「自分に自信を持つ方法」について考える(対象関係論の観点から)


1
「自分に自信を持つ」というのは、なにも
非の打ち所の無い完璧人間を目指していきましょう
というものではない。

完璧でない自分を愛すること、

自分の良い部分ばかりでなく、悪い部分をもひっくるめた上で、総合的に、
「自分が好き」とか
「自分の存在は価値があると思う」、あるいは、
「自分の存在に価値が無いとは思わない」
と心底から思える状態、

すなわち、
自分の存在に対し全面的に肯定感を持っている
状態の維持されていることが、「自分に自信を持つ」ということなのだ。
 

2
「私が自分に自信を持てないのは、私に人として何の取り柄も無いからだ」
と考える方もいらっしゃるかも知れないが、恐らく事実は少々、異なっている。

そもそも、「人として素晴らしい素質を持ち合わせている」にも関わらず自分に自信を持てない人は存在するし、

素質を持っているけれど、自らその価値を否定してしまう人もいる。

仮にそういった「素質」を本当に何一つ持ち合わせていなかったとしても、なにもそれだけの理由で「自分の存在価値は無い(自分に自信を持てない)」と決めつける必要など全くない、というのもまた事実ではないだろうか。

それでは、何故、
「人として素晴らしいものを持っているのに」
「わざわざ存在否定に走る必要などないのに」
自分に自信を持てない心理状態になってしまっているのか。

それは、
(Ⅰ)「自分の悪い部分」を抱えるための心の機能・器(自我)が脆弱で、
(Ⅱ)おまけに自己像そのものが損傷を受けているから
に他ならない。

「完璧超人」なんてこの世の中にそうそういない。大多数の人間は、自分の中に「良い部分」と「悪い部分」の両方を抱えている。

けれども、そんな中で「自分に自信を持てている人」というのは、「自分の中にある悪い部分」を受け入れ、その上で
「私は私を好きだ」
と言えるだけの自我の強度がある。

一方で、「自分に自信を持てずにいる人」は、「自分の中にある悪い部分」を受け入れた上で「自分を好き」になれるだけの自我強度に乏しい。

おまけに、幼少期に十分な愛情を与えられなかったことや、その後の心的外傷体験により損傷された「自己像」を抱えてしまっている。

そのため、ただでさえその脆弱さゆえアップアップしている自我で、ネガティブなイメージの自己をも抱えなければならない状態に陥ってしまう。

結果、自我が耐えきれなくなって、「自信喪失」「自己否定」の闇にはまり込んでいってしまう。

以上より「自分に自信のない人が自信を持てるようになる方法」をざっくり述べるなら、
(ⅰ)損傷した自己像を修復し、
(ⅱ)「自分の悪い部分」を受け入れられるだけの自我強化を行う(心の器を大きくする)
ということになってくるだろう。

さて、上記のメカニズムは、メラニー・クラインが発展させた「対象関係論」を取り上げることで、より詳しく理解することが出来る。

 
3
対象関係論においては、母子関係を通じて内的対象関係が形成される時期を「0歳児」としている。
また、「0歳児」の段階で母子関係の「未解決の葛藤」も形成され、潜伏化されると考える。

この「潜伏化」した「未解決の葛藤」は、その後、その人の人生における人間関係をきっかけに表面化する。

例えば、母親から拒絶されるような未解決の不安が潜伏していれば、成長してからの他者(取り分け、その人にとって重要な他者)との関係性で「拒絶される不安」が大きくなってしまい、健全な関係性を維持することが出来なくなってしまう(ex.過度に迎合してしまう、適度に甘えられなくなってしまう)等。

更にクラインは、0歳児における二つの内的世界を概念化している。一つは「妄想分裂ポジション」、もう一つは「抑うつポジション」と呼ばれる。

妄想分裂ポジション
ごく幼い乳児の頃に典型的に見られる内的世界で、「部分対象関係」を特徴としている。

すなわち、
「自分」という存在が、連続性と恒常性を持った一つの存在であるとは認識されず、
「良い自己」(欲求が満たされている自己,愛されている自己)と
「悪い自己」(欲求が満たされていない自己,拒絶されている自己)に分裂(※)している。

(※)「分裂」
「良い自己」-「悪い自己」や
「良い対象」-「悪い対象」のように、
互いに相反する二つの意識が、統合されたまま並存し、しかもこの矛盾・並存を否認している状態のこと

これは「対象」についても同様で、
「良い対象」(自分の欲求を満たしてくれる対象)と
「悪い対象」(自分の欲求を満たしてくれない対象)にやはり分裂している。

つまり、この時期の乳児にとって“母親”という存在は、
「(自分の欲求を満たしてくれた)良い母」
になったと思えば、
母親が対応を誤ったり、乳児自身が欲求不満を感じるようになったりすれば、今度は一転して、
「(自分の欲求を満たしてくれない)悪い母」として認識されてしまう。

この時期の乳児は、「たまに対応を誤ることがあるけれど、基本的に“良い母親”だった」と、母親という存在を「トータル」で評価することが出来ない。従って、この乳児には、「過度に理想化された母」か「過度に敵視された母」しか体験されない。

 
抑うつポジション
これは乳児期の終わり頃から幼い子供に見られるようになるもので、この時期に「部分対象関係」から「全体対象関係」への移行が起こる。

これまで、「過度に理想化された母」と「過度に敵視された母」に分裂していた母親(対象)は、乳児の中で次第に統合されていく。すなわち、
「自分の欲求を満たしてくれることもあればそうでないこともあるけれど、どちらの母も同じ母なのだ」
という認識が出来るようになってくる。ただそのような「移行」が確実に行われるには、乳児が母親から十分な愛情を与えられている必要がある。

この時期になると、乳児(子供)は情緒的成熟を遂げる。

「自分は母親を敵視し攻撃してしまっていたのだ」とする罪悪感や償いの念が生じることとなり、

更に、「母親には母親の都合があり、いつも自分の欲求を100%満たしてくれるわけではない」ことを理解していく。この償いの念・対象の都合への理解が、「人を思い遣る気持ち」というものに繋がっていく。

しかしながら、これらの「現実理解」は乳児(子供)にとって「心の痛み」を伴う。

自分の理想は“こう”だったけれど、現実は“こう”なんだ」という、言わば「突きつけられた現実の受容」、「理想像の崩壊」に伴い、乳児(子供)の中には「抑うつ的感情」も引き起こされる。

そのため、こうした「心の痛み」や「抑うつ的感情」を乗り越え、情緒的成熟を遂げるには、それを乗り越えるだけの心の器(自我の強度)がある程度、発達していなければならない。

だからこそ、「母親から十分な愛情を与えられること(それに伴い現れる自己信頼)」は、乳児(子供)が「部分対象関係」から「全体対象関係」へ移行する際に必要不可欠になってくるのだ。

「母からの愛」と「自己信頼」の獲得によって、心の痛みに耐え得るだけの自我強度と、良い自己像の確立が為されていく。心に「良い自己像」があるからこそ、多少の痛みで自我の壊れてしまうことがなくなるのだ。

しかしながら、それらの「愛情」、「自己信頼」が獲得されず、
乳児(子供)の自我が脆弱なまま、
且つ、良い自己像が確立されないままでいては、
到底、この「心の痛み」や「抑うつ的感情」を耐え抜き、乗り越えることは出来ない。そうすると、子供は「全体対象関係」に十分に移行することが出来ず、内的世界が(部分的に)「部分対象関係」に留まってしまうことになる。

またそれだけでなく、「愛されなかった自己」「見捨てられた自己」「拒絶されている自己」等といった「母子関係の未解決の葛藤」も潜伏化されたままになる。

結果、「情緒的成熟」が完全に行われず、認知・対人関係・自己イメージ諸々における困難を抱えやすくなる。

 
4
内的世界が「部分対象関係」に(部分的に)留まる

ということは、
「良い自己」と「悪い自己」
「良い対象」と「悪い対象」
というように、それぞれが「内的世界」において分裂してしまっている、ということだ。

おまけに「部分対象関係に留ま」らざるを得ない自我は脆弱だ。
脆弱な自我では、内的世界で分裂している「悪い自己」というものを、自身の中で抱えておくことが出来ない。

自身の抱えておけない「悪い自己」は、「投影」(※)という防衛機制によって、他者に抱えさせることになる。

(※)「投影」
自己の情動や思考を、自分でないある対象に属するものとして認知している状態のこと。

例えば、「愛されなかった自己」、すなわち「私は愛されるに値しない人間」とする「信念(悪い自己)」を持っている人がいるとする。

“この人”は、これだけの「悪い自己」を自分では抱えておけないため、その信念を他者に投影する。すると、実際は、

「私が、」私は愛されるに値しない人間(と思っている)

という感覚を自分が有しているにも関わらず、その信念が他者に「投影」されることによって、その主体は変更され、

「あなたが、(対象が、)」私を愛するに値しない人間と思っている

と、「対象に」その信念を背負わせている図に(投影している人の中では)変換されることになる。

そして、信念を投影した側は、対象の中に、
「この人は私のことを“愛されるに値しない人間”と思っている」
とする内面を見出し、それに反応することによって、自身の「未解決の葛藤」を間接的に解決しようとする。

私は、そうした(恐らく「投影」を用いているであろう)人と対峙した経験を持っている。
私の実体験を通じて、「投影」と「未解決の葛藤の間接的解決」の実際に生じる、そのメカニズムについて具体的に見ていくことにしよう。

その女性は、兎に角いつも怒っていた。
彼女と関わる人が少しでも本人の「気に障ること」を言ったりしたりすると、彼女は烈火の如く怒りだし、事態の収拾がつかなくなってしまう。それも彼女の「気に障ること」というのは、例えば「歩く速度が遅い」だとか、「私の名前を許可なく呼んだ」等の、一般的には「取るに足らない」と思われる些事ばかりだった。周りの人達は次第に彼女を遠ざけるようになっていったが、それも彼女の怒りの導火線に火を点けた。

さてその彼女は、大変「自己否定感」の強い方だった。会話をしていると時折、「私は居なくなった方が良い」とか「皆、私を要らないと思っているのでしょう」といった発言の為されたことが何度かあった。恐らく彼女は、「愛されない自己」としての「悪い自己」の感覚を、自身の内に(部分的に)抱えていたに違いない。

彼女に、彼女自身の「悪い自己(愛されない自己)」を自らの内に留め続けておけるだけの自我強度があれば、ここまで周囲の人間を振り回すことはなかっただろう。しかしながら、彼女にはそうした「悪い自己」を自身の内に留めておけるだけの自我強度はなかった。

自身の内に留めていては自我が潰れてしまう。そこで、抱えきれぬ「悪い自己」の感覚は、他者へと「投影」する。本来、
「私は、私を愛されない人間と思っている」
と解釈されるべきところを、
「あなた達は、私を愛されない人間と思っている」
といった風に、他者の内面に「悪い自己」の像を見出してしまう。

だから彼女は、些細なことで怒りを爆発させてしまうのだ。「周囲の人間は皆、私を取るに足らない人間だと思っている」と信じ切っているため、他者の一挙手一投足、その全てにおいて、自身に向けられた「拒絶」を(勝手に)感じ取ってしまう。その「拒絶」に対して、
「どうして私ばかりこんな目に遭わなければならないの!」
と抗議することによって、彼女は、自身の「未解決の葛藤(その幼少期、愛されたかったのに愛されなかった心の傷)」を、間接的に解決しようとしているのだ。

この「分裂」、「投影」の機制は、「癇癪」や「いじめ」、「引きこもり」、「拒食症」といった症状や状態の生じるメカニズムを説明する上で、一役買うこともある。

例えば、先の「彼女」の例では、「投影」という機制によって、彼女は対象の中に
「この人は私のことを“愛されるに値しない人間”と思っている」
とする「内面」を見出した。
→その内面を受けて、彼女の中で「迫害不安」が誘発されると、
→その対象に「癇癪」を起こし、対象を徹底的に攻撃。
→これにより、自身の未解決の葛藤を解決しようとした。
と説明できる。

一方で、同じ
「この人は私のことを“愛されるに値しない人間”と思っている」
とする「内面」を対象に見出したとしても、それを受けて、
→投影した本人が「迫害不安」でなく「見捨てられる不安」を感じたとすると、
→その対象に献身的に尽くすことで、対象から「見捨てられないよう」涙ぐましい努力をする
という「癇癪」とは異なった「強迫的な献身・世話」という反応によって、自身の未解決の課題を解決しようとするかも知れない。

他にも、

・自分の中にある「惨めさ」を「自分より弱い者(対象)」に投影する
→対象の中に「惨めさ」を見出す
→その「惨めな対象」をいたぶる(それによって自己の惨めさを間接的に解決しようとする)
→俗に言う「いじめ」となる

とか、

・自分の中にある「拒絶される恐怖」を「特定されぬ大勢の他者」に投影する
→対象(街行く人々)が「私を拒絶している」ように見える
→そこから逃れるように家に籠もり、自閉する
→引きこもりとなる

や、

・自分の中にある「認められない不満」を「脂肪」に投影する
→「脂肪」があるから「周囲に認められない」ように思われる
→徹底的に脂肪(自身が認められないことの象徴)を落とそうとする
→拒食症

といったように、様々な「症状」や「状態」を説明することが出来る。

 
5
さて、自己像が損傷され、上に挙げたような「分裂-投影」の機制によって生きることに困難を抱えている人というのは一定数いる。こうした人は、どのようにして自己像を修復していけばいいのだろうか。その方法を2 stepsにまとめてみた。

(1)心の体験世界を広げる
内的世界が「良い自己」と「悪い自己」に分裂している場合、自我の脆弱性ゆえ、どうしても「悪い自己」の存在が優勢になりがちだ。

例えば、
極度の対人不安を抱え、人と話すときは必ず過度に緊張し、話をした後でどっと疲れてしまう
という「主訴」のある人の場合、その内的世界では「対象から拒絶される不安」と「対象を求める気持ち」が分裂し、対象に「拒絶される不安」が投影されている可能性があるが、

このとき、
「なるほど。自己の内部にある“対象から拒絶される不安”が、自身の対人不安をこれ程までに煽っているのだな」と解釈して、

「何の根拠もないのに対象から拒絶されると考える自分は何てダメな奴なんだ」

というように、「悪い自己」ばかりが意識されてしまう傾向が高いだろう。

ただ、「悪い自己」ばかりを意識していては、
「こんな自分はダメだ」
と「自己否定」に走ることで却って自己像を傷付けてしまうか、これまでよりも更に「対象から拒絶される不安」を強化してしまうことにもなりかねない。

そこで大切になるのは、分裂しているもう片割れの「良い自己」の方に意識を積極的にフォーカスしていくことだ。

上の例で言うならば、「対人不安」を感じている裏では、「対象を求める気持ち」もまた、自身の中に存在しているのを意識的に感じるようにする。そうすることで、

「そうか。自分は人と安心した関わりを持ちたいと願っているのか」
「自分は、人と信頼関係を築きたいと望んでいるのだ」

等の「(自己像を修復しようとする)良い自己」との繋がりを感じられるようにもなってくる。

そうすることで、これまで「悪」に染まっていた心の体験世界に光が差し、同時にその世界に広がりが生まれる。
そして自身の内的世界を「複数」の視点で捉えることが出来るようになるにつけ、自己の内面は「悪」ばかりに支配されなくなってくるのだ。

これにより、内的世界は、
「自分は悪いところばかりのダメな人間である」という単一的解釈から、
「何だかんだ言って結局は自分を大切にしようとしている良い自分」や
「人と信頼ベースに繋がりたいと願望する良い自己」も同時に存在する、
「色んな部分のある自己」
の解釈へと発展していく。

(2)良い自己像の形成
これは、
(1)で見つけた「良い自己(内的世界)」の発見を通じて、アイデンティティーの芽(=「自分はこういう人間だ」といえる素のようなもの)を形成し、育てていくことを言う。

例えば、先に出した
極度の対人不安を抱え、人と話すときは必ず過度に緊張し、話をした後でどっと疲れてしまう
という主訴を持った人の例では、

「自分は人と安心した関わりを持ちたいと願っている」
「自分は人と信頼関係を築きたいと望んでいる」
といった「人と深く関わりたい自己」(=「良い自己(良い内的世界)」)の存在を仮定した。

この「人と深く関わりたい自己(気持ち)」を通じて、アイデンティティーの芽を育てていくことが、「自我強度を上げる」上で重要になるのだ。

「人と深く関わりたい自己」が存在しているなら、それを(社会的に認められる形で)どのようにその人生で活用していくのか、を検討する。

例えばそれは、対人援助や教育の場で活きてくるものかも知れないし、
日常の対人関係における「仲良くなった人とはとことん仲良くなる」、「口の堅さや仕事の正確さ等で信頼される人間となる」といった面で活かされるかも知れない。

そうした、自身の中で「見出された“良い自己”」の“昇華”先を見つけていく過程で、自我はどんどん強化されていく。

「アイデンティティーの芽と繋がった良い自己」は、自分に対する肯定的解釈をもたらしていく。その「肯定的解釈」により自我が強化される。自我が強化されれば、「自分の悪い部分」も自力で抱えられるようになってくる。

「自分の悪い部分」も抱えられるほど自我が強化されてくれば、
自分はこんな悪い部分を持っているけれど、それでも私は私が好き
と言えるような状態になってくる。と、こういうメカニズムだ。

更に、自分の中にある「悪い部分」は、以前のように自らの内面を大々的に支配するものではなくなっている。何故なら、(1)による「心の体験世界」の広がりにより、ある「悪い部分」の裏には(分裂されていたもう一つの面である)「良い部分(良い自己)」の存在のあることを、本人が感じられるようになっているからだ。

これまで“たった一つで”その内面を暗く支配していた「悪い部分」は、このとき既に
数多くの「良い部分」の中の一つ
に堕している。そうなれば、早々、悪い自己に飲み込まれてしまうこともなくなってくる。

これらの相乗効果により、
「自分に対する全面的な肯定感」
を持つことが出来たなら、「自分に自信を持つ」ことが出来るようになったと言えるだろう。

 

参考文献
祖父江典人『対象関係論に学ぶ心理療法入門』(2015) 誠信書房
岡田尊司『パーソナリティがわかる本 「障害」を「個性」に変えるために』(2014) ちくま文庫

以上、「自分に自信を持つ方法」を説明する上で必要となる理論(対象関係論の観点による)と、その理論に基づいたくだんの「方法」についてまとめた。

本当はもっともっと分かりやすくまとめたかったのだけれど、今の私の実力(理解度)ではそれが叶わず、イマイチ納得のいく記事にならなかった。記事を書いていると、本当に、
理解したはずなのに、人様に説明するとなると論理や言葉に詰まる
といった事態に遭遇することが多い。非常に、多い。そしてそうした「自分の実力を超過した記事」を書こうとすると尋常でなく疲れる。今回はどうにか記事を書ききったものの、今私は、猛烈に疲れている。

もっと学習を進めていかなければならない。けれども今はこれが限界だ。投稿ボタンを押す。この記事により、自己肯定感を得るための、何かしらのヒントを得てくれる人のいることを願いながら。

自分の考えを持っている人が好き

「自分に自信を持つ」ためには何をすべきなのか

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