自分を嫌いにならない方法

私は自分が嫌いだった

「傷付きたくない」気持ちが強すぎるあまり、私にとってあらゆる世事が恐怖の対象になった。学校では「自身の頭の悪さが周囲に知れてしまうこと」を恐怖し、就職してからは「何か失態を犯し周囲の信頼を失ってしまうこと」を恐怖した。人間関係では「言動の一つでも誤れば周囲から失望されてしまう恐怖」により始終身体を強張らせ、もちろん人々の集うコミュニティに自ら足を運ぶことなどできない。外出したくても人目が怖い。研究室訪問をしたくても教授と話すのが怖くてはじめの一歩を踏み出せない。一人で解決できぬ疑問を抱えていても拒否されるのが怖くて人に聞きに行けない。面接が怖くて就活をまともに行えない。否定されるのが怖くて自分の考えを表明できない。友人から異性を紹介されても、ちっとも積極的になれない。人を頼れない。人前に立てない。人前で平常心にいられない。傷付きたくない。恥を掻きたくない。自分がダメな奴であることを、周りの人間との差からこれ以上、思い知らされたくない。そんな事態に陥るくらいなら、あらゆることから逃げ続けた方がマシだ。たとえそのことによって、莫大な損失を被ろうとも。たとえそれによって、どんなに自分の人生が縮小していこうとも。

――私はこのような自身の性質が、大嫌いであった。

回避性パーソナリティ障害

上記のような症状は、「回避性パーソナリティ障害」というものとよく似ていると感じる。

回避性パーソナリティ障害というのは、「自分が傷付くのではないか」「失敗して恥を掻くのではないか」「周りから馬鹿にされるのではないか」等といった恐怖心によって、社会との関わりや他者との親密な関係を結ぶことから逃避し続け、結果として社会不適応に陥っている状態のことだ。具体的な症状については、以下の文章が分かりやすい。

どうせ自分は失敗してしまう、どうせ自分は人から嫌われてしまうという否定的な思い込みが強く、それなら最初から何もしないでいるのが一番安全で楽だと考えてしまうのです。
その結果、進学、就職、結婚という人生の大きな選択を避けたり、実力以下の損な選択をわざわざ選んだり、自分からチャンスを潰してしまいがちです。親密な関係になるのも避け、表面的で責任のない関係に終始しようとします。恥ずかしがり屋で失敗して恥をかくことを極度に恐れます。その恐れのためにすべてのチャレンジを諦めてしまうのです。
対人関係においても不安感や緊張が強く、いかにも自信がないというオドオドした人が多く、本来の魅力が精彩を欠いて見えてしまいます。運動したり、身体を人前にさらしたりするもの苦手で、肉体関係を持つことにも自信がなく消極的です。
相手が好意を抱いてくれていても、自分はどうせ退屈で魅力のない人間なので、嫌われてしまうからと思い込み、身を引いてしまうのです。
岡田尊司(2014)『パーソナリティ障害がわかる本 「障害」を「個性」に変えるために』(ちくま文庫)pp.260-261

回避性パーソナリティ障害の原因には遺伝要因と環境要因の両方があり、その比率は2:1と言われている。一見「遺伝要因」で決定されてしまうようにも思われるが、“発症するかしないか”を決めているのは「環境要因」だという。

その「環境要因」として挙げられるのが、「養育者と安定した愛着が築けているか否か」というものである。人は赤ん坊の頃に、養育者から応答性のある関わりをしてもらうことで、世の中に対する基本的な信頼感を得る。空腹の時に泣けばミルクが与えられ、寂しい時に泣けば抱っこされるといった経験を重ねることによって、「自分の身に何が起こっても養育者が守ってくれる」という安心感が得られる。その安心感が、世の中に対する基本的な信頼感に繋がっていくわけである。

更に赤ん坊は、養育者から感受性ある関わりをしてもらうことによって、人と交流することの喜びを覚える。自分の気持ちを養育者がきちんと理解し、それを適切に伝え返してくれる経験を積み重ねることで、人と関わることは心地よいものだということを認識する。

こうした「養育者による適度な応答性、感受性ある関わり」を経て、「養育者との情緒的な絆」を獲得することにより、赤ん坊は世の中に対する安心感を得、自らの存在に価値を感じ、他者との関わりを心地よいものと感じるようになるのである。

対して、「泣いても大抵は放っておかれた」というようなネグレクトを受けたり、「自分の気持ちなど理解して貰えなかった」というように共感性に乏しい環境のもとで育ったり、「養育者の気まぐれで可愛がられたり放っておかれたりした」という場合や、「養育者の価値観に従っているときは可愛がられたが、そうでないときは突き放された」というようなネガティブな体験が積み重なった等、何らかの形で「養育者との情緒的な絆」を結べなかった状況においては、その子供は世の中に対する安心感を抱けない。それどころか世の中は危険極まりないところであり決して油断ならないのだとする信念を持ったり、自分に対する自信が持てなかったり、自分の存在に価値を感じられなかったり、他者不信を抱えたりする。このような状態に様々な「失敗体験」が重なることで、世の中に対する安心感や、自己像、他者像といったものに更に傷が付くようになる。

つまり「回避性パーソナリティ障害」とは、自らの養育者と情緒的な絆を結べず、自己や他者、世の中に対する基本的な信頼感が育まれなかったことに加えて、学校などで恥を掻いたり馬鹿にされたりした体験が重なることで、「失敗」に対して過度の恐怖心が生じ、その恐怖心から、様々な物事に対して身動きが取れなくなってしまった状態といえるだろう。

人が怖いけれど、愛されたい――恐れ・回避型愛着障害の抱える闇

「社会不適合的気質で辛い」←愛着障害のせいかも

私は自分を責め続けた

自分が傷付くことを極度に恐れて、人生のあらゆる可能性を自ら狭めてしまっている自己を、私は責め続けた。私は周囲の人間と比べ、明らかに異様だった。普通の人が普通に乗り越えていける僅かな障壁に、私は逐一つまずいた。私にとって、授業一つに出席するのでさえ、大事業であった。失敗を恐れるあまり著しく行動力を欠き、見捨てられることを恐れるあまり、人との交流が極端に乏しくなった。こうして傷付くことから逃げれば逃げるほど、私は自分を嫌いになっていった。

「このままではいけない――。」そう思った私は、自身の歪んだ認知を矯正しようと日々、努めた。

・人はそう簡単に関わりのある人を見捨てたりしなければ、一つ言動を誤っただけで失望し離れていったりするわけでもないこと。
・「失敗」は悪いものではなく、自身の成長のためには必要不可欠のものなのであって、決して恐れすぎるべきものではないこと。
・人は他人の失敗をそうそう覚えていないし、自分にとって「失敗」と思っていたものは、誰かにとっては失敗でないかも知れないこと。
・自身は存在価値がないわけでは決してないこと。
・世の中は自分が思っているほど怖いところではないこと等々…

…これらの考えは、私の「頭」には届いたものの「心」には浸透していかなかった。どんな“矯正の言葉”を自らに言い聞かせようとも、依然として私は自身が傷付くことを過度に恐れ続けた。次第に、「これだけ言い聞かせ続けても行動や思考の変わらないダメな私」という否定的な自己像が、増大していくこととなった。

日夜、自身の一挙手一投足、その悪いところを逐一あげつらっては、「そういう考え方はダメ」「そうした行動は良くない」と否定を重ねていくにつれ、自分の思考や行動を改善させていくつもりが、却って「自分という存在は“ダメだし”すべきところばかりの欠陥人間である」という意識を固めることに繋がってしまったのだ。

いや、そもそも(たとえそれが不本意であったとしても、)これまでの人生において獲得することとなった自身のパーソナリティを丸ごと否定する行為は、まさに「人生そのものを否定」しているのとあまり変わらなかった。私は知らず知らずのうち、自身の生きてきた「軌跡」そのものを全面的に否定してしまっていた。「矯正」の御旗のも、と自らに批判的な言葉を掛けていくにつれ、自己像のみならず、「これまで自分の生きてきた人生」も傷付けてしまっていたのである。

自分を虐めすぎた

回避性パーソナリティ障害の克服法

私が回避性パーソナリティ障害かどうか(ないしその傾向があるかどうかについての議論)はさておき、果たして「回避性パーソナリティ障害」の克服には、どのような方法が挙げられるのだろうか。精神科医である岡田尊司著の『生きるのが面倒くさい人 回避性パーソナリティ障害』をもとに書いてみたい。

1.養育者との情緒的な絆を結び直すこと
最も重要なのがこの項である。回避性パーソナリティ障害の原因に“愛着の問題”が絡んでいることは先に述べたが、その場合、幼少期に結べなかった「養育者との情緒的な絆」を大人になった今、再び養育者との間に結び直すことが非常に重要であると、先の書には記述されている。

これまで“不適切な関わり”により、我が子(※とは言っても既に成人しているだろうが)の気持ちを尊重せず、いやそれどころかその存在さえも直接的、ないし間接的に否定ばかりしてきてしまった養育者が、自らのこれまでの偏った関わりを反省し、一転して子供の気持ちの理解に努め、本人のペースを尊重し、共感的な関わりを持つように努めることによって、それを受ける子供側の症状も、次第に良い方向に変わってくる。それは養育者の子供との関わり方の改善に伴い、子供側が養育者から、全面的に自身の存在や気持ちを受け入れられ、認められる経験をすることで、本人の持つ、それまで奪われていた本来の力が回復してくるためである。

養育者による“適切な関わり”が継続されるにつれ、子供側の自己否定感や自己嫌悪感が緩和されることになる。すると段々と、本人に主体性が現れてくるようになる。さてそのようにして現れた主体性の芽を、たとえそれがどのようなものであったとしても、養育者が否定せず共感的に受容することで、子供側には更なる主体性の萌芽が見られるようになってくる。具体的には、「自分はこうなりたい」というような欲求が、現れてくるのである。

このようにして現れた「主体性」が、「回避性パーソナリティ障害」の克服において重要な働きをすることになるわけである。

2.主体性を取り戻し、色々なことにチャレンジしてみる
自分はこうなりたい」という欲求が現れてきたら、「…でもそんなことできっこない」とか「もっと違うものを目指したらいいのでは」などと否定することなく、実際にチャレンジしてみることが重要だ。「自分で決定し自分で行動する」という経験こそが、克服に向けた大きな突破口になるためだ。

なぜなら、いざ色々なことにチャレンジしてみると、自分では「困難なこと」「大変なこと」「大きく傷付いてしまうかも知れないこと」と思っていたことも、実際は想像していた程の大事に至ることはなく、案外、何とかやり遂げられてしまうものであることに気付く。こうした「案外やってみればどうにかなる」といった体験が小さな成功体験となり、そうした成功体験の積み重ねが、自分に対する自信に繋がってくる。また、「案外やってみればどうにかなる」といった体験により、これまで「絶対にできるわけがない」「必ず恥を掻いてしまう」というように凝り固まっていた思考がほぐされ、「やってみなければ分からない」「取り敢えず挑戦チャレンジしてみよう」等と、ずっと柔軟な対応ができるようになってくる。これも、克服に向けた重要な過程となる。

3.自分を開示し、「ありのままの自分」が受け入れられる経験をする
そして過度に恐れず、思い切って「自分を開示してしまう」のも克服に向けた突破口になり得る。というのも、いざ友人等に自分の悩みを開示してみると、思いの他それを否定されるどころか、「あなたも大変だったんだね」等といった共感的な言葉が返ってくるものなのである。こうした「他者からの共感的な言葉」により「自分が受け入れられた感覚」を味わうことによって、心がスッと軽くなり、他者に対する安心感の萌芽にも繋がってくるというわけである。

なにせ人間たるもの、各々が三者三様の悩みを抱えているものである。こちらの自己開示に続くようにして、「実は私の方もこんな悩みを抱えていて…」と、その友人の方も自己開示してくることがあるだろう。それを聞いていると、「ダメな自分に悩んでいるのは自分だけでないんだ」「皆それぞれ色々な悩みを抱えているんだ」等ということが分かってくる。そうした“他者理解”が更に心を軽くし、「人は相互に心理的に支え合って生きているのだ」という事実に気付かせてくれる。このような「気付き」も、回避性パーソナリティ障害の克服の一助となる。と、この著書にはあった。

更に「克服法」について考察してみたい

…さて、以上の克服法をご覧になって、どのような感想を持たれただろうか。改めて申し上げると、先の克服法は精神科医である岡田尊司氏の著書から取ったものである。

実際に岡田氏の著書を読まれたことのある方はお分かりかも知れないが、岡田氏は特に「養育者との情緒的な絆の結び直し」を非常に重視する方である。「養育者との情緒的な絆の結び直し」を実現することによって、それまで当人を苦しめていた不適応症状が、みるみるうちに改善に向かっていったという臨床例が、著書には沢山載っている。そのため、「当クリニックでは保護者への心理教育・指導に最も力を入れている」というような記述が、著書の随所に見られる。また同氏は文章力にも大変長けた方で、実際にその著書を読んでいると、どんどんその内容に引き込まれていってしまう。読後感は非常に良く、「良いものを読ませてもらった」「気持ちが楽になった」「これは凄い書籍だ」といったような高揚した気分を味わえる。岡田氏の著書は、まだ一度も読まれたことのないという方には、是非お勧めしたいと私は思っている。現に私は、同氏の著書を何冊も持っている。そしてその内容については本ブログで何度も取り上げている。

…が、そのような高揚感を覚えると同時に、私自身、読後に“一抹のやりきれなさ”のような感情を覚えることがある。その正体は恐らく、「けれども私はそれを克服することはできないだろう」といったような、虚しい感覚である。
なぜなら私は、「養育者との情緒的な絆の結び直しを果たした自己」を想像することが、全くできないからだ。

情緒的な絆の結び直しの望めない人間は、一体どのようにして自身の偏ったパーソナリティと対峙していけば良いのだろうか――。

私はこれまで、「養育者との情緒的な絆の結び直し」が望めなくても、このような不適応なパーソナリティを改善させる方法はないものかと、ずっっっっっっっっっっっっっっっと考えてきた。そこで、今まで実践してきたのが先にも述べた、「自己の悪い特性や行動の矯正・修正」であった。「日常生活において自分の悪い面が出てきたら、それを逐一批判し、分析し、修正を試みる」というものである。しかしその試みは前項にも述べたとおり、結果として「これまで歩んできた自身の人生の物語」や「自分という人格の全面」の批判をしているのと同様であり、却って自己像を悪化させる事態に陥ってしまった。

…そこで私はスタンスを変えることにした。すなわち「自分の悪いところを批判し、都度矯正を試みる」ことをやめることにしたのだ。

その代わりとして、現在は「傷付くことを恐れ、人生の選択肢を狭めてしまっている自己」の性質を、そのまま受け入れようと試みている。つまり、「傷付くことを恐れるあまり人生において損をしまくっている自己」をこれまで通り「矯正しよう」とするのではなく、
それが自分の姿なのだ
と自身で認め、受け入れることにしたのである。
どんなにこの性質によって人生で損を被ろうが、それが「自分」であるとして、否定せず、ありのままに認めようと今は努めている。なぜなら「ありのままの自己」を認めることは、同時に自分という人間の無条件なる肯定に繋がってくるためである。

しかしながら、このような
ネガティブな自己も“ありのままの自己”として受容しようとする姿勢」にはきっと、

①それでは結局、何も解決していないではないか、という批判
②そのようなネガティブな自己を受容することなど到底できないのではないか、という批判

がついて回ることになるだろう。そこで次に、上に挙げた二つの批判へのアンサーを記述してみたい。

まず①について。たしかに、「傷付くことを恐れるあまり人生の選択肢を狭めている自己」を「それが自分という人間である」とただ闇雲に受容したところで、現状の好ましくない事態については何も変わっていないように見える。結局は「社会不適合的な気質を持ってしまった自己を半ば“諦念”と共に受け入れているだけではないか」「ただの努力放棄ではないのか」といった疑問が生じるのも、尤ものことだと思える。

しかし、自己受容の本質は「自分自身を否定しないこと」にある。私は自身がこれまで積み上げてきた認知や行動のパターンを「一般的に良く思われているもの」に修正しようと試みたが、一向に上手く行かなかった。いやそればかりか、「これまでの人生で身についた自身の思考や行動のあらゆるパターン」を拒絶し批判し続けることにより、却って自己像の悪化を招いてしまった。「やっぱり自分は生きる価値の無い人間だ」とする歪んだ認知がますます強固になってしまったという点で、事態はむしろやや悪化したとさえ言ってよい。

従って、「これまでの人生において身に付いた思考や行動のパターン」を「悪いもの」と断定し否定・批判するのではなく、「それが自分の生き方なのである」と肯定的に受容することができれば、自己像の悪化を食い止め、今よりもずっと自己肯定的に生きることができるようになると考えた。このように、「ネガティブな自己も“ありのままの自己”として肯定的に受容すること」は、「自己を否定的に捉え、“ダメだし”する機会が少なくなった」という点で、これまでとは様相が大きく異なっているといえる。決して、「何も解決していない」「何も変わっていない」ということはないのだ。少なくとも、「自己を無闇に否定することがなくなった」という点で、ダメな自己を受容することは、進歩であるといえる。

具体的に考えてみても、「傷付くことを恐れて逃げまくっている自己は悪く、嫌なもので、それを矯正できない自己はどうしようもない」という自己に否定的な信念が、「いいや自分はそもそもそういう人間なのだから、自分は自分なりのやり方で生きていけばいい」といった自己に寛容で受容的な信念に変わっているわけである。こうしてみても、自己に受容的になっているという点で前進している、と言っていいだろう。

また、このような「肯定的な受容」が自己像の修復に寄与したならば、自分に対する自信が付いてくるはずだ。そのような“自信の獲得”によって、先の「克服法」の項で述べた「主体性の出現」や「チャレンジを恐れない心構え」、「人を信じる姿勢」も活性化されてくる。自分に自信が付けば、世界の見え方というものは自ずと変わってくるものなのである。やはりこのような点においても、「ダメな自己を肯定的に受容すること」は、「まるで無意味な暴挙である」わけではないことが分かる。

…さてここで問題となるのは②についての批判である。これまでの解説によって、

「傷付くことを恐れて逃げまくっている自己の性質」を「肯定的に受容」することで「自己否定感が和らぎ、自分に自信が付くようになる」こと

については何となく分かったけれど、そもそもそんなネガティブな性質を持つ自己を受容することなんて、どう頑張ったってできやしないのではないか、とする批判についてである。

たしかに、「傷付くことを恐れて逃げまくっている自己」を「ありのままの自分」として受容し肯定することは難しい。なにせ「受容したい自己」の性質があまりにネガティブで、社会適応も相当悪い。そのようなネガティブな性質を持つ自己を認めるというのは、心が受け付けてくれないだろう。無理に頑張って認めようとしたところで、すぐに「やっぱりこんなネガティブな自分なんて認められないよ」となる未来は、目に見えている。

さて、それではどのようにすれば、「心に決して受け付けられないであろう自己のネガティブな性質」を「肯定的に受容」することができるのだろう。

――その疑問に対してヒントを与えてくれるのが、祖父江典人氏の著書『対象関係論に学ぶ心理療法入門』や『公認心理師のための精神分析入門』である。以下ではこの二冊を参照して考察してみる。

ここでちょっと考えてみたい。人間たるもの、ほぼ誰でも自身の「良いところ」ばかりでなく、「嫌いなところ」や「できれば目を背けておきたい一面」、「可能であるなら改善しておきたい要素」等々も同時に心に抱えているはずである。例えば、「もう少し容姿が良ければなあ」とか、「もっと積極的に皆と関わっていければなあ」とか、「つい人に厳しくし過ぎちゃうところがあるんだよなあ」等といった側面である。恐らくほとんどの人が、そうした「できれば修正したい自己の性質」や「どちらかと言えばネガティブな性質」を抱えながら生きているはずなのである。

しかしながら、そうした自己の「負の性質」を抱えながらも、健全な人は適度な自己肯定感を有し、ある程度自分に自信を持ちつつ人と対等に関わったり、必要あらば物事にチャレンジしたりすることができる。もちろん時には失敗して一時的な自己像の悪化を招くことがあるかも知れないが、しかしそれが致命傷になることは滅多になく、時間の経過と共に再び立ち上がり前向きに生活することができるわけである。

このように、基本的に人は「悪い自己」を心に置いておきながらも、適度な自己肯定感を持ちつつ生きることができるのである。なにも心は、「ポジティブな性質以外受け付けられない」というような“度量の狭いもの”ではない。ネガティブな性質だって、健全に受け入れるキャパシティは元々持ち合わせているものなのである。

ただし、このように「自己のネガティブな性質」を心が健全に抱えられるようになるためには、条件が二つある。一つは、

(Ⅰ)その“ネガティブな性質”を抱えても、心が潰れてしまわないだけの基盤(つまり良い自己像)がきちんと整備されているか

ということである。たしかに心は「ネガティブな自己」を心に抱えることができる。しかし、それはある程度その人の心に「良い自己像」が同時に存在していて初めて可能となるものである。「良い自己像」や「自分の良い部分」が心のどこにも見当たらないまま「ネガティブな自己」ばかりを心に抱え込ませようとしても、心は悲鳴を上げ潰れてしまう。「自分の良いところ」をきちんと心が抱えているからこそ、「自分の悪いところ」も何とか抱え込むことができるようになるのである。そのため、「傷付くことを恐れて逃げまくっている自己」のような「ネガティブな性質を持つ自己」を心に受け入れられるようにするためには、それを抱え込めるだけの「自己の良い部分」を発見し心に留めていく必要がある。

さて二つ目が、

(Ⅱ)抱えようとしている“ネガティブな性質”が、救いようもないほど「ネガティブ過ぎる」ものではない

ということである。たしかに心は「ネガティブな自己」を心に健全に抱えられるだけのキャパシティを持ち合わせてはいるのだが、抱えようとするその「ネガティブな自己」の「ネガティブ度合い」があまりに強烈だと、許容量を超えて潰れてしまう。例えば、「自分の未来には何の可能性もない。そしてその現状を変えることは不可能である」というような、「取り付く島もない、ネガティブ過ぎる自己」を抱えさせようとすれば、そのものの持つありあまる負のパワーに圧倒され、機能不全を起こしてしまう。すなわち心に「自己のネガティブな性質」を健全に抱えさせるには、その抱えようとする性質の「ネガティブさの度合い」をある程度、減じておく必要があるのである。

以上、

(Ⅰ)「良い自己像」を心が抱えていること
(Ⅱ)「抱えようとしているネガティブな自己像」の威力がある程度減じられていること

の二点が達成されることで、「自己のネガティブな性質」も健全に心に抱えられるようになり、以て「自己受容」を達成することができるようになるのである。ここが重要なポイントである。

それでは実際に、
「傷付くことを恐れて人生の選択肢が狭まっている自己」
のような「ネガティブな自己の性質」を如何いかにして「肯定的に受容すれば良いのか」について、

(Ⅰ)“自分の良いところに気が付くこと”で、それを抱え込む心の基盤を強化する
(Ⅱ)「傷付くことを恐れて人生の選択肢が狭まっている自己」という響きの持つ「強烈なネガティブさ」を、心が健全に抱えられるようになるほどに軽減させる

という二つの観点から考察してみる。ちなみにこれは、なにも「回避性パーソナリティ障害」だけに特化した話ではない。もっと広く、「悪化しきった自己像の修正方法」と捉えていただいて構わない。

「自己の良いところ」に気付く方法

「自己の良いところ」に気が付き、それを心に留めておくことによって、「ネガティブな自己」も心に抱えられるだけの基盤が形成されるようになる。

ただ、「自己の良いところ」などと言うと「僕/私は運動においても勉強においても昔から劣等生で、良いところなんて何もない」とか「自分に人より秀でているものや抜きん出た才能や能力などあるわけがない」等と尻込みしてしまう方もあるだろうが、ここでいう「自己の良いところ」は、そういった「人との優劣によって決まるもの」や「目立って主張できるもの」ではなく、あくまで「その人が本来有している内的な肯定的資質」とでも考えていただけると良いと思う。例えるなら、「自分には“人の助けになりたい”という強い気持ちが存在していたんだ」とか、「自分は裏表のない性格で、それだからこそ“人間”よりも“モノ”や“自然”のようなシンプルな対象に心惹かれるんだ」とか、「それだったらモノや自然を相手にした仕事をするのが社会適応上好ましいだろう」等といった「自己の内部に眠っていた肯定的な資質への気付き」というべきものが、ここで言う「自己の良いところ」の中身である。

1.「感覚的な自己の良さ」の体験
「自己の良いところ」に気が付くための第一の方法が、「自分は何が好きか」「自分はどんなことをしているとき、心が安らぐか」等といった“自己にとってのよい体験”を通して、「自己の内部にある良い資質」を見つけ出していく、というものである。

感覚的に、「自分はこういうことが好きだな」とか「こんな過ごし方が心地よいな」といった体験をさせてくれる対象を思い付くだろうか。例えば、「自分は海を見るのが好きだな」とか、「鬼滅が面白いな」とか、「動物と過ごす時間が至福だな」等々、何でも良い。

ここで、「なぜそれを好きなのか/面白いのか/心地よいと思ったのか」ということについて考えてみたい。もちろん、「それは海や鬼滅や動物が良い/素晴らしいものだから」と、「その対象の持つ魅力」に還元させることはできる。しかしそれと同時に、「その対象の持つ魅力と繋がることのできる自己の感覚の良さ」にも同様にして、還元させることができるはずだ。

たしかに、「動物」という対象そのものには魅力があるだろう。けれどもそれと同時に、「その動物の魅力を理解し、それに惹かれ、それと触れ合うことで“心地よさ”を感じることのできる良い自己の感覚」も存在している。そうした“良き資質”がその人の内部に存在しているからこそ、動物の魅力を理解し、その触れ合いに心地よさを感じることができるのだ。その気付きこそ、「自分が本来持っている資質の良さ」の発見となる。

このように、「何か心地よい体験をすること」は、なにも「対象の良さ」だけで成り立つものではなく、同時に「その対象の良さに気付き、それを感じ取ることのできる受け手の感覚の良さ、純粋さ」があって初めて体験されるものであると分かる。

従って、まず、「自分は何が好きか」「どのようなものに心地よさを感じるか」等といった「自己にとっての良い感覚」を見出すことができたら、その「良き感覚」の由来を「“そのものの持つ魅力を理解できる自己”の良さ」に繋げていくことで、「これまで眠っていた自己の内的資質(自己の良いところの一部)」に気付くことができる。そうした気付きが、「自己に対する肯定的な感情」へと発展し、“心の基盤”の強化へと繋がっていくのである。
 

2.特定の内的感覚の裏側に潜む感覚を捉え、それを「良い自己」へと繋げる
この項では、「自己の内部に渦巻く特定の感覚(良いものとは限らない)を、どう“良い自己”へと繋げていくか」について考えていく。

当然ながら、自己の内部に存在する種々の感覚は、なにも先に挙げたような「肯定的な体験」ばかりに留まらない。先の項では「自分はこれが好き」「これが心地よい」というような「肯定的な体験」に着目し、「それを実感できる自己の良さへの気付き」を通じて、“心地よい体験”と“それを感じ取れる自己の良さ”との連結を図った。けれども現実、自己の内部にあるのはそう「肯定的な感覚」ばかりではない。例えば私の内部には、「自分は対人不安が強く、人間を恐怖している」というような「ネガティブな感覚」が強く渦巻いており、先の肯定的な感覚を圧倒してしまっている。

このような「ネガティブな感覚」をどのようにして「自己の良さ」へと繋げていけばいいだろうか。ここで突破口となるのが、「ネガティブな感覚の“裏側”に潜んでいる感覚へとアクセスすること」である。

それでは、先に挙げた「対人不安が強く、人間を恐怖している」というネガティブな感覚の裏側に隠された情動とは、一体何だろうか。…実はそれは「対象希求性」である。「人間を恐怖し、不安感を抱いている」というネガティブな感覚の裏側には、「人を求め、信じたいと願う気持ち」が潜んでいるのである。これは換言すると、「人との関わりを求めると同時に、人を信じたいという気持ちがあるけれども、どうしても“それを裏切られてしまうことへの懸念”が拭い去れず、結果的に人との関わりを恐怖し、避けてしまっている」という感覚が内面に渦巻いている、ということなのである。それこそが先に挙げたネガティブな感覚の“全体像”なのであるが、意識レベルにおいては、その一部である「対人不安が強く、人間を恐怖している」というネガティブな感覚だけが知覚されてしまっている。つまり意識レベルで知覚されていた“ネガティブな感覚”と同時にあるはずの「人を求め、信じたいと願う気持ち」は、無意識裡に隠れてしまっていたのである。

こうした、「ある感覚の裏側」に回り込んでしまった感覚に気付き、意識レベルで知覚できるようになることで、そこに存在していた“感覚の全体像”を知ることができるようになる。感覚の全体像を知ることにより、ネガティブ一色に染まっていたはずの感覚の裏側に、ポジティブな一面が存在していたことが分かることがある。

このようにして見出された「ネガティブな感覚の裏側にあるポジティブな感覚」を、「自己の持っている良さ」や「自己の可能性」へと連結させていくことによって、「自己の内部にある肯定的資質」に気が付いていくことができるようになる。先の例で言えば、「自分は対人不安から人を恐怖しているだけの人間だと思っていたけれど、実はその裏側では人と関わり、人を信じたいというポジティブな気持ちも潜んでいたのだ」というような気付きが、「自己の良さ」「自己の持つ可能性」への気付きへと繋がってくる、ということである。

※ただし、自覚された感覚の裏側にあるものが「人に対する憎しみ」等といった「良い自己との連結」の難しそうなものであった場合は、それを上手に昇華させる方法を取ることが肝要である。その方法については別途記事にしてまとめようと思っている。

 
3.見出した「良い自己」を更に展開させる
1,2の項で見出した「良い自己」への気付きは、「傷付いた自己像の修復」に繋がる。しかし、ここで見出した「良い自己」を上手に展開させることで、更なる自己像の修復、そして社会適応へと繋げられるようになる。

例えば、ある人が「誰彼構わず完全な親密さを求めてしまう」というネガティブな感覚の裏側に潜む「愛情希求」や「甘えたい願望」に気付いたとする。このような“気付き”によって得られた“新たな自己の一面”を、どのように社会の中で満たしていくか(または発揮していくか)を考え実践することが、更なる「自己像の修復」に寄与することになるのだ。この例で言えば、自己内部に見出された「甘えたい願望」をそのまま直接人に求めるのではなく、例えば「人を援助すること」や「動物をうんと可愛がること」によって満たそうとする、等というような展開を見せることで、尚「良い自己像」の強化が為されることになる。

さて、このことは同時に「職業アイデンティティ」へと発展する可能性を秘めている。「動物をうんと可愛がること」と「良い自己」との連結がされている人が、「動物を援助する職業」に就くことで社会適応は尚向上するかも知れない。そうした社会適応の向上が、また「肯定的な自己像」の強化に寄与することになるのである。

さて話を一旦整理すると、以上のように「自分の良いところ」に気が付き、それを心に留めておくことで、心の基盤が強化されることになる。心の基盤が強化されることで、「自分の嫌なところ」「自己のネガティブな性質」を健全に心に抱え、「良いところも悪いところもある自己」を肯定的に受容して生きられるようになる可能性がグッと上昇する、ということである。

「抱えようとしている自己のネガティブな性質」の持つ威力を減ずる方法

どんなに「良い自己」のイメージを強化しても、抱えようとする「自己のネガティブな性質」の威力が莫大であれば、心が潰れてしまうことになりかねない。いくら「自分にはこういう良い面がある」ことを心が分かっていても、抱えようとする性質が「自分が傷付くことを恐れるあまり、人生のあらゆる世事から逃避し、その結果、自己縮小的にしか人生を歩めない性質」のような「強烈なネガティブさ」を持っていると、心はそれを抱えることはできなくなる。

そこで、「ネガティブな性質」の威力を減じておく必要が出てくる。心が抱えられるレベルにまで、抱えようとする性質の「ネガティブさ」を緩和させるのである。

さて、どのような方法によりそれが可能となるだろうか。これには「思考の柔軟性」が求められる。具体的には、「本当にその性質にはマイナス要素しか存在しないのか?」と問い掛けてみることが効果的なのである。一見すると「ネガティブさ」しかない要素にも、どこかに「こういう点ではむしろポジティブである」といえるような一面が隠されている可能性がある。物事を考える視点に柔軟性を持たせ、そうした可能性について考えてみるのだ。

例えば、「人に頼って迷惑を掛けることは絶対に悪いことだ」とする信念について考えてみる。これに違った視点を持たせてみると、「人を頼って迷惑を掛けることは悪いことのように思われるが、しかし頼られた方は“人助けをした”ことで幾分高揚感を得られることがある。そういう点では必ずしも“悪いこと”とは断言できない」といった風に、思考の柔軟性を持たせることで「絶対こうである」とする凝り固まった考えにメスを入れることができる。実際、前者の考え方と後者のそれとでは、圧倒的に後者の方が、「人を頼って迷惑を掛けること」に対する「ネガティブさ度合い」が小さくなっていることに気が付くだろう。これが、「物事を考える際の視点に柔軟性を持たせること」の効果である。

このような要領で、心が抱えきれぬほどの強烈なネガティブさを持つ自己の性質に関しても、その威力を減じることができるのである。

ここで、「自分が傷付くことを恐れるあまり、人生のあらゆる世事から逃避し、その結果、自己縮小的にしか人生を歩めない自己の性質」という言葉の持つ強烈な負の威力を減じてみたい。果たして本当に上記の性質は、「ネガティブ一色で救いようのないもの」なのであろうか。他の可能性については言及できないだろうか。

…さて、「自分が傷付くことを恐れるあまり、人生のあらゆる世事から逃避し」という部分について考えてみる。これは裏を返せば、「自分が傷付かないことが分かっていさえすれば、問題なく色々なことができる」ということも意味している。例えば、「自分が傷付く恐れのない授業に参加するのはさほど苦にならない」とか、「自分が傷付けられる恐れのない人物とコミュニケーションを取ることに関してはあまり苦痛を感じない」、「自分が傷付けられる恐れのない、慣れ親しんだ日常の生活を送ることに関しては何ら躊躇いが生じない」等といったものがそれである。。

上記の点を考慮し、先の文言に修正を加えると
自分が傷付けられる恐れが小さければ小さいほど、行動力は上がる
ということになる。たしかに、仮に“さほど親しくない人”とコミュニケーションを取らねばならないシチュエーションに出会ったとしても、あらかじめその人と話す内容であったり、会ってからの流れであったりが概ね決まっている場合であれば、そこまで逃避願望も刺激されないはずだ。学習においても、予習のしっかりできている授業に参加する場合であれば、やはり“自身の頭の悪さを思い知らされるリスクが少なくなる”ということになるので、逃避願望は大分軽減されるはずだ。

このように、「自身が傷付くリスクをどれだけ抑えられるか」が行動する上で重要になっていることから、現実は「傷付くことが怖くて何も行動できない」わけではなく、「自分が傷付かないよう細心の注意を払えれば行動できる」と改めることができそうだ。これを更に主体的な表現に変えれば、
自分が傷付くことのないよう細心の注意を払って行動するようにしている
という言い方になる。これで随分、言葉の持つネガティブさが減じられてきたように思われる。

…こうした表現の置き換わりにより、「社会適応」の観点でも大きな改善を見せていることが分かるだろう。例えば私は冒頭で、「(私は大学院の)研究室訪問をしたくても教授と話すのが怖くて初めの一歩を踏み出せない」と書いたが、これを先ほどの「自分が傷付くことのないよう細心の注意を払って行動するようにしている」という新しい行動様式に照らし合わせて再考すれば、「教授から訪問の目的を否定されないよう、十分過ぎるほどの下調べをしさえすれば、研究室訪問に臨むことができる」というように、明らかに社会適応の向上した考え方に変わっているといえる。(※あとはその信念に従って実際の行動に移せるかが重要となる。)「自分が傷付くことを恐れて行動力が低下している」という性質は変わらないながら、そのものの持つ負の威力エナジーは、確実な低下を見せていることが分かるだろう。

これと同様にして、「人とのコミュニケーションが怖くて取れない」という弱点も、その心構えが「コミュニケーションで傷付くことがないよう、関わる相手一人ひとりを尊重する言動を心掛けている」と変化するならば、その自己像は「まともに人とコミュニケーションを取れない自己」といった“悪一色”のものから、「人とコミュニケーション取るときは発言に十分な注意を払うようにしている」といった“必ずしも『悪い』だけでは言い切れないもの”へと改善されるはずである。

このように、
自分が傷付くことを恐れるあまり、人生のあらゆる世事から逃避し、その結果、自己縮小的にしか人生を歩めない性質
という言葉の中身を柔軟フレキシブルに捉え、
私は自らが傷付くことのないよう、細心の注意を払って行動するようにしている(※ただし、それによって人生が縮小気味になっている点は否めないが)」
といった信念に捉え直すことで、自身の元々持っていたネガティブな性質の中身は変わらないにしても、そのものの持つネガティブな威力は大幅に減じられたものと考えられる。

このように、「ほどよくその威力の減じられた自己のネガティブな性質」であれば、心が潰されてしまうことなく、抱えることができるかも知れない。そのような性質を抱えられるようになった自己は、恐らくこのような考え方のもと、人生を送ることになるだろう――「私という人間は、自らが傷付くことのないよう、細心の注意を払って行動することを心掛けながら生きている人間である。そんな消極的な自己を全面的に好きにはなれないし、もしかするとこの性質のせいで、人生の中で多少の損を被ることになることがあるかも知れない。けれども、私は自身のこうした性質と共に生きていこうと思うし、それを全面的に否定しようとは思わない」――と。

最後に

あとは、本当にそのような「性質」を持ちつつも、自己を肯定的に受け入れ生きていくことができるかどうか、はたまた社会適応が可能であるかどうかを検討していく必要はあると考えている。その結論については未だ出せないが、もしこのような「ややネガティブな性質」を持ちつつも無事、社会に適応しながら生きることができるようになったなら、
自分が傷付くことを恐れすぎて随所で行動力が低下してしまうきらいはあるものの、そんな中でも自己の良い面はしっかり持っていて、それらを上手く使い分けつつ社会適応している存在
として、「ありのままの無理のない自己」を受容し、自己肯定的に生きることができるようになると考えている。

そして、そのような「自己肯定的な生き方」を手にした暁には、今よりずっと明るい人生を送れるようになっていることと思う。表題の「自分を嫌いにならない方法」の回答としては、

自分の良いところも悪いところも全部ひっくるめた上で、”ありのままの自分”を肯定的に受容できるようになること

ということになるのかなと、考えている。

人が怖いけれど、愛されたい――恐れ・回避型愛着障害の抱える闇

自分を虐めすぎた

「具体的に」思考せよ


参考文献
1)岡田尊司(2016)『生きるのが面倒くさい人 回避性パーソナリティ障害』(朝日新書)
2)岡田尊司(2014)『パーソナリティ障害がわかる本 「障害」を「個性」に変えるために』(ちくま文庫)
3)祖父江典人(2015)『対象関係論に学ぶ心理療法入門 こころを使った日常臨床のために』(誠信書房)
4)祖父江典人(2019)『公認心理師のための精神分析入門 保健医療、福祉、教育、司法・犯罪、産業・労働領域での臨床実践』(誠信書房)

2件のコメント

  1. はじめまして。
    あなたのブログを見つけてから、自分が書いたのかと思うくらいに私の考え方と似ているところがあり、他の記事も食いつくように読ませていただいております。
    「自分という人間の無条件なる肯定」のあたり、自分は居て良いのだと少しだけ思えて、勝手ながら救いのように思えました。
    勿論、どんな人間も存在を許されると頭では分かっていましたが、言語化していない領域では自分のことだけは許せずにいたのだと思いました。
    自分を受け入れるということはきっと容易にはいかないでしょうが、何もわからず怯えているよりは地道に取り組んでいこうと、久しぶりに前向きになりました。
    多くの非常にためになる情報を、このように与えてくださったことを本当にありがたく思っています。どうしても感謝を伝えたく、長文で失礼いたしました。
    どうかご自愛ください。

    1. はじめまして。コメントをくださりありがとうございます。
      自分の存在を無条件に許すことって、本当に難しいですよね。一度「自分なんて」という思考が染みついてしまうと、なかなかそれを取り去ることができない。

      ただ、これだけははっきりさせておきたいのですが、「自分は居てもよいもの」なのです。それは自明の理であり、そこに理由はや条件は必要ありません。「誰々の役に立っているから」とか、「○○な実績を持っているから」等々、そんな前提条件は要らない。ただ「居ても良いもの」です。
      本来であれば、人生のどこかのタイミングでそれを「確信」できる“きっかけ”を得られるはずなのですが、私達は(様々な事情により)それを獲得できなかった、ということなのかも知れません。

      …今後も、そんな「確信」を得るために参考になりそうな情報がありましたら随時更新していくつもりです。匿名さんもお体に気を付けてお過ごしください。

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