我4年生、大学院受験、大変 苦戦

※本記事は、未来の大学院受験生に向け、
「研究計画書は早めに作成しておいた方がよい」
ということを注意喚起するために作成されたものである。

 

 
今秋に心理系大学院の入試を控えている。試験日はおおよそ3ヶ月後に迫った。

それにも関わらず、今、私の実力は「受験レベル」に達していない。大学院の過去問を未ださっぱり解くことが出来ない。いやそれどころか、心理学に関する基本的な知識の習得もままならない状況にある。

ここで、なぜ私は「未だに入試問題を全く解けないのか」「心理学の基礎知識がさっぱり身に付いていないのか」について考えてみる。

解けない理由その1.概念・理論そのものの定義・中身を理解できていない。

一つは、「概念・理論そのものの定義・中身を理解できていない」ことである。

例えば「愛着」という概念は、

「生物個体がある危機に遭遇したり、不安・恐怖といった情動を強く喚起されたりした時に、特定の他個体への近接を維持およびその個体との関係を取り結ぶことを通して、主観的な安全の感覚を回復・維持しようとする傾性」

と定義されている。

が、この「定義」の意味するものやその具体像が全く分かっていないため、概念の理解に至っていないということである。この「定義」を見て、

「つまり、赤ん坊が、自分の身の危険を感じた時、養育者に“くっつく”ことで安全感を確保しようとする生得的な傾向のことでしょ」

と、自分の言葉で換言することが出来ない状態である。

・そもそも概念や理論そのものが難解であったり、
・教科書の記述が分かりづらいせいで意味を取りづらかったり、
・教科書によって定義が微妙に異なっているせいで頭が混乱してしまったりする

等の理由により、
「意味」が分からない状態
のままにある概念・理論が、現状の私の中で、あまりに多い。

意味の分かっていない、すなわちインプットのままならない概念をアウトプットすることなど出来ない。せいぜい、教科書に記載されている文言を書き写すか、上手に切り貼りして“それっぽい”答案を作り上げるのが精一杯である。

だから私は、問題を解けないのである。
 

解けない理由2.概念・理論の記憶が不十分

二つ目は、「概念・理論の記憶が出来ていない」ことである。

概念や理論そのものの「意味」は理解しているが、その意味を「記憶」出来ていない状態である。

つまり、「愛着」という概念を

「要するに、赤ん坊が身の危険を感じたら→養育者にくっついて→安全感を確保しようとする本能のこと、でしょう」

と理解しているが、それが頭に記憶として定着していないばかりに、答案用紙にそれを再現できない状態がこれに当たる。

・一度理解したものの忘却してしまった
・復習が出来ていない

等の理由によって、概念や理論の「記憶」が定着できていない。記憶できていない概念をアウトプットすることは、非常に困難である。

だから私は、問題を解けないのである。

 
解けない理由その3.概念・理論を学ぶ意図や目的を分かっていない

三つ目は、「その概念・理論を学ぶ意図や目的を分かっていない」ことである。

これは、
「複数の概念についての理解・記憶がきちんとなされている」
にも関わらず、「それらの概念を学習する目的」や「概念同士の有機的な関連」について理解できていないせいで、問題を解くことが出来ない状態のことである。

例えば「愛着理論」の中で、「愛着」は

「生物個体がある危機に遭遇したり、不安・恐怖といった情動を強く喚起されたりした時に、特定の他個体への近接を維持およびその個体との関係を取り結ぶことを通して、主観的な安全の感覚を回復・維持しようとする傾性」

と定義されている。これについて、

「要するに、赤ん坊が身の危険を感じたら→養育者にくっついて→安全感を確保しようとする本能のこと、でしょう」

と理解できていて、尚且つ記憶も出来ているものとする。

一方、「内的作業モデル」という概念は、

「愛着対象との二者関係において構築された重要な他者と自己に関する信念体系」

と定義されているのだが、これについてもきちんと理解し、

「要するに、赤ん坊が養育者と関係を築いていく中で→“自分や他人ってこんな感じなんだ”ということに関するイメージを獲得すること、でしょう」

と、自分の言葉でアウトプットすることが出来る状態にあるとする。

この状態にあれば、
愛着とは何か
内的作業モデルとは何か
といった「概念そのものを問う」問題には答えられるかもしれない。

しかしながら、例えば、
なぜ愛着理論は、乳幼児期だけでなく、人間の発達の全過程を視野に入れた理論として発展しているのか説明せよ
という問題には、答えられない。なぜなら、「愛着」や「内的作業モデル」といった「それら概念同士の関連」や「その概念を覚える目的」にまで、理解が及んでいないためである。

なぜ、「愛着」や「内的作業モデル」といった概念を学ぶ必要があるのか。
それらの関連はどのような構造になっているのか
↑こういったことを理解できて初めて、先の問題が解けるようになる。すなわち、

「赤ん坊は身に危険を感じた時、養育者にくっつくことで安全感を得ようとする本能がある(※愛着という概念)→このような、「危険を感じる→くっつく→養育者によって安全感を与えられる」という経験の積み重ね(または不運にも十分に積み重ねられない経験)によって、「自分は愛されるに値する人間であるのだ(または愛されない人間なのだ)」という自己イメージと、「他者は私という人間を愛し、守ってくれる存在なのだ(または守ってくれない薄情な存在なのだ)」という他者イメージを獲得(内在化)するようになる(※愛着と内的作業モデルの関係)→このようにして個人の中で内在化された自己・他者に関するイメージ(信念体系)は、乳幼児期を過ぎた後も、その人の社会生活を営んだり人間関係を構築したりする際のテンプレートとして働き、その人の認知や行動に影響するようになる→だから、愛着理論は「乳幼児だけに留まらない、児童、青年、成人期も視野に入れた理論」として発展しているのだ」

と、説明することが出来るようになるわけである。

今の私は、こうした「概念同士の関連」や「概念や理論を学習する目的」にまで、理解が及んでいない。

だから私は、問題を解けないのである。

 
解けない理由その4.大学で習っていない概念が出てきた。

最後の理由は、「私の在籍している大学では習わなかった概念が試験問題に出ている」ことである。

こうした事態は往々にして起こり得る。なにせ、

・教科書Aには記載のあることが、教科書Bにはない

ということはザラにあるからである。

私の大学の授業では「教科書B」を使った
→けれども志望大学の授業では「教科書A」を使っていた
→だから、「教科書A」にしかない概念であっても普通に試験に登場するし、登場してしまったら私はお手上げ

ということになる。当然のことである。

私は入試対策に向け、志望大学の授業で使用している「教科書A」を何冊も集めた。そこまでは良かったのだけれども、その「教科書A」をこの期に及んで未だ、開けていない。当然、いつまで経っても問題を解けるようにはならない。

 

――さて、それでは一体なぜ、私は自身の問題点がそこまで分かっていながら、「教科書A」を開かないのか。

実を言うと、「開けない」のである。開きたくても、「開けない」現状にあるというのが、問題なのである。

それではなぜ、私は教科書Aを「開けない」のか。

そのボトルネックとなっているものとして、「研究計画書」が登場する。

研究計画書いつまでも完成せず入試対策時間を圧迫

「研究計画書」というのは、出願にあたり大学院に提出する書類の一つである。

大学院では修論を書かねばならない。従って、修論の「土台」となる研究計画書を提出しなければならない。すなわち、

「私はこれこれこういう研究をします」

という書類を書いて、出さなければならないのである。

しかしながらこの
これこれこういう研究をします
という宣言の中身には、それなりの「根拠」が求められる。

・その研究は社会に何か還元するものなの?
・計画書内の主張はどういう理論に基づいているの?
・その研究、これまで誰も行っていないものだよね?
・なんでその研究方法にしたの?

等といった批判に耐え得る、論理的・科学的な計画を練らなければならない。ここが研究計画書の厄介なところである。

発言一つひとつに「根拠」が求められるため、その「根拠」探しに奔走することになる。かなりの数の論文や書籍を読み込んで、テーマを決め、計画を練り、研究の理論的根拠について、書いては修正するのを繰り返し、修正が及ばない箇所については再度、論文を読み込み検討する…という作業を繰り返す。

正直、心理学の基礎知識もままならないいち学部生にとっては辛い作業だった。通信制大学にいるため、教授から指導を受けることも出来ない。

そもそも私のようなペーペーが、教授の助けもなしに

心理臨床の発展に寄与するような研究(それも、学生という身分でも行えるような基礎研究)

を考え出すなんてどだい無理な話である。ほんと有り得ない。どうかしていると思う。

で、その研究計画書を私は、3月頭からぼちぼち開始したのだけれど、これが4月、5月になっても終わらない。早く入試対策を進めたいのに、いつまで経っても「研究計画書」作成の沼から、抜け出すことが出来ない。

6月頭になってようやく計画書の大枠を完成させることが出来たものの、その大枠の添削を外部機関にお願いしてみたところ、6月中旬に、「赤ペン」いっぱいになって返ってきた。「研究の意義が不明瞭」という文言と共に。「研究意義の見出せない研究」は研究として致命的であり、また論文を読み込み…という作業を繰り返す必要が出てきた。

そうして、6月も遂に「研究計画書」の作成でほぼ丸々潰れてしまったわけである。いや潰れただけに留まらず、未だに完成には至っていないのが現状である。

以上が、「教科書A」を開きたくても、開けない理由である。「研究計画書」が完成しないばっかりに、入試対策を進められないのである。非常にもどかしい日々を送っている。

こういった理由により私は、いつまで経っても入試問題を解けるようにならないし、入試問題を解けるだけの見込みを上げることも出来ないのである。

更に

更に良くないことに、私は通信制大学で「卒業論文」を履修していない。(厳密には、履修届けは出したのだが、「実力不足」を理由に履修させて貰えなかった)

実を言うと、大学院出願の際、「研究計画書」の他に「卒業論文の要旨」を提出させる大学院があって、私はそういった大学院も志望している。

「卒業論文の要旨」は無論、「卒業論文」を履修していなければ提出できないのだが、その場合は、

「大学院入学時に研究活動を行うだけの実力があることを証明するための書類(=要は、自力で取り組んだ卒業研究に関する要旨やその報告書)」

を提出しなければならない(指導教官もなしに!)ことになっていて、この書類の作成にも時間を取られているわけである。まあ大学院側としては、受験生が大学院で「研究活動」をするのに十分な能力があるかどうかを、書類できちんと評価したいのだろう。その意図については分かる。分かるのだけれど、お蔭で私の勉強計画は滅茶苦茶になってしまった。

従って私は、出願に際して準備する書類として、研究計画書の他に、自らの「研究能力」を証明するための書類も作成しなければならない。この作成もまた、「教科書A」を開く上での高い、高過ぎる障壁になっているのである。
 

 
さて、以上の事実を踏まえて私は、未来の大学院受験生に伝えたい。

「研究計画書は 早めに完成させておいた方が良い」

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