何かを「与えられる」人間に。

1
私は「クレクレ星人」である。「自分が何を与えられるか」ではなく、「相手から何を与えて貰えるか」ばかりを考えながら、人と関わっている。

私は、人から承認、注目、愛、理解、思い遣り、助けを求めるばかりである。一方で、自分の方から、人を承認し、注目し、愛し、理解し、思い遣り、助けよう、とする気概には大きく欠けている。

私は「人」を目の前にして、“自分は相手からどのように見えているか”、ということしか気にしない。私が目の前の人に「何を与えられるか」を考えるようなことはあまりなく、「私はこの人から認められるだろうか」「失望されないか」「私のことをどれくらい理解してくれるだろうか」「私にどれだけ構ってくれるだろうか」――といったようなことばかりを考えている。

人間関係は、もっと相互的、互恵的なものでありたい。私の方にも、「もっと目の前の人のことを理解しよう」とか、「自分のこういうところで相手に恩恵を与えられないか」等といったことを考える気持ちがあって欲しいところだ。

いつぞやの記事で、
「愛されたいのならまず、自分の方から人を愛するべし」
というようなことを書いた。
これは恐らく真であろう。けれども、このことは口で言うほど簡単なことではない。
 

2
私が「クレクレ星人」であるのはなにより、自身の「安全感の不足」に起因している。私は兎に角、様々な物事に対して「身の危険」を感じてしまう。

例えば、人とのコミュニケーション。私は「目の前の相手から拒絶されないか」を恐れるあまり、マトモに人と関わることが困難である。
また、「失敗」に対する恐れも尋常ではない。何か一つでも失敗をしてしまったら、取り返しの付かないことになってしまうのではないか、という恐れが強過ぎるあまり、不慣れな物事に取り組む際は全身が緊張により硬直し、心臓は素早く脈打ち、実に嫌な気分になる。例えば社会人時代、社外研修に参加する際のストレスは半端でなかった。その研修会場まで無事辿り着けるのか、研修に赴く服装は間違っていないか、教室を誤らないか、果たして研修の内容を理解できるか、ディスカッションに着いていけるか、変な発言をして笑われてしまわないか等々、不安とプレッシャーで潰れそうになる。兎に角ひとつでもミスをすれば「終わる」「取り返しが付かない」感覚に襲われているため、研修が終わる頃には心身共に“死に体”になっているような有様だ。

――このように、私は様々な物事に「身の危険」を感じやすいのであるが、これは「自身の安全感」が不足しているからに他ならない。私には愛着理論でいうところの「安全基地」がない。

安全基地というのは、「この世の中は自分にとって基本的に安全である」という確信となるものである。

人は生まれた瞬間は無力であるから、養育者によって「安全」を確保されなければ生きながらえない。このため、赤子は自らの「安全」を確保するため、養育者に様々なサイン(泣きetc.)を送る。養育者からそのサインに適切に応答してもらうことで、「世の中に対する安全感を得る。

はじめのうちは、養育者と物理的に近づき、癒しを得ることで「安全感」を得る。しかし次第に「そこに養育者がいなくても」安全感を抱けるようになってくる。養育者から「守られ」「安全感を保障される」という経験を何度もすることによって、子供の心の中に「安全感を保障してくれる養育者のイメージ」がつくられるようになるためだ。人はこのような「自分の安全感が十分に保障されたイメージ(=安全基地)」を心に抱くことによって、「この世の中は自分にとって基本的に安全である」という(無意識的な)確信を得ることができるのである。

一方、「安全基地」を持てないとどうなるか。残念ながら、養育者が「自身の安全感を保障してくれる存在」ではなかった場合、世の中に対する「安全感」が育まれない。助けを求めて養育者のもとに近づいた際、癒しや安心感を得られるどころか、拒絶を受けたという経験は心の傷をつくる。「自らは安全である」「守られている」という感覚が得られないばかりか、養育者のネガティブな対応から相補的に、「自分の存在は価値が無い」「自分は取るに足らない人間だ」「人は信頼ならぬものである」といった信念を抱くことにもなる。そして一度獲得した信念は、なかなか変更させことができない。

「安全基地」を持たぬまま生きることは、自らの身に危険が迫ったとき、十分に頼るものがないまま生きることを意味している。例えるなら、危機に瀕したときに「きっと大丈夫」と言ってくる人を心の中に持たないこと、と言えるだろうか。むしろ心の中では、「そのまま失敗したらどうするの」「そこで傷付いたら回復できないよ」といった声が響き渡り、過度の恐怖感が煽られるという状況になっているかも知れない。

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3
そのような「安全基地」不足にあって、
「愛されたいのならまず、自分の方から人を愛するべし」
とする言葉はあまりに重く、厳しい。

「ない」から求めているわけである。「ない」からこそ、何とか自身の安全感を確保しようと承認、注目、愛、理解、思い遣り、助けを求めるわけである。

にも関わらず、

「愛されたいのならまず、自分の方から人を愛するべし」

である。しかし多分、これは真実だ。厳しい現実だが向き合わなければならない。

これまで、何とか自身の「安全基地」を得られないものか、という視点ばかりで生きていた。
けれども、そうした視点だけでは自身の人生の満足度が「他者の反応次第」で左右されてしまうリスクを抱えることにもなる。やはり「他力かつ守り」の人間関係だけでは、生きていて苦しい。

大変で余裕がないのは承知している。が、「自分には何ができるか」「何を与えられるか」を考え、実行することで、人間関係における新たな見方が生まれると思う。もちろん良い意味で、だ。

人間関係は、もっと相互的、互恵的なものでありたい。私も人とコミュニケーションを取る際、主体的に「自分はこの人に何ができるだろうか」と考えながら関われたなら、もっと人付き合いを楽しめるようになると思うし、もっと自分に自信を持てるようになるだろうし、もっと人生の選択肢を増やすことに繋げられるだろうと思う。

言葉以上に難しいことであるから、無理をする必要はない。しかし、「自分は目の前の人に何を与えられるか」だけを考えて関わるのではなく、「自分は目の前の人から何を与えられるか」を意識しながら、主体的に関われるようになりたいと思う。

「ありのままの自分」を否定する必要はない。けれども可能であるならば、自分に魅力を付ける努力もしていくことで、人生の幅は今よりもずっと広がってくることと思う。

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