるような人物が存在していたら、どんなに心強かっただろうかと、常々思うわけである。

それと同時に、そんな「前例」を求めている人は私だけではないのではないか、とも思うわけである。私のように「周囲とのれっきとした知能の差」に苦しめられ、それゆえに色々な事を諦めてしまっている人が世の中には少なからずいるのではないか。

だからこそ、そうした「前例」に私がなること。それが、劣等生である私が頑張り続ける意味――いては、劣等生である私が示せる「存在意義」――になり得るのではないかと思うわけである。そして同時に私は、そのような考えに支えられて、毎日のように劣等感や敗北感、将来への不安や実存的な危機に立たされても尚、大学院生を続ける気力を維持できているのである。

知能に恵まれなかったからといって、

「大学院を出て心理職として自立するのは不可能」

と決まってしまう世の中は、面白くないと思う。

「人一倍の工夫、努力、根気、忍耐を要するかも知れないけれど、心理職として自立することは可能」

と言ってくれる人の沢山いる世の中の方が、ずっと希望があるんじゃないかなと思う。

そして、「知能に恵まれなくても大学院を出て、専門職として自立する」ために有効となるノウハウが沢山存在していて、比較的容易にそれらを入手できるような世の中の方が、ずっと過ごしやすいものになるんじゃないかな、と思っている。

私は時々、X(Twitter)のDMやブログのコメント欄とかで発達障害(や愛着の傷)をお持ちの方から、

「私は人を不幸にさせてしまうので、絶対に結婚はしないと決めています」

とか、

「不幸を再生産しないために、私は子どもを産まないと決めています」

といったメッセージを頂くのたが、「その気持ちめっちゃ分かるなー」と思う一方で、同時に何だか、「本当にそれで良いのだろうか?」という、モヤモヤした感覚も抱き続けてきた。

敢えて、自ら進んで「結婚しない」「子どもを産まない」という選択肢を取っているということであれば、それは全く問題にはならないと思うのだが、

「結婚/出産しても不幸な人を生んでしまうだけだからしない/産まない」

といった「悲しき理由」によって、自らの人生の選択肢を狭めてしまうというのは、とても遣る瀬無いことだよな、という思いもまた抱き続けてきた。

「学習障害だから大学院を出て心理職として自立するなんて無理」

「××という障害があるから結婚するのは困難」

と運命づけられてしまうのではなく、

「学習障害があるなら〇〇という工夫によって大学院を出たり自立したりすることは可能」

「××という障害があるなら〇〇という訓練によって結婚生活を上手くいかせることは可能」

といったノウハウで溢れ、発達障害を持つ個人の選択の幅がぐんと広がるような世の中の方がずっと良いんじゃないかな、というのが私の見解である。どのような特性を持ったとしても、それによって選択の幅を狭められることなく、色々な可能性を残すことのできる世の中の方が、より望ましいのではないかと思う。青いことを言ってるのは重々承知であるが、やはり学習障害に苦労させられている私の視点から「人の幸せ」というものを考えれば考えるほど、このような結論に至ることになる。

であるならば、その一環として私が

「『前例』作りに努めること」

は、劣等生である私のできることとして、非常に意義のあるものの一つになるんじゃないかな、と思うわけである。

だから私は、世の中の常識に一石を投じるような気持で、「劣等」であっても折れず、腐らず頑張ることにしている。

日々「自分のような人間は不要なのではないか」という疑問を抱かされる事態に直面しても尚、

「ここで潰れるわけにはいかない」

「私のような知能の人間でも業界で生き残れるだけのノウハウを見つけ出すまでは死ねない」

と己を奮い立たせて、必死に「全てを投げ出したくなる気持ち」を抑えている。

 

 

――ここまで殊勝なことを述べてきたが、眼前に立ちはだかる現実というものは、非常に厳しいものである。上に述べてきたことは、言葉でいうほど簡単なことではない。

これからも私は引き続き、IQの20も30も高い相手に惨敗を喫し続ける。それは間違いないことである。正直、つらいと思っている。毎日がめちゃくちゃ悔しく、惨めで、つらいものに感じられる。

ただ、そのような中にあっても心を強く持ち続け、少しでも高IQの方々とやり合える領域を広げるべく「前例づくり」に勤しんでいきたいと思っている。それが劣等な私が頑張ることの意義に繋がっている。そう考えている。

4件のコメント

  1. お久しぶりです。
    自分の特性を把握しても尚、諦めずに挑戦していく姿勢に元気付けられました。
    これからも記事を楽しみにしています。

    1. ねこさんお久しぶりです。このブログに関心を持ち続けてくださり本当に嬉しいです。その後はいかがお過ごしでしょうか。
      私は現状 苦戦続きですが,なんだかんだでこの記事がねこさんを元気づけられたようで良かったです。今後ともよろしくお願いします!

  2. こんにちは、以前XのDMにてやり取りをさせていただいた、えみなと申します。
    あの時は多忙な中お相手してくださり本当にありがとうございました。

    大学院生活、かなりお忙しいのですね。。そんな中、周りと比較してしまって落ち込むとのこと、大変辛いですよね。
    私も、困難を乗り越えた人というのは希望を与えられる存在になると思うんです。逆にいうと、そういう人でないと絶望を抱える人を救える人にはなれないのではないか、と。
    私自身、日々苦しみながら夢を追い続けて努力を惜しまない亀井さんにはとても勇気づけられております。
    亀井さんのことは、これからも応援しております。
    ちなみに、IQ70台で境界知能という方で心理職になった方というのをXで見たことがあります。なのでIQ低くて不可能、ということはないのではないかな、と思いました。

    1. お久しぶりです。急にアカウントがなくなってしまっていたので心配していました。

      応援ありがとうございます。引き続き折れずに頑張って行きたいと思っています。
      IQ70台で心理師になった方がいらっしゃるのですか!凄まじいことですね。検査とか理解し覚えるの相当苦労されたことでしょう。そのような方の存在によって私自身も勇気づけられます。

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