【心理学科 公認心理師】通信制大学生の手記(4年次春編)

成績

★通信科目(レポ+試験で単位がくるもの)
発達心理学Ⅱ(青年~老年) S
社会・集団・家族心理学Ⅰ S
学習・言語心理学 S
心理学研究法 S
心理学統計法 S
心理的アセスメントⅠ S
知覚・認知心理学Ⅰ S
神経・生理心理学Ⅰ S
健康・医療心理学Ⅰ S
社会・集団・家族心理学Ⅲ B
障害・障害児心理学 A
産業・組織心理学Ⅰ C
感情・人格心理学Ⅰ S
精神疾患とその治療Ⅰ A
教育・学校心理学Ⅰ B
司法・犯罪心理学Ⅰ A
心理学的支援法 C
公認心理師の職責 B
福祉心理学 S
関係行政論 S
★通信科目+授業(レポ+授業+試験で単位がくるもの)
心理学概論 S
発達心理学Ⅰ(幼児・学童) A
臨床心理学概論 A
人体の構造と機能および疾病 S
★授業または実習
心理演習 S
心理実習 ※2023年2月頃取得予定
心理的アセスメントⅡ A
心理的アセスメントⅢ A
心理学統計法演習 A
心理学実験Ⅰ S
心理学実験Ⅱ S

GPA 3.29
GPA(実習要件17科目)3.28 ※実習するためには2.5以上が必要
—————————-
 

・大学の単位を(実習以外)取り終えた。

ということもあって、今は専ら大学院入試対策をしている。けれども、ここ3ヶ月くらいの大学院入試対策の中で、

・陰キャ コネなし 情弱 ぼっち コミュ障 無能 自尊心壊滅通信大学生の外部受験

ならではの苦悩を沢山経験しているので、今回はそのことについて緩く書いていく。

(1)情報不足

大学院入試は「情報戦」と言われる。というのも、大学院入試は“大学入試”とは異なり、

・文科省検定教科書なるものが存在しない
・だから“教科書”なるものも物によって扱う概念が一貫しない(大事な概念が書かれていなかったり、逆に詳しく書かれすぎているために他の概念が疎かになっていたりする)
・それに伴い問題の出題領域・範囲が各校によってバラバラ(その大学の教授が重要だと思うものを出題するため)
・おまけに参考書が充実していない
・更に大学によって過去問入手が困難
・そして過去問の解答が手に入らない

ということで、平たく言うと
「これをやっておけば取り敢えず大丈夫」
というようなマップを非常に描きづらい。仮に、「在籍している大学で扱われている教科書」を完璧に仕上げられたとしても、受験する大学院の入試問題が解けるとは限らない。「完璧にした教科書」に載っていない概念が出題されたら一巻の終わりである。

ということで、大学院入試はぶっちゃけ「過去問ゲー」となる。過去問を何とかして数年分かき集めて、出題されている問題から出題領域や範囲を推測し、それに見合った勉強を出来るかどうかが合否に大きく影響する。…あ、この流れは大学の定期試験対策に似ているかも知れない。皆さんの多くも、大学で単位を取るために、試験勉強は「過去問」や「授業プリント」「学校で使用している教科書」に頼ることが多かったと思う。あれの強化版が大学院入試と思っていただければ分かりやすいかも知れない。で、外部受験(在籍している大学とは異なる大学の大学院を受験すること)をするとなると、頼みの
・過去問
・授業プリント
・学校で使用している教科書
が集まらない(特に授業プリントを集めるのは至難の業)ということになるので、まあ試験対策では相当苦労するというのが分かっていただけるのではないかと思う。

というわけで、「大学院入試対策をやっている」とは言うものの、「本当に自分が有効な対策を行えているのか?」という不安は常について回るのである。これを一人で抱え込むのもまた、受験に対する不安を大きくしているような気がしないでもない。

(1)補足→情報収集は皆どうやっているの?
前述の通り、大学院入試は「情報戦」であり「過去問・授業プリントゲー」である。そのため、受験生によっては自ら積極的に動き、何とか志望している大学院の大学院生との“コネクション”をつくって、大学院入試対策を効率化し入試を突破しようと考える者も少なくない。例えば

・志望大学院の研究室訪問をして、そこで大学院生と知り合いになり、過去問や授業プリントを恵んで貰うという戦略や、
・SNSで志望大学院の大学院生と繋がるという戦略、
・中には、志望大学院が実施している心理学実験に参加者(被験者)として参加して、そこで持ち前のコミュ力を発揮し志望大学院の大学院生と繋がるという戦略をとっている方もいた。(あと一番無難なのは、予備校に入ってそこから情報を入手することだろう)

――こういった方々を見ていると、「凄いなあー」と心から思う。初対面の人との会話はほぼ必ず一往復で終了するようなド陰キャコミュ障の私とは格が違うよなと感じる。こういうことが出来ないから、私はいつまで経っても“噛ませ犬”的な、カッコ悪い、負け続きの人生から抜け出せず、以て“反面教師”としての立場からしか情報発信することが出来ないのだろうなと、優秀なコミュ強らを見ているとつくづくブルーな気持ちになる。

ただ世の中「陰キャ」でも大学院に合格する方はいらっしゃるわけで、そういう人達からは希望とエネルギーを貰いつつ、私も何とか合格を目指して頑張ろうというわけである。

(1)の補足→陰キャの情報収集戦略
私のような陰キャはどのようにして情報収集をすれば良いのだろうか。戦略としては、やはりインターネットを最大限に活用していくということになる。

私の場合、運良く志望度の高い大学院の数年分の過去問が手に入った(学校に問い合わせたりHP上に落ちている過去問を拾ったりした)ので、それらを並べて、眺めて、出題領域や範囲を見極めて、その問題を解くためにはどの領域のどの教科書をどこまでどの質でやれば良いのかを分析した。

この作業には、志望している大学のシラバスを有効活用した。仮に志望大学に在籍していない外部の学生であっても、大学によってはシラバスをネット上で閲覧することが出来る。そこで、ネット上でシラバスを閲覧しながら、志望校ではどのような授業が行われているのか、どのような教科書や参考書を使った授業が行われているのか、その教科書や参考書を使えば果たして過去問題を解けるようになるのだろうかといったことを徹底的に調べ上げた。使用されている教科書は実際に購入もした。このようにして、陰キャな私は受験戦略を立てている。

ただこの作業は結構時間を要して、なかなか大変ではあった。

(2)試験問題が解けない

まあこれは(1)と被るのだけれど、兎に角「過去問が解けない」のである。

大学の勉強は一応自分なりに一生懸命やったつもりだし、単位も十分取った。にも関わらず、過去問や参考書にある問題が全く解けない。解けない理由にも色々あって、

・そもそも用語の意味を忘れてしまったから解けない
・習っていない用語・概念ばかりなので解きようがない
・「大学院入試で問題を解けるようになるための勉強」と「学校で単位を取るための勉強」の違いにより、大学で学習した内容であっても問題を解くことが出来ない

等々、色々と原因がある。

それぞれの対策として、“用語の意味を忘れていること”に関しては→“思い出す作業”を学習計画に加えれば良いわけだし、
“習っていない用語がある“のなら→“(志望校が使用している)教科書で知識を補填“すれば良い。
ただ三つ目の、

・「大学院入試で問題を解けるようになるための勉強」と「大学で単位を取るための勉強」の違いにより、大学で学習した内容であっても問題を解くことが出来ない

という点に関しては今更気付いたところで遅く、またそのことが結構ショックで、まあ正直、「やらかしたなー」と思っている。

これは勉強の目的を何に置くか、ということに関わることなので凄く難しいところなのだけれど、学校で単位を取るために教科書を読んでいると、どうしても受け身になるというか、取り敢えず教科書に記述されている言葉をその言葉通りに受け取って、理解して、答案用紙にはそれを忠実に再現するという勉強になってしまう。

ただその勉強法では、入試問題が全く解けなくて。何というか、「入試問題を解くためには教科書のどこをどのように読めば良いのか」ということを目的意識に置きつつ教科書を読まないと、情報が頭の中で上手く整理されなくて、結局、何をどこまでどういう構造で記憶、理解すれば良いのかが全然分からない。これは、「ただ忠実に教科書をなぞればある程度点数が来る」学校の試験問題と、そうでない大学院入試の問題とは根本的に問題の構造が違っている(ことが多い)のが原因だと考えているが、まあ改めて言うが、「最初からもっと入試問題を解くことを意識した勉強をしておけば良かったなー」と、今更ながら後悔している。(まあ、そうならないために予備校というものが存在しているのだろうけれど、私は行っていないので…)

(3)研究計画書の作成で入試対策の時間が圧迫される

あと、大学院入試の過程で「しんどいな」と思ったのは「研究計画書の作成」である。

大学院というのは研究機関であって、たとえ公認心理師という国家資格の受験資格を得るためとは言えども、入学後は「研究活動」をしなきゃいけない(それが修論に繋がります)。

だから、出願の際には

「私は入学後、これこれこういう研究をします」

ということを記述する「研究計画書」なるものを提出しなければならないのだが、この作成がほんっっっっっとうに大変で。

というのも、研究というのは、「自分が興味のあることを勝手にやればいい」というわけのものではないようなのである。どうも「研究」というものには、

・新奇性(これまで誰もやってこなかったものである)
・科学性(きちんとした理論的背景に基づいたものである)
・論理性(論理的に研究意義が導き出されたものである)
・社会的意義(その研究が社会にとって有益な何かを還元するものである)
(・+αとしてまあ勿論、自分が興味の持てるテーマであった方が良いだろう)

といった要素が求められるようである。

つまり、

「自分はこういう研究をします」
「それは○○という理論に基づいていて」
「それによって明らかにされることは社会的に十分意義があるにも関わらず」
「これまで誰も行ってこなかったものです」
「だから私はこういう研究をします」

というようなことを論理的にきちんと説明できるものでないと、「研究」とは言えないようなのである。その「研究計画」なるものを、自力で「テーマの設定」から作らなければならない、そこが非常に難儀なのであった。

確かに私は以前大学で「卒業研究」をしたことがあるが、あくまで研究室の教授から与えられたテーマをやっていたに過ぎなかった。だから、

「自力で新奇性・科学性・論理性のいずれも備えた社会的意義のある研究テーマを設定する」

というのは、やったことがなかった。おまけにそんなことが、心理学の基礎知識もままならないペーペー学生に出来るとは到底思われなかった。

現に私は、今在籍している通信制大学で以前(昨年の10月)「卒業論文(卒業研究)」の履修届けを提出するに当たって、その「研究計画書」なるものを作成して大学に送ったことがあるのだが、その折は

・この研究はあなたの勝手な興味関心に基づいて計画されたものであり、科学的でもなければ社会的意義のあるものでもない。おまけに研究の前提となる当該理論の理解や、データ分析における統計学の理解も不十分と見受けられるため、卒業研究を履修するレベルにないと判断された。従って卒業研究の履修は認められない

というようなことを言われ、結局卒業研究の履修が出来なかったという過去がある(※これにまつわる内容は【心理学科 公認心理師】通信制大学生の手記(3年次秋編)にあります)。そういうことも相俟あいまって、正直「研究計画書の作成なんてどだい無理な話でしょ」というのが本音だった。

が、大学院入試のためにはどうしても乗り越えなければならない課題だった。ということで、今年の2月頃から、恐らく自身の研究テーマの核となるであろう理論の基礎的な事柄について勉強を開始した。続いて、「ある程度基礎が固まってきたな」と感じたところで、CiNiiで論文を検索して実際に読んでみた。4月終わり頃のことであった。

が、どうしても

「誰もやったことがなくて」
「科学的な理論に基づくものであって」
「社会的意義があって」
「自分の興味関心の持てる」

ような研究テーマを思い付くことが出来なかった。一般的に、「研究計画書」の作成において最も難関とされるのがこの「テーマ決め」というのは良く知られていることで、私もその例に漏れず非常に「テーマ決め」で相当の苦戦を強いられた。

私自身、たしかに関心のある理論は存在するものの、それに基づき一体、何をどのようにすれば「社会的意義のある研究」を設定したことになるのか、皆目検討がつかないまま日付だけが過ぎていった。(まあ厳密に言えば「自分の興味あること」を度外視すれば作れないこともないわけではなかったのだけれど、やはり「自分の興味あること」がテーマとならないと後々のモチベーションや面接等に関わって色々苦労するしなあと思って、妥協できなかった。)

で、色々な論文や書籍を当たっていくにつれ、幸運なことに「これなら興味を持てそうだ!」と思える論文を見つけた。というか、「自分の興味領域にドンピシャだ」とまで言えるような論文を発見することが出来たのだが、これには大変救われた。というのも、「ドンピシャの論文」を見つけることさえ出来れば、「その一部を改変する」という作業をすることで、

・新奇性
・科学性
・論理性
・社会的意義

といった処理の難しい問題を一網打尽に解決することが出来る(※正確には、解決する手掛かりを得られる)ためである。

例えば、
「猫を飼うと→幸福になる」
という研究結果の報告されている論文を見つけたとする。で、「自分もそれと似たような研究をやりたい」と思えたのならば、しめたものである。その研究の一部を変更したものが「研究テーマ」になり得ないかを十分に検討し、検討の結果テーマとして成立させられそうなら、それを「自身の研究テーマ」として設定してしまえば良いのである。

具体的な話をした方が良いかもしれない。一体、研究のどんな部分をどのように変えれば良いのか。

例えば、
「猫を飼うと→幸福になる」
の「猫」の部分を「犬」に変えて、
「“犬”を飼うと→幸福になるのではないか?」
というテーマを設定することが出来るかも知れない。

または、「猫を飼うと→幸福になる」
の「飼う」の部分を「撫でる」に変えて、
「猫を“撫でる“と→幸福になるのではないか?」
というテーマ設定をしても良い。

もちろん、「猫を飼うと→幸福になる」
の「幸福」を「対人不信の緩和」に変えて、
「猫を飼うと→対人不信が和らぐのでは?」
とやっても良い。

「研究方法」を変える、というのもアリである。例えば、
「猫を飼うと→幸福になる」
という研究の研究方法が、
「猫を飼う前後の幸福度を質問紙Aによって調査した」
というものであったら、
「じゃあ自分の研究では質問紙じゃなくて面接法によって調査しよう」
とか、
「質問紙Aじゃなくて質問紙Bで調査しよう」
とやっても良い。

――ただここで問題になるのが、先行研究に加える「変更」が果たして
・妥当なものなのか
を調べる必要がある。つまり、「変更を加えた研究テーマ」は

・新奇性のあるものか(本当にこれまで誰もやってこなかったか)
・科学的なものか(加えた変更は妥当なものか。ちゃんと何らかの理論に基づいているか)
・社会的に意義あるものか(変更を加えたことで社会的意義が失われていないか)

といったことを調べなくてはならないのである。

さて話を私のことに戻すと、私は研究計画書の作成に当たって「これだ!」という論文を見つけられたわけである。それは先ほどの例を用いるなら、

「猫を飼うと→幸福になる」

という先行研究であった。

で、「猫を飼うと→幸福になる」という先行研究から、
「じゃあ“犬”を飼っても→幸福になるのではないか?」
という仮説を自分なりに導いて、それを「自身のオリジナルのテーマ」として扱うことにしたのである(※簡単のため、凄く話を単純化しています)。これにて、最大の関門であった「研究テーマの設定」が完了し、後はその研究が研究として成立し得ることが言えるような裏付けを取っていけば良い、という段階にまで至れたのである。5月中旬のことであったが、テーマが決まったときの喜びといったら半端なかった。

なにせそれまでは、試験勉強をしなければならない状況にありながら研究計画書の作成に梃摺てこずっていて、ちっとも勉強に手を付けられない & 肝心の研究計画書も完成する気配がまるでないという期間がずっと続いていて、「研究計画書の作成」は自身の中で重い足枷になっていた。あまりに作成の見通しが立たないので、

・今年度の秋受験が果たして出来るのかどうか(研究計画書が完成しないため受験を見送る受験生もいるらしい)

とか、

・仮に出来たとしても入試対策の時間が削られるあまり対策不十分のまま試験に突っ込むことになるのではないか

といった不安から、ただでさえ寝付きが悪いのにますます寝付きが悪くなり、それに伴い日中のパフォーマンスも低下するという日々が続いて尚、焦燥感が増すという負のスパイラル状態に陥っていたので、兎に角、先行研究の「猫を→犬に変える」ということによって、何とか、自分オリジナルの計画書を作成できそうだと見通しのついた瞬間は安堵感が強かったのである。

さてそれからは、「犬を飼うと→幸福になる」という研究テーマが研究テーマたり得るのかを証明するため、「猫」を「犬」に変えたことによって論理に矛盾が生じないかとか、社会的意義が失われていないことを示せるかとか、本当に「犬」を対象とした研究をこれまで誰も行ってこなかったか等々、裏付けを進めていった。

ただ、「もうすぐ計画書そのものが完成する」というところまで来て、どうも

「あれ?どうもこれは怪しいぞ」

ということに気がつき始めた。色々と調べていくにつけ、たしかに、「猫」を「犬」に変更することによって論理に矛盾は生じないことが明らかとなったし、社会的意義についてもどうにか説明できそうなことが分かった。けれども何となく…何となくだけれど、

「犬を対象とした研究を本当にこれまで誰も行っていないか」

の部分で、引っかかるものがあった。というのも裏付け調査を進めていく過程で、複数の論文の随所に、「犬を飼うと→幸福になる」という事実が既に明らかになっているような気配の漂う記述が見つかっていたためである。確信はなかったけれど、どうも怪しい気がしていた。だから、「犬について、誰かが既にやっているような気がする」という懸念がずっと付いて回っていて、次第に私のテンションも低下していったのであった。

そして5月下旬、遂に見つけてしまった。30年以上も前の海外の研究の中で、
「犬を飼うと→幸福になる」
ということが、明らかにされていたのを、見つけてしまったのである。

犬、やっぱりダメじゃん」――研究計画書作成の構想が、全てパーになった瞬間であった。

このとき私は、絶望を通り越し、破れかぶれを通り越し、遂には開き直りも通り越して、虚無に至った。「この先どうしよう」という不安の言葉も、心にあまり浸透していかないような、不思議な感覚を体験した。

行き詰まった私は、『異常内界』という非常に陰惨な記事(ちなみにこの記事はかなり不評だった。申し訳ない)を書き上げた後、気を取り直し、再び計画書作成に取り掛かった。計画書作成に当たって、先行研究の「猫」を「犬」に変えるのではダメだと分かった、でもだからといって「鳥」に変えるとすると、社会的意義に疑問が生じることが分かっている。では「ウサギ」としてみてはどうかというと、やはりこちらについても社会的意義の点でボツになりそうな気配がある――。

と色々考えて、5月の終わりにどうにか行き着いたのが「ネズミ」への変更だった。「ネズミを飼うと→幸福になる」という設定であれば、科学的といえるし、何とか社会的意義を持たせられそうであるし、何より、これまで誰も研究してこなかった事柄であると言えそうだということを突き止め、それをテーマとして設定することにしたのだった(※簡単のため話をかなり単純化しています)

これにて、私の研究テーマの骨子は、

「ネズミを飼うと→幸福になる」

ということで決着がついたのであった。(※くどいかも知れませんが、本当の研究テーマではありません。相当簡略化しているし、内容もまるで違います。そもそもネズミを飼って幸福になれれば苦労しません)

…というわけで、「研究計画書の作成」については、本当に苦しい戦いを強いられた。まだ完成には至っていないのだけれど、作成における関門である「テーマ決め」が終わったこともあり、ひとまず安堵している。試験勉強と並行して、何とか出願日までに細部を詰め、完成まで持って行ければと思っている。

あと、作成した研究計画書は、研究計画書を添削してくれる外部機関にお願いすることにした。添削に当たって金銭は発生するものの、まあ仕方ないよなという感じである。なにせ私にはコネクションが無い。内部生(=自分の所属する大学の大学院を受験する学生)や通学生であれば、自身の所属する研究室の教授や大学院生に、研究計画書の添削を依頼することも出来るのだろうが(実際、そのようにして貰っている学生は沢山いるようである)、通信制大学ではそのような機会には恵まれない。自力だけの作成に不安があるならば、外部にお願いするしかないのである。

(4)他の受験生の実力が分からない

陰キャ通信大学生が大学院入試に挑戦するに当たって、やはり「他の受験生の実力の程度が分からない」というのは、大きな懸念材料である。

なにせ、大学入試のように模擬試験があるわけでないから、自分の立ち位置(偏差値)が分からない。通学制の大学生はどんな授業をどのような質で受けているのか、そして知識の定着度合いはどれほどのものか、そういった情報が全く分からない。そういうわけで、私はどれ程、現状において他の受験生の皆様と実力面で差が付いているのかということについて、皆目検討がついていない。

そのような事情であるから、他の受験生の実力の程度は、自身の頭の中で想像するしかなくなる。私の場合、頭の中で想像される「他者」の実力は過去の体験から、かなり高く見積もられる傾向にある。私が無能な人間で負け続きの人生(特に勉強面)を送ってきたということもあって、「見知らぬ他者」の存在は脅威と知覚されるように脳がプログラミングされている。すなわち「他者」と言えば、私より遥かに高い実力、コミュ力、行動力、知能を兼ね備えているように、自動的に想像されてしまうのである。

だから正直なところ私は、他の受験生の存在に日々怯えているのである。実際のところどうなのかということはさっぱり分からないまま、頭の中で形成された「優秀な受験生の幻想」に脅かされる毎日を送ることは、それだけでも疲弊するものである。

(5)「大学院」という場が怖い

これは完全に私個人の問題なのだが、私はかつて自身の無能さから、大学で「お荷物的存在」になったことがあったので、大学とか大学院といったアカデミックな機関に対する苦手意識が非常に強い。

だから率直に、「受験」というものをあまりしたくない。大学や大学院といった機関とも出来れば無縁でいたいと思う。けれども、そうしていては自分の将来の可能性が大幅に制限されてしまうので、どうにか気持ちを奮い立たせて、受験に挑戦しようとしている、という背景がある。

ただ、そうは言っても過去の体験の痕跡は消えておらず、今でも大学のHPに入ったり、入試の募集要項に目を通したり、返却される成績表を確認したりする時は心拍数が増加したり冷や汗が出たりする。いわんや、教授と話したり他大学の大学院にTELしたりする機会のあった際は扁桃体が爆発するくらいの恐怖に襲われる。あまりの恐怖心から、やらなければならない手続きを先延ばしにしてしまい、却って面倒な事態に陥ってしまったことさえある。

まあ私に限らず、誰しも「受験」やら何やらに対する不安や緊張はつきものだと思う。目上の人と話をしたり、馴染みのない機関に連絡したりする行為に緊張や不安を覚えるのは、人間として当たり前のことだと思う。

ただ私の場合、そうした「人間として覚える当たり前の感情」とは別に、「それだけでは説明の付かない、過剰なまでの不安や恐怖」も同時に感じてしまうことが多い。

例えば、初対面の人と会話をする状況において、「会話が続かなかったらどうしよう」とか、「怖い人だったらどうしよう」といった不安を抱えることは、まあ言わば人として「普通」のことだと思うのだけれど、私の場合は、その上に「もしこの人と会話が弾まなかったら私の存在価値が無くなってしまう」とか、「もしこの人に好かれないようなことがあれば、私の生きている意味が否定されてしまう」といった、そういった“自身の人格や人生や生存に関する問題”にまでいちいち発展してしまって、事態が必要以上にこじれやすくなるという特徴がある。だから、色々な物事に対して過剰反応して、適応上様々な困難を抱えることになりやすい。

私はそんな自分が嫌いだった。嫌いだからこそ、事あるごとに自分で自分を叱り続けた。「何でもかんでも自分の人格や人生、生存の問題に結び付けてはいけない。自分で勝手に作り出した幻想に怯える人生を送るのはもうやめろ」と。けれども、一向に状態は良くならなかった。

最近になって知ったのだけれど、「自分で自分の不甲斐なさを叱る」という方法は、トラウマケアにおいてはあまり功を奏さないようである。むしろ、自分で自分を叱るのではなく、自分の不甲斐ないところも全て温かく受容し、優しく自分を思い遣ってやることが重要のようである。

そもそも、私のこうした「あらゆる出来事を自身の人生や生存の問題に結び付けてしまう癖」は、幼少期の頃の適応戦略上、やむを得ず身に付けたものなのである。その昔、発達途上にあった神経系が、幼少期の頃の色々な負の体験を通じて、すぐに心身に危険を知らせるよう発達すること(要は自律神経が調整不全になること)を強いられてしまった結果が、今の私の過剰反応に繋がっているわけである。

だから、こういうことを堂々と言うのは少々怖いのだけれど、私が今、上に挙げたような歪んだ人格や思考を有し、過剰な不安や緊張を示してしまうのは、私が生来のダメ人間だからでも、クズ野郎だからというわけでもないのである。

「私が人間としてクズだから→色々なことを恐れ、普通の人が普通にやれていることを普通に出来ない」

のではなく、

「私が普通のことを普通にやれないのは→幼少期のトラウマ的体験が自律神経系の調整不全を引き起こした結果、今もなおその調整不全が歪んだ思考や身体反応を発生させているから」

なのである。まずはこのメカニズムをきちんと理解して、無闇矢鱈むやみやたらに自分を責め、罵り、批判するのをやめることが大事である。

そうして、「人生におけるあらゆる出来事を自身の存在意義に関する問題に結び付けてしまう癖」は、少なくとも幼少期においては、適応上重要であり、確かな意味を持っていたことを知ることが大事なのである。すなわち、私が常に目の前の人から好かれ続けていなければ、自身の人格が否定され、存在意義が無に帰してしまうような感覚に陥ってしまうのは、その幼少期、そのようにして常に目の前の親の顔色を窺い、好かれるような行動を取っていなければ、親に人格や存在を否定されるようなことを言われ傷付いてきた名残に他ならないのである。過去に受けた傷を神経系が今でもしっかりと記憶してしまっているから、私に同じようなシチュエーションが訪れると、「目の前の人に好かれるよう常に緊張していろよ」と神経系がアラートをかけ続け、私がこれ以上傷付かないよう、守ろうとしてくれているわけである。その過剰な防衛は、今や健全な日常生活を送る上での大きな足枷になってしまっているわけであるが、このアラートがあったからこそ、幼少期の私は何とか家庭における人格や存在否定を(少なくともそのアラートがないよりは)回避することが出来ていたわけである。

更に言うと、「自分が普通でないことを責める自己」もまた、やはり適応上どうしても必要だった適応方略なのである。何か私が(親の価値観上)良からぬことをして、親から人格否定を受けた際、「親を怒らせた自分を責める自己」を頭の中に置いておく(これも自律神経系の働きだが)ことで、その自己が二度と同じ失態を犯さないよう、批判的に自分自身を見張る役割を引き受けてくれていたわけである。私がこの内なる批判者と共に常時自己を否定し、批判し、そうして自尊心を低下させたまま生活していれば、少なくともうっかり調子に乗ったり、油断したりして、再度同じ過ちを犯して親を怒らせるようなことがなくなるわけであるから、やはりこれも、自分を守るために必要なものとして機能していたわけである。「自分の内なる批判者も、目的としては自身を親から守るために機能してくれていた」ということもまた、しっかりと理解することが重要なのである。

そして、「あらゆる物事を過剰に恐怖し、極力回避しようとする癖」についてもまた、適応上やはり重要だったことを知ることが大切である。私が何か物事に挑戦したとして、それが失敗に終わったとき、たとえその失敗が些細なことであったとしても、まるで自分の人格や存在そのものが否定されたような感覚に陥るという強烈な傷付き体験に発展することが多いのだが、「回避癖」は、そのような深い傷付き体験をこれ以上自分がすることのないよう、神経系のアラートを常時ONにし、「あまり出しゃばったことをしないように」「出来るだけ傷付く恐れのあることをしないように」と、自身を守るためのブレーキをかけ続ける役割を担ってくれていたわけである。

まとめると、「あらゆる出来事が自分の生存や人生そのものにまで絡んでしまう歪んだ思考回路」であったり、「不甲斐ない自分を徹底的に責め続ける自己」であったり、「ほんの小さな事柄にも恐怖心を抱きその状況を回避しようとする自己」も含め、いずれにしても、共通しているのは「その昔、親から見捨てられないため」や「親からこれ以上の否定を受けないため」に身に付けざるを得なかった、適応方略だったわけである。その適応方略が、「親から捨てられる危険」が去った今となっても、神経系の自動的な反応として残ってしまっていて、状況次第で「それに過剰反応したり」「はたまたそれを回避したり」「あるいは回避する自己を否定したり」といった思考や行動として現れてしまっている、というメカニズムになっているのである。

そういうわけで、今私が自身の不甲斐なさを目の前にしてやるべきなのは、自分を批判し攻撃することではなく、自分の思考や行動の意図(=自分を守ろうとしていること)や背景(=それは幼い頃、親から捨てられないための適応方略として重要な反応であったこと)に気付き、それを受容することなのである。ああ、どの反応も、自分を守ろうとして機能してくれていたことなのか、ということに気付き、それら一つ一つの反応(回避癖や、自己批判癖、人格に結び付ける癖etc.)に優しさと思い遣りを向け、今はもう大丈夫だよと、危険はもう去った後なのだよと、前頭前皮質を最大限に使いながら、根気強く伝えてあげることが大切なのである。その優しさと思い遣りの温もりが、調整不全を起こし過剰緊張していた自律神経系に癒しや安心感を与え、その癒しや安心感が、神経系の過剰なアラートの働きを低下させ、それが結果として健全なる思考、行動、反応に繋がっていく、という流れになるわけである。そのようにして、過去のトラウマ的体験は、次第にその力を減弱させていくわけである。これが、私が今行うべき、自身のトラウマケアなのである。

――ということで話を大学院の話に戻すと、私が大学院のHPを見たり「教授」という文言を見たりして過剰な緊張をしてしまう時、そんな自己を「そんなことでどうするのだ」と叱咤する前に、むしろ優しく、
「入試のことを考えたり、大学院という場所にコンタクトを取ったりすることに生存レベルの恐怖を感じてしまうこと、それからその恐怖から回避しようとしてしまうこと、そしてそんな自分を責めたくなる気持ちはよく分かるよ」
「ただそれは、いずれもその幼少期、自分を生存の危機から守るために働いてくれていた神経系が今も尚、作用している結果であって、決して自分がダメな人間だから、というわけではない」
「だから今私がやるべきことは、その神経系の活動を鎮めるよう、『今この瞬間』には、かつて幼少期にあったような危険は迫っていないことをしっかり自覚した上で、自らの思考や行動、反応に思い遣りの感情を向けることなのだ」
「大丈夫。何ら今は危険なことはない。安心して良い。今は何も起こっていないし、HPを見たり『教授』という文言を見たりしただけでは恐らく何も危険なことは起こらない。仮に起こったとしても、それは以前のような自らの生存を脅かすようなものではない。かつてのような危険を、もう感じなくて良い。安心して欲しい。少なくとも私は私の味方でいるから」
といったことを語りかけてあげることなのである。

だから今、私は、確かに大学院入試に向けて自身が非常に不甲斐なく頼りないものに感じられているのだけれど、あまり批判しないようにしている。「人として感じる当たり前の不安や緊張」に関しては、「じゃあ懸念となっている事柄を払拭するため、事前準備を欠かさず行おうね」と具体的な解決策をとるのだが、「生存の危険を知らせるレベルの不安や緊張(=幼少期の負の体験に由来したもの)を感じてしまうこと」については、「今この場にかつてのような危険はないし、」「まあ仮に今そのことが分からなくても、この先時間を掛けてゆっくり理解していけば良いよ。」「その過程で自身の不甲斐なさを否定したくなる瞬間が必ず訪れるだろうけれど、その“批判”だって自分を守るための機能の一つなわけだから、その目的を十分理解してあげて、内なる批判者にさえ優しく、思い遣りを持って接しつつ、過度の否定をしないよう努めていこう」というようなことを伝えるようにしている。
 

 
――さて、こうした心のケアのやり方や、そのメカニズムに関する詳細は、また別の記事で紹介したいと考えている。ただ如何いかんせんそれについて記述されている本が分厚い上に内容もやや難解で、なかなか読み進められず、記事を丸々一本作成するレベルまで知識習得が至っていない。何とか読み終えた折には、書くつもりである。

※ちなみに参照している書籍はジェニーナ・フィッシャー著(浅井咲子訳)の『トラウマによる解離からの回復』というものであるが、確かに良い本なのだけれど、購入されることはあまりお勧めしない。というのも、値段が高い(4000円弱する)上、内容もやや難解で、非常に分かりづらい。ページ数も多い。ガッツのある方は読まれても良いのかも知れないが、やっぱり積極的なお勧めは、出来ないなあ、という印象である。

【心理学科 公認心理師】通信制大学生の手記(3年次冬編)

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