好かれなきゃいけない気持ちが強すぎて人付き合いが苦しいときは

目の前の人から必ず好かれなければいけない

と力みながら人付き合いをするのは大変苦しいものだ。なにせ人間には「相性」というものがある。気の合う人もいれば、そうでない人も勿論もちろんいる。そのような中で、「“それにも関わらず”、必ず好かれなければならない」という困難な課題に対する重責を背負ってしまうことになるのだから、当然と言えば当然だろう。

とりわけ、「自分にあまり自信のない人」がこのような思考に陥り、疲弊してしまいやすい。
自分に自信がないと、どうしても“他者からの評価”を通じて自身の魅力や存在価値を判断してしまいがちになる。そのため、その人の中で自身の魅力や価値を落とさないため、何としてでも目の前の相手から好かれよう、気に入られようと頑張りすぎてしまうことになる。そうして相手に合わせすぎ、自己を犠牲にしすぎて「自分」を見失ってしまったり、過度の緊張や消耗によって、人付き合いそのものが次第に嫌になったりしてしまう。

幸運にも、そうした「尽瘁じんすいたる努力」によってどうにか眼前の相手から好意を引き出せればまだいいものの、物事はそう上手く運んでばかりでない。時には相手から意図していた通りの反応が返ってこず、傷付き、かなり落ち込んでしまうこともあるだろう。相手からの評価が自己評価に直結してしまう傾向にある人ならば尚更だ。何しろ思っていたような反応が返ってこないことは同時に、大なり小なり自己像が傷付くことに繋がってしまうわけだから。

さて、そのような経緯で
人付き合いをする中で自己像が傷付き、気持ちが落ち込んでしまったとき
には、恋愛How-to本や就活対策本に書かれている

「どんな魅力的な人物であっても、フラれるときはフラれる」
「どんな魅力的な人物であっても、落ちるときは落ちる」

という言葉を思い出したい。もしかすると、傷付いた自己像が少しでも回復され、心が軽くなるきっかけを得られるかも知れない。

100発100中など有り得ない

恋愛How-to本や就活対策本の中において、

「どんな魅力的な人物であっても、フラれるときはフラれる」
「どんな魅力的な人物であっても、落ちるときは落ちる」

という言葉を目にしたことのある人もいるのではないだろうか。

人には多様性がある。どんなに素晴らしい人物であっても、どこかには必ず「相容れない人物」が存在する。たしかに、魅力的な人物は他者から好かれる確率が高いだろう。しかしそれも「絶対」ではない。いかに人間的に優れていようとも、相手との「相性」によってフラれるときはフラれ、落とされるときは落とされる。置かれる「環境」によって、その人の持つ魅力が好まれるかどうかも変わってくる。稀代のモテ男「平定文たいらのさだふみ」でさえ、「侍従じじゅうきみ」にフラれたのだ。「万人ウケ」というものは、実は現実的でない。

そのため、
魅力があるならば好かれる
という命題は、必ずしも成り立たないことが分かる。「万人ウケ」するというのは非常に困難なことだ。

ということはその対偶,
好かれないならば魅力がない
だって必ずしも成り立つわけではない。ここではこの事実に注目したい。

どんな美丈夫だってフラれることはあるし、どれほど有能な人物であっても不採用通知を受け取ることがある。どんなに人間性に優れた者であっても、“質の高い論文を書くこと”が正義なアカデミックの世界ではその人間性などあまり評価されないだろうし、いかなる優秀な合理的思考の持ち主であっても、共感が最も重視されるべき世界に入ってしまえば思うようには輝けない。

しかし、たとえ相性や環境の問題によって他者から評価されなかったとしても、彼ら彼女らの持つ「魅力」は不変だ。決して“好かれなかったこと”によってその人の「魅力が無くなってしまった」わけでもなければ、「元からそのような魅力は無かった」ことになるわけでもない。ただ相手との相性の問題で好かれなかったというだけの話であり、ただ置かれた環境の問題でその人の持っている魅力がその場では生かされなかっただけの話なのである。魅力は魅力、価値は価値。その質は不変である。他者からの評価によって絶対的に増減してしまうものではない。

従って、「目の前の人から好かれなかった」からと言って、「自分には魅力がないのだ」「価値が無いのだ」等と決めつける必要はない。先ほど申し上げたように、「好かれないならば魅力がない」という命題は必ずしも成り立たない。あくまで確率の問題。人から好かれなかった、気に入られなかったという理由だけで、過度に落ち込む必要などないのだ。

社会生活を送る中で、「人から好かれなかった」ことで心が傷付いてしまったときは、上の事実を思い出していただければ、少しは自己像が回復するのではないかと思う。安心して欲しい。「ただ目の前の人に好かれなかった」という一事だけで、自身の人間的魅力が増減してしまったり、価値の有無が決定されてしまったりするようなことはない。絶望してしまうことなどない。相性の合う人物や環境のもとでは、きっと持ち前の魅力を活かすことができる。

どんな魅力的な人物であっても好かれないときは好かれない
『好かれないならば魅力がない』という命題は必ずしも成立しない
という事実は、人付き合いにおける「お守り」や「心の寄辺よるべ」にもなると思っている。対人関係に伴う傷付きや落ち込み、緊張や恐怖心といったものは出来るだけ軽くできると良いなと思うし、そのための手段を複数持っておくことは、凄く有用なことだとだろうなと思っている。

 

自分を嫌いにならない方法

ヤバイ奴

変わらない優しさ

何かを「与えられる」人間に。

6件のコメント

  1. はじめまして。人ごととは思えない記事が多くて勉強になってます。
    「生きるのが面倒くさい人」もここきっかけで読みました。
    今回の記事も、尽瘁とか初めて見る言葉でした。意味を調べてしまった。
    わりと自分ごとでした。

    ただ「どんな好色だってフラれることはある」はちょっとおかしいかも。
    好色って色好みってことですよね?
    どっちかといえばわりと…フラれやすい要因の方かなと。(笑)
    それとも「容色が良い」みたいな意味での使い方もあるのかな?

    そこだけちょっと気になって、この機会にと思ってコメントしました。
    今後の記事も楽しみにしてます!

    1. はじめまして。記事を読んでくださり、またコメントもくださりありがとうございます。

      「好色」については仰る通り、「容色(容貌)のいい人」という意味で使用しました(そういう意味があるのです)。この記事では「イケメン」「美女」という表現をあまり使いたくないなあ、という意図のもとチョイスしました。
      が、確かにご指摘の通り「好色」って言ったらそちらの意味の方が強く連想されますし、文脈からして読んでいて違和感が生じますよね。
      誤解を生みかねないので、もうちょっと良い単語見つけて変更しようと思います。ありがとうございました。

      今後も頑張って更新していきますので、引き続きよろしくお願いします!

  2. お久しぶりです。共通テストということで、思い出して久しぶりにコメントさせていただきました。相変わらず仕事が大変で、浪人生が受験勉強をするように、平日は残業して徹夜して、休みの日も仕事に勤しむ日々です。受験の時は駿台に毎日通っていたのが、社会人になって会社に毎日通うことになった感じで、まだまだ働けそうと思えてきます。でも、少しは私も心理学を勉強してから、仕事のしすぎでメンタルが壊れそうになる背景がわかった気がして、働き過ぎるのも良くないと何となく思うことがあります。
    私たちの世代であれば受験してたのは共通テストの前身のセンター試験であり、然も、毛のふくろうさんと一緒で、旧課程で私もセンター試験を受けていましたね。覚えていらっしゃるかもしれませんが、現役生で受けた「おほほあはは」の国語が懐かしいです(しかし、私の場合は国語が致命的に出来なさ過ぎて国立大学入試で相当苦労したんですけどね)。そんな感じで、センター試験の問題を見返していると、受験の頃を思い出しました。黒本や青本の過去問に受けていた入試問題が載っているのを見て、ちょっと前まで医学部を受け直していたのを思うと、こんなに時間が経ったのかと思います。
    今回のエントリー、その通りと思ってまして、主観的に他人から評価されるのは難しいですね。はっきりとした評価軸があるわけでもないので、なおさらです。マネージャーくらいであれば私を評価してくれる上司もいらっしゃいますが、シニアやジュニアくらいの方からの評価が良くないのに悩んでいる感じです。もっと言うと、今の勤務先に就職できて、ある程度仕事にも満足し、勤務医より給料が高めなのはいいのですが、思っていたこととのギャップに悩んでいます。
    例えば、本当に顧客の為になる仕事ができているとは思えず、顧客に対する申し訳なさを度々実感します。詰める社風と言っても、実現不可能な計画を立てていたり、誰でも思いつく中身の無い形ばかりのプレゼンだったりで、本当に仕事なのかと思っています(私の場合は受験生や大学生の頃と変わらず詰め過ぎるタイプなので、詰めずに妥協する雰囲気があんまり合わないこともあります)。本当は時間が足りていないのが原因なので、もっと働いて徹底的に考えればいいのですが、がむしゃらに働くのを会社側に止められ、受験と比べるとまだ頑張りが足りないと思う感じです。それだけあって、今の会社で良かったのかと、ときどき後悔しています。マスコミにすれば良かったか、どちらかといえば、受験生の頃に戻りたいのなら、今からでも医者を考えようかと思えてきます(勤務医だと、今の勤務先とマスコミと給料がそこまで差がないので、あまり得策とも言えないのも事実ですが)。こんな感じで、悩んでしまいますね。

    1. お久し振りです。愚学生さんには学生の頃から休む間もなく常にアクセル全開で突き進まれている印象を受けているのですが、今も変わらずタフな生活をされていますね…。
      改めて振り返ってみると「おほほあはは」から10年近く経過しているんですね。私は共通テスト(センター)でさんざ辛酸を嘗めてきた人間なので、毎年この時期になると当時の悔しさが部分的に再燃してきて未だに結構苦しみますよ。笑

      あーお仕事に関してはそういう感じなんですね。
      何て言うんでしょう、究極的には“顧客にとって真の意味で役に立てているかどうか(要は結果を出せているかどうか)”で仕事の評価をして貰えるような組織文化なら、愚学生さんも報われそうなのにって印象を持ちます。愚学生さんは物事を完璧にこなしたいというか、徹底的にやり込んで圧倒的な結果(成果)を出したいタイプなのだろうなと思っているのですが、もしそうだとすると、中身にはある程度の妥協を許しながらそれでも体裁は綺麗に整えていくスタイルの成果物の出し方は、あまり合わないかも知れませんね…価値観的に…。ただ今の会社はお給料が良いというお話しですから、なかなか外的報酬だけで選択肢を決めるとなると二の足を踏むというか、決め手に欠けてしまうのも分かります。多分私が同じような立場に置かれたら年中無休で迷っていると思います。まあ私の場合はそうでなかったので、思い切った決断をしてしまいましたが…

  3. コメント、ありがとうございます。普段からの葛藤の上に、受験を思い出されて苦しまれておられるとのこと、心中お察しします。私自身、受験後の挫折をよく理解していると思ってまして、一緒に医学部を受け直していた先輩後輩が受験に何度も失敗し就職も不調で、毛のふくろうさんと似たり寄ったりな状況にあるのを見ており、就職に切り替えて成功した私が不平不満を思うのは、甘えかもしれないですね。恐縮ですが、毛のふくろうさんが受験で苦労していたのは覚えていましたが、センター試験が苦手だったと聞いて驚きです。受けられていた大学が大学だけに、センター試験より二次試験だったと思っていました(地帝卒の私にとってもO大学の数学には抵抗感があったと覚えいます)。
    医学部受験どころか、一般大学程度でも受験は嫌がマジョリティなのですから、私の感覚がズレているのも事実だと思います。その受験が楽しかった理由でもあるのですが、私自身、以前から結果を出したいタイプだったからだと思います。もしかしなくても、受験勉強の理系科目や大学の研究では、圧倒的な成果、アウトプットが目に見えて、楽しかったですね。これまでも、駿台全国模試で偏差値65を取る、研究で主著論文をn本パブリッシュする、一流企業に内定するなど、側から見ると尋常ではない目標を達成してきたのも、そうだと思います。なので、中身の無い小綺麗なプレゼンテーションを定時勤務で考えるのがあわないと思っていて、残業に勤しみながら事実を追求して詰めて仕事をしたいと思います(受験の時も空間図形の問題をベクトルや微積分で無理矢理解いて完答を狙うスタイルでしたね)。しかし、受験や大学と異なり、はっきりした唯一の答えがあるとも言えない仕事ですから、顧客や上司を怒らせるくらい徹底的に議論を重ねた小難しい提案より、あまり考えずに誰でも納得する中身の無いプレゼンテーションの方が評価されるのも、それはそれで仕方がないかもしれません。でも、仕事一色ではないスマートな周囲の方と言いますか、最近流行りの諦めが良い雰囲気には価値観があっていませんね(あと、国立大学医学部も普通に合格できそうなレベルの社員もそれなりにいて、努力より才能を実感します)。そんな感じで、給料に不満があるわけでも無くて、辞めたいとも思えず、なんとなく不平不満がある感じです。現実には、マスコミや医者への転職より、明確な目標はないのに社費留学するくらいしか(医学部受験と就職活動にフルコミットした結果、GPAが結構低くて心配な節もありますが)、思い切った決断が出来なそうで、本当に二の足を踏んでいる状態ですね。

    1. センターには全く良い思い出がないですね。確かに当時○大学を本気で目指していましたが、私の認知特性や知的能力からして無謀に近い挑戦だったわけです。センターにしても二次にしても大した数字を残せていません。まあ、今だからこそ言える/分かることではあるのですけれどね。
      不平不満をお持ちになることに関しては、特に“甘え”ではないと思います。人の幸不幸って、一概に相対的なもので決まるものでもないですからね。確かに愚学生さんは私らとは対照的に、賢く就職に切り替えられ成功されました(滅茶苦茶頑張られたと思います)が、そうは言っても以前誰かが言っていたように「その人にはその人なりの地獄がある」ものと私は承知しています。

      愚学生さんの出された圧倒的な成果も、「○○という目標を達成したい」という妥協なき努力に裏付けされたものですものね。仰る通り、仕事は受験や研究活動とは違って、目標が明確に「これ」と定まりにくい点もありますから難しいですよね。点数等々といった客観的指標によって一概に評価/目標設定が為されるわけでもありませんし…。なにせ「人」が大きく絡みますからね。人は合理性だけで心身共に動かされるわけでなく、感情によって大いに(しかも非合理的な方向にさえ)動かされる面も持ち合わせているので尚更です。

      そう言えば以前も留学のお話しが出ていましたね。私には一般論的なことしか言えないのですが、海外の人の価値観って日本人のそれと大きく異なっていて、関わっていて結構ギャップを感じるらしいですね。そうした「ギャップ」がこれまで囚われてきた自身の固定観念を崩壊させて、案外それによって膠着した事態が動き出すという可能性もあるにはありますよね。ただ仰る通り思い切った決断ですから、二の足を踏んでしまうお気持ちはご尤もだと思います。

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