普通の人が耐えられることに何故か耐えられない理由

普通の人が、当たり前のように乗り越えていく挫折がある。
上司に怒られた。
受験に失敗した。
授業中、大勢の人の前で間違った回答をした。
会議でとんちんかんな発言をした。
失恋をした。
契約数がノルマに届かなかった。
ライバルにかけっこで負けた。
生きていれば誰しも、どれかしらは必ず経験するようなありふれた挫折である。「挫折」という言葉を充てるのが大袈裟のように感じるものさえある。殆どの人は、長い人生の中で起こるこれらの一事を、どうにかして耐えて、乗り越えていく。上司に怒られて、その時は凹むだろうが、一定の時間の経過と共に「次からは気を付けるぞ」と決心し、翌日以降も出社できる。第一志望の学校に行けなくても、「受かったところで頑張ろう」と気持ちを切り替えられる。授業中に誤った回答をしてしまっても、「あれは恥ずかしかったなぁ。次は答えられると良いなぁ」と気持ちを切り替えられる。どれも確かに嫌な経験ではあるが、「生きるか死ぬか」を考える程の深刻な失態ではない。だから多くの人は、これらの挫折にどうにか対処し、乗り越えることができる。
一方で、これらの「挫折」に、耐えがたき苦痛を感じてしまう人が存在することも事実である。こういった人達の中には、まるで、上述した一事が、その人の「生きるか死ぬか」を左右する一大事であるように感じられてしまう人さえいる。
一度だけ、上司に怒られてしまった。それだけで致命的な精神的苦痛を覚え、翌日から出社できなくなってしまう。
受験に失敗してしまった。それだけで自殺を考える。
授業中に誤った回答をした。それだけで、翌日から学校に行くと具合が悪くなるようになった。
このように、普通の人であれば上手に対処し乗り越えられる一事でさえ、当人の人生にとっては致命的な傷を与えてしまう大惨事に思われてしまうという人が存在する。そのような人の中には、自身の異常性に気が付いている人もいる。そういった人は、「どうして自分は、普通の人が耐えられることに耐えることができないのだろう」と思い悩む。そして自身のその異常性に、このような解釈を与える。「それは、自分の精神が弱いからだ」――

――本当に、そういった人は「精神が弱い」のであろうか。私は、必ずしもそうとは思わない。というより、その人の精神は決して“弱”くはないと思っている。
何故、傷付き易い人の精神が「弱くはない」と思えるのか。それは事実の受け取り方というものが、普通の人と傷付きやすい人で全く異なっているからである。両者では、眼前に起こった事実が同じでも、その事実に対する解釈がまるで違う。普通の人は、上司から「何度も同じ事で注意させないでくれ」と怒られても、それは「再発防止に努めなかった己の無策」を批判されているだけだと受け取る。そうして己の軽率さを反省する。もう二度としないよう注意しようと決心する。それだけのことである。まさかこの一事が会社を辞める理由にはならない。しかし傷付きやすい人にとっては事情が異なる。上司から「何度も同じ事で注意させないでくれ」と叱責される。すると彼らは、「自分の存在そのものが否定された」と受け取る。上司の叱責が、「何度も同じミスをするような間抜けな人間は生きている価値がない」というような内容に受け取られてしまう。上司はなにも、そこまで言っていない。ただ、「何度も同じ事で注意されるのをどうにかしろ」と言っているだけであり、決してその人の人格や存在まで批判しているのではない。しかし傷付きやすい人は、それが分からない。自分という存在の否定の言葉として受け取る。「お前は生きる価値がない」と言われていると受け取る。このように、「上司から怒られる」という客観的事実は同じでも、その事実の解釈がまるで異なっているため、両者の間における心的ダメージ量には相当の差がある。普通の人は「自身の行動に対する批判」と受け取る一方で、傷付きやすい人は「自身の存在価値に対する批判」と受け取っている。
傷付きやすい人は、どうしてこのように、過度に悲観的な解釈をしてしまうのか。何故、上司に怒られただけで「俺は存在価値のない人間だ」とまで思い悩んでしまうのか。それは、その人が自分で自分の存在を価値のないものだと思い込んでいるからである。その人自身、自分を価値のない人間であると決めてしまっている。「自分は価値のない人間だ」と思っている限り、あらゆる出来事が、その無価値さを裏付けるものであるような歪んだ解釈がなされてしまう。同僚に挨拶をしたとき、思っていたよりも覇気のない挨拶を返されただけで、傷付く。それも、自分の人格を否定されたかのように傷付く。「今日は体調が悪いのだろうか」とか「何か考え事でもしていたのだろうか」とは考えられない。「遂に俺は嫌われたのかも知れない」などと思い悩む。
上司に、「何度も同じ事で注意させないでくれ」と叱責された。しかし上司は、ただその人の「行動」を批判しただけである。次から気を付けるようにと言っただけである。しかしその人は、上司から己の「行動」だけを批判されたとは考えられない。人格を否定されたと思い込む。「こんなミスをするなんて、お前の存在価値はないんだよ」と言われたように思い込む。そして大きく傷付く。場合によっては、翌日から出社することができなくなる。この他にも同様にして、
笑顔で話をしてくれなかった。
自分の提案が却下された。
会議で反対意見を出された。
志望校に受からなかった。
教師から「それは誤りです」と言われた。
友達に冗談を言われた。
好きな人にフラれた。
といったあらゆる事柄が、自身の人格否定や、存在否定に感じられてしまう。常に「お前は生きている価値がない」と言われて元気でいられる人間はいない。誰だって凹む。心を病む。病まない方がおかしい。こういった理由で、私は普通の人が耐えられることに耐えられず、心を痛めてしまっている人が必ずしも「弱い」わけではないと述べたわけである。毎日のように人格否定を受けながらも何とか耐えて生きているという点では、寧ろ精神そのものは強いとも言える。ただ、そういった人は、傷付き方が妥当ではない。事実はそこまで語らぬのに、受け取る側で、事実に過度に悲観的な解釈を与えてしまっている。すなわち、上司から「行動を改めよ」と言われただけの事実を、上司から「お前は生きている価値のない人間だ」と言われたと歪曲して解釈してしまっている。そうして、必要以上に自身を痛めつけてしまっている。ここに、精神的な弱さを感じてしまう所以がある。

何故、彼らは事実に対し、そのような悲観的な解釈をしてしまうのだろうか。換言すると、何故、その人は、「自分は価値のない人間だ」と思い込むに至ってしまったのだろうか。それはその人が小さい頃に、周囲の人々から、「ありのままの自分」でいることを認められなかったからである。幼少期より、「ありのままの自分」でいることを認められずに大人になった人間は、「自分は価値のない人間だ」という思い込みを抱きやすくなる。
ありのままの自分を認めてもらう、受け入れてもらうという経験は、睡眠や食事と同様、人が人として健全に成長する上で非常に重要なものである。子供は自分にとって重要な他者から、自分らしく生きることを肯定されることで健全に成長する。たとえ自分が養育者の願望を叶えられない身であっても、養育者から一人の人間として認めてもらうことで健全に成長する。「自分は存在価値のある人間だ」と思える人間に成長する。しかし、養育者の期待を裏切った際に人格否定を受けてきてしまったような子供や、養育者の期待を押しつけられるあまり、自分の真の欲求を抑圧し続けてしまったような子供は、自分という存在に対する自信が育たない。「自分は存在価値のない人間だ」という感覚を心の底に抱えながら人生を送るようになる。養育者から、「私達の期待に添うような行動をしないならば愛してあげない」という意志表示をされた子供は、「本当は友達と遊びたい」という自身の欲求を抑圧し、習い事に励む。それも、養育者の虚栄心を満足するために通わされている習い事に励む。そうして、上達するため一生懸命頑張る。上達しなければ養育者から見捨てられるのではないかという恐怖心から、一生懸命頑張る。本当は、この習い事が楽しくない。この習い事には苦手意識を覚えている。本当はこの時間、習い事ではなく友達と遊んでいたい。しかしそのような意思表示をすると見捨てられてしまう。「そんな人は私達の子供ではない」、「そんな人は生きている価値がない」と言われてしまう。だから頑張る。自分の欲求を抑圧して頑張る。このように、自分が自分であることを認められないまま成長するわけだから、ありのままの自分の存在に肯定感を抱くことなどそうそうできない。結果、「自分が自分のままいることは価値のないことだ」という感覚を抱くようになる。自分らしくいたら、愛されない。常に他者の期待に添えなければ、自分は生きている価値がないと思えてくる。従って、他者の一挙手一投足がその人の人生にとって、必要以上に重要になってくる。自分の存在を認めてもらうために、自分からの承認ではなく他者からの承認が必要になるのだから当然のことである。そして、そのような感覚を持ったまま社会に出たとき、他者の些細な言動に過剰反応する。事実は何もそこまで語らぬのに、上司から叱責されただけで「俺は存在価値のない人間だと言われた」と拡大解釈するようになってしまう。自分の存在価値を自分で否定している上に、自分の存在価値の評価を他者に完全に依存しているため、このようなことが起こってしまう。
この人は、養育者から「習い事が気に入らなくてもあなたは私達の子供」と認められれば、このようなことにはならなかった。「習い事で上達が見られなくてもあなたは私達の子供」、「習い事がどうしても嫌ならやめてもいいよ」、「苦手なことをよくここまで頑張ったね」と言われていれば、この人はここまで自己否定感に襲われることはなかった。自分の感情、考えを表出しても見捨てられない安心感を得られていれば、決して上司の叱責を人格否定と捉えることはなかった。傷付きやすい人は、幼少期に養育者からありのままの自分を認められなかったという経験を、全ての人間関係にまで持ち出しているから、普通の人が耐えられることに耐えられない人間になってしまったのである。確かに、傷付きやすい人は、過去に養育者から自分の存在価値を認めて貰えなかったかもしれない。しかし、社会に一歩出れば事情は異なる。ありのままの自分のことを、「好き」と言ってくれる人もいるし、「好きじゃない」と言う人もいる。たとえ他者の期待に100%応えられなくても、自分の存在を認めてくれる人は沢山いる。「確かにこういう欠点はあるけれど、それでも私は総合的に貴方が好き」と言ってくれる人が沢山いる。全ての人の期待に100%応えようとする必要はない。全ての人から好かれようとする必要はない。そんなことは無理であるし、仮に全ての人の期待に応えられたとしても、そういった人間を毛嫌いする人間というものが出てきたら一巻の終わりである。
全ての人から認められるわけでなくても、全ての人から好かれるわけでなくても、自分の存在価値は揺るがない。好きな人は好きと言ってくれる。認めてくれる人は認めてくれる。客観的に、どんなに素晴らしい人間でいたとしても、好きじゃないという人はいるし、認めてくれない人もいる。自分の存在価値を評価するのは自分自身である。他者一人ひとりの評価基準で自身の存在価値を評価しようとするから、苦しくなるのである。些細なことで挫けてしまうのである。

自分で自分の存在価値を否定している事実に気が付くことが大切である。更に「自分は価値のない人間だ」と思うに至ってしまった原因を幼少期にまで遡って分析し、納得するような事実を見つけ出すことである。そして、「自分という存在には価値がある」という感覚を自分で持つように意識しながら、他者と関わってみる。そうすると、意外なほど他者は自分の存在を否定していないし、欠点のある自分であっても好きでいてくれる事実に気が付いてくるであろう。それが心の底から理解できるようになったとき、もう、他者の些細な言動に人格否定の影を感じることはなくなってくる。自分らしく生きられるようになってくる。今まで自分が耐えられなかったことに普通の人が耐えられていた理由が分かるようになってくる。




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16件のコメント

  1. コメントさせて頂きます。

    自分がなぜ傷付きやすいのか、どう自分と向き合えば良いのかのヒントを得ることができました。ありがとうございました。

    少しずつ、自分の考え方も良い方に変えていきたいものです。

    1. 加藤諦三さんの書籍はとても参考になります。
      己の承認欲求と徹底的に向き合うことで健全なパーソナリティを獲得する。そうすることで、人生が輝き出します。
      この記事を書いている私も承認欲求への対処に追われています。共に頑張って克服していきましょう!

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