包み隠さず申し上げよう。私は大の口下手なのである。
我が二十有余年の人生において、どれほど、この“口下手”という特性によって、辛酸を嘗めさせられてきたか分からない。それほど私は、自分の喋りに自信がない。
勘違いしないでいただきたいのだが、私はなにも「全く喋ることが出来ない」わけではない。
会話にも大きく分けて「聞く」か「喋るか」の二種類あるだろう。私が苦手としているのは後者、「喋る」方である。
「聞く」に関しては、どちらかと言えば得意な方だ。眼前の人が、自身の喋りたいことを喋る。それを私は、ひたすら聞く。どんな些細な話題でも、それを逃さず拾い上げ、適切にそれを広げ、適度なリアクションによって、それを盛り上げる。「他者迎合」を長年における人生の軸にしてきた私にとって、「聞く」という作業は自動化されているのだ。
誰かが言っていた。
「喋るより聞くことの方が難しい」
――嘘をつけ。そんなわけあるか。私は認めない。“聞く”なんてものは、相手が話したいと思っている話題に、こちらが聞く姿勢を示せたのなら7割は成功していると言ってよい。あとは、相手が話したいことを淀みなく話せるよう、こちらが適切にサポート出来たなら任務は遂行できたも同然だ。
問題は、「喋り」である。こちらがとにかく難しい。
「喋り」とはすなわち「話題の提供」である。それは“無から有を生み出す”錬金術の如き業にして、両者押し黙り気まずい沈黙が空間を占有し始めたその刹那、その重苦しい空気を切り裂く起死回生の一言なのである。
職場でのことである。沈黙の職員室。重く停止しかけたその分子群に、ある職員が挙動を与えた。
「あー、早くボーナス欲しいなあー」
――これである。これこそが、「話題の提供」である。この一言により、職員室を立ちこめていた重たい沈黙の空気が流動した。その場にいた職員はその一言を皮切りに、各々の意見を口にする。金額は幾らが良いとか、使途はどうするとか、そもそも○○さんにそんな趣味があったのか、等々。
話題の提供、すなわち「喋り」には場の空気を一変させる力がある。少々大袈裟に書いてしまったが、大抵の人であれば、そこまで「喋り」に対し苦手意識はないはずだ。自分の思ったことや感じたことを、気の置けない相手に向けてフランクに投げかければいいだけの話なのだから。
けれども私は、長年付き合いのある友達にさえそれが出来ない。友達同士の会話でさえその有様である。まして職場の同僚や仕事上の付き合いにおいて、私に「話題の提供」、すなわち「喋り」の役を担わせてしまったのなら、それはもうとてもとても悲惨な未来が待ち受けている。以下も職場におけるエピソードである。
「亀井さん。言い忘れてたんだけど、今から30分後に○○さんの保護者がこちらに見えるから、対応よろしくね」
「え」
――それは突然の知らせであった。残暑も消えかけ、秋を感じる日の多くなってきた10月半ば。“口下手”がウィークポイントである私に、ろくに準備時間も与えぬまま保護者対応をさせるとは何事か。このときばかりは、上司の真意を計りかねた。ちなみに“亀井”というのは私のことである。私は「亀井次郎」という名前で、複数のSNSを利用している。本ブログも例外でない。
さて、そのおおよそ30分後、予定時刻より少し遅れて、件の保護者が現れた。私は大汗しながら彼女を迎える。
「お待ちしておりました。どうぞこちらへ」
――これほど表情と言葉の合致しない「お待ちしておりました」は無かったと思う。それほど私は、精神的に追い込まれていた。
両者、相談室にて席に着く。この場合、サービス提供側がお客さんに向けて口火を切るのがセオリーだ。しかし私はどうしても、「話題の提供」が苦手なのである。何も話せないまま、時間だけが過ぎてゆく。
なに、そんなに難しい話でもない。上司からは、
「好きなように雑談をしてくれればそれでいいから」
と言われている。何でも良い。気楽に雑談をすればいいだけなのだ――分かっている。それは痛いほど分かっている。分かっているにも関わらず、私は今こうして保護者を目の前にして、何を話して良いのか全く分からない。それは30分あった猶予時間の熟考の末にも、変わらなかった。私に「話題の提供」をさせるということは、こういうことを意味する。
「・・・」
「・・・」
――気まずい沈黙が流れる。私は大いに狼狽した。何とか、現状を打開しなければ。
「えっと、」
「・・・」
「・・・」
「・・・」
「・・・○○さんですが、最近は少し調子が悪くて」
「そうですか」
――失言である。言わなくていいことである。私は自身を改めて“社会人失格”だと、心の中で責めた。
すぐさま、失言に対する挽回を試みる。
「しかし、本日はとても機嫌がよくて」
「そうですか。それはよかったです」
「ええ、本当に」
「・・・」
「・・・」
――また黙ってしまった。もうこうなってしまった私に、明るい未来は残されていなかった。
この先訪れるであろう薄暗い未来の結末から逃げるように、私は視線を中空へと逸らした。
と、その時――
「・・・最近、コロナが増えていますね」
――保護者からの助け船が出たのである。相手から「話題の提供」が為されたとなれば、次のターンは「それを聞き、適切に広げる」ことに決まっていた。そこは私の得意分野、是非ともお任せいただきたい。
もし相手側に話したいことがあるのなら、この勝負、貰ったも同然だ。私は身を乗り出して、その一言に応じる。
「そうですね!日に日に増えていますよね!やはりこうなってしまうと、○○さんも外出というのは・・・」
「・・・できないですね」
「(なるほど自粛派か。)やはりできないですよね!本来であれば、外出してやりたいこともおありだったでしょうけれど」
「そうですね。以前であれば月に二回ほどコンサートに行っていたのですが・・・」
「それもできなくなってしまった」
「ええ。今年は全く行っていません」
「以前はかなりの頻度行かれていたそうで」
「お友達を誘ってね。結構好きだったんですよ」
「それはさぞかし寂しいことでしょうね」
「ええ」
「お友達ともあまり会われなくなってしまった」
「そうなんですよ。今は専ら、自宅に一人で過ごすだけです。笑」
「“ステイホーム”なんて言われて久しいですけれど、こうも長引いてしまうと時間を持て余してしまうでしょうね」
「それもそうなのですが、最近はこんなことも始めてみまして…」
――まるで“水を得た魚”であった。
相手の“話好き”の部分に助けられたとは言え、「話題の提供」というハードルが取り払われた私は、このように滔々と流れるその場の空気を、自在に泳ぎ回れるのである。このとき私は最後まで無事、元気な魚のまま、与えられた任務を遂行したのであった。
とにかく、「話題の提供」という役割さえ回避できたのなら、このように口下手な私にも、未来が開かれてくるのである。
けれどもこの世の中には、私が「話題の提供」の役割を担わなければならないシチュエーションというものが、少なからず存在する。それは同じく“口下手同志”たる者との会話であったり、そこまで“話好き”でもない人との会話であったりと、様々である。
が、その最たるものは、私が仕事上、付き合うことになる施設利用者とのそれであろう。基本的に彼ら彼女らは、自分の言いたいことを話してくれることが多いのだけれど、そうでない人だって勿論いる。
そうした人は、職員側から「話題の提供」が為されることを期待するわけなのであるが、ここで私にとっては、実に苦しい展開が待ち受けることになる。
「――Bさん、今日の担当は亀井さんです」
ベテラン職員のこの一声に彼女は、とても不安そうな表情を浮かべる。
「大丈夫。亀井さんはとても優しい人だから」
某職員は彼女にそう念押すと、私に向けてこう耳打ちした。
「まずは彼女と沢山お喋りをして、信頼関係を築いていってください」
私はそれを了承し、彼女に向け挨拶をした。ウォーキングが好きということなので、とりあえず外へ出て一緒に歩くことにする。
さて、今回こそ私の方から「話題の提供」をしなければならない。けれども生来の“口下手”である私に、そんな芸当は出来ない。容赦なく沈黙の時間が流れ続ける。
「・・・」
「・・・」
何も言わないけれど、彼女は不満を感じているに違いない。何か喋らなければ。
私は、頭の中の“雑談”に関する知識を引っ張り出す。こう見えて私、“雑談”のノウハウだけは心得ている。沢山の本を読んでいるのだ。
そこで私はまず、「目に飛び込んでくる景色を話題にする」テクニックを使ってみることにした。しかし、いざやると決めたものの、上手くそれらが言葉にならない。自身の目に飛び込む景色を、どうにかして話題提供に繋げればならない。目に飛び込む景色、目に飛び込む景色――何か、言わなければ。何か、話題提供の手がかりは無いのか――
「――車が、走っているね」
言うに事欠いて、これである。これでは聞かれた方も応えようがない。案の定、彼女からの返答はなかった。
早くも私は窮地に追い込まれた。どうにも、私の脳内には話題がなかった。頭の中をかき回せばかき回すほど、状況は更にややこしさを極めるばかりだった。難しく考える必要のないことは、頭では分かっているのだけれど。
と、その時――
先の保護者とのシチュエーションと同様、救世主が現れたのである。私はなんと運の良い人間であろうか。
今回与えられたのは、「相手からの話題の提供」ではなく「路面に這いつくばるカタツムリ」であった。しかし、彼女との会話において、これは十分に良い話題提供の材料になりそうだと考えた私は、すぐさま路面を指さし、
「あ。カタツムリ」
と呟いた。彼女の視線はカタツムリに流れた。
さて、これで準備は整った。このカタツムリを元に、どうにか話を紡いでいけばいい。それをきっかけに会話の花を咲かせられれば、私は彼女との信頼構築に一歩前進することが出来る。理論上は、そういうことになっている。
更にそこに、思わぬ援軍が訪れた。一匹のアリが、カタツムリの周囲を闊歩し始めたのである。私は「貰った」と思った。これだけの材料があれば、幾ら口下手の私と言えど、話題の提供を試みることなど何の事はない。私は喜々として、アリとカタツムリを材料に、以下のような話を紡いでいった。
「カタツムリの周りにアリがいるでしょう。きっとこれからカタツムリに噛みついて、体内にギ酸を注入して彼を麻痺させたら、巣に持ち運ぶつもりなんだろうね」
――私にしては上出来だと思った。けれども彼女は黙っていた。一向に解凍されぬ気まずい空気。さすがの魚も、活動の低下し切った分子中を自在には泳げない。
私は完全に閉口した。いや、本当であれば今すぐにでも「開口」して話題を提供し続けていかなければならないのだけれど、自身のあまりの不甲斐なさに呆れるあまり、「閉口」せざるを得なかったのである。私達はお互い、ただただ黙っていた。
重苦しい空気が両者を包み込む中、先のベテラン職員が私達の前を通りかかった。その際、彼は足下のカタツムリとアリを発見するや否や、以下のような話を紡いでいった。
「ほーらBさん。アリさんがカタツムリさんに『遊ぼー!』って言ってるよ。あ、でもカタツムリさん無視しているね。きっと『やだよー』って言っているんだね」
それを聞いた彼女は、よく笑っていた。私に見せたことのない笑顔で、楽しそうに笑っていた。
一方で私は、唸った。なるほど、そう言えば良かったのか。
確かに、カタツムリとアリを見て“ギ酸”だの“巣に持ち運ぶ”だのと始まる人間の話を、人が「面白い」と思うはずがない。冷静になれば分かることである。これは勉強になった。今度からはそのように言うこととしよう。
結局、私はこの日、彼女と信頼関係を構築できなかった。原因は私の口下手にあった。それはその翌日、彼女の口からはっきり語られることとなる。
「この人喋らないからヤだー!」
私を指さした彼女からは、切実な訴えが読み取られた。それを受けたベテラン職員もさぞ困ったことだろう。しかしその日の担当も私となっていた。彼女には何とか、その日一日も我慢していただかなければならない。そして私は、次こそ彼女との信頼構築に向け前進をみせなければならない。
私は今度こそ、本気で「話題の提供」を行うことに決めた。昨日の教訓を活かし、いざ信頼関係の構築を試みる。
私が雑談に関する書籍を購入し読んでいるのは前述の通りだ。桐生稔著『雑談の一流、二流、三流』によると、雑談の一流は「話題を“毎日すること”から探す」とある。毎日することとはすなわち、「食べること、動くこと、働くこと、お金を使うこと、寝ること」だと本書では定義されている。
私は「話題の提供」に、これを使うことにした。
「Bさんは昨日、よく寝られたの」
「・・・うん」
「そうか。それは良かった」
「・・・」
「何時頃寝たの」
「9時」
「そうか」
「・・・昨日の夕食は何たべたの」
「・・・」
「・・・」
「・・・」
「忘れちゃった?」
「うん」
「そうか」
「今度、何か買いに行くの」
「うん」
「何買うの」
「美味しいもの」
「どこへ買いに行くのだろう」
「コンビニ」
「…うん。それはいいだろう」
――なにが「それはいいだろう」なのか自分でもよく分からないのだが、取り敢えず、先の書の言う通り、「話題を“毎日すること”から探す」ことで、「何も話すものがない」という事態は回避することができた。私が「これは使えるぞ」と思ったのは言うまでもない。ただ、沈黙を回避できた総時間が1分に満たなかったことを除けば。
そこで次に、野口敏著の『15分以上会話が誰ともとぎれない!話し方66のルール』に則り、“目の前に広がる景色”と“相手への質問”を結び付けた話題提供を試みた。これを使うことで、前日に失敗した「車が走っているね」というしょうもない一言は、「車が走っているね。ところで○○さんは車を運転されるのですか?」という「話題提供」に大変身するのである。これを使わない手はないだろう。
ただこの日はさすがに、話題を車から変更した。
私は言った。
「草が生えているね」
「・・・」
「Bさんは、草は好きなの」
「・・・」
「好きじゃない?」
「・・・うん」
「そうか」
そこで会話は終了した。会話はしたが、何も生み出さぬやり取りだった。
しかし、私は諦めなかった。その後も彼女に向け、本で得た知識を総動員して、話題を生み出し続けた。これは私自身のためでもあるのだ。どうにかして自身の全身に染みついた口下手精神を、払拭し、信頼関係を構築しなければならなかった。
「実は私は毎週、『激レアさんを連れてきた』という番組を観ているのだけどね」
「・・・」
「昨晩はあまりに眠たかったものだから、リアルタイムで観ることはしないで、録画予約だけしてベッドに潜ったのよ」
「・・・」
「でも、私がしていたのは“録画予約”ではなくて“視聴予約”だったみたいで。気持ちよく寝ていたところ、突然テレビが点灯するや否や、ご機嫌なBGMが流れ出して」
「・・・」
「思わず飛び起きてしまったよ。お蔭で今日の私は、“激レアさん”ならぬ“激ネムさん”なのさ。あはははは」
「・・・」
彼女は「で?」という表情をしていた。私は苦しかった。大抵、私の提供する話題には「オチ」がない。友達との会話でも、「で?」という表情をされることが少なくない。それがネックとなって、私の提供する会話の灯火は、盛り上がることなく自然鎮火することが殆どなのである。
「ええっと…だから、その。“激ネムさん”な私にとっては、昨日よく寝られたBさんがとても羨ましくてね。あはは」
「・・・」
――まるで手応えがなかった。何かが、おかしい。他の職員といるときは彼女も雄弁なのに。
私はきちんと、安田正著『超一流の雑談力[超・実践編]』に基づき“激ネムさん”の話を組み立てたはずであったのだが、一向に“ウケる”気配がない。
上手くやっている職員と、何が違うのだろうか。人としての親しみやすさか。確かに私は、初対面の人から「親しみにくそう」という印象を抱かれやすい人間だ。こればかりはどうしようもない。
けれども私は、自身のこの努力が、きっと彼女の心には届いているはずだと信じることにした。人間ドラマにおいて、たとえ結果は出なくても、結果を出そうと獅子奮迅に努力するその過程に心動かされるストーリーなんてものは、幾らでも見つかるはずだ。思いは伝わる。私はそれ一つに賭けることにした。いや、それに賭けるしかなかった。
――審判の時は、その翌日に訪れた。
ベテラン職員はこの日も、彼女に本日の担当職員を伝えた。
「今日の担当は亀井さんです」
――この場における彼女の反応こそ、私の「話題の提供」の努力に対する評価である。私が「喋らない人」のまま成長していないとなれば、下世話な話になってしまうが、今後の私の査定にも響く。たとえ口下手でも、それを改善しようと試みた努力と、その過程に彼女が目を向け、そこに何らかの価値を見出してくれたのなら、私も救われる。
たしかに、口下手の職員と一緒にいるのは嫌であろう。しかし、人間関係の善し悪しを決する本質は、なにも「口下手かそうでないか」ばかりに依らないないはずだ。そうだろう?人間関係の本質は、「相手に対するGIVEの精神」に大きく依存するはずだ。結果が全てではない。私は自身の口下手を正し、良好な関係を築こうと努めていた。その姿勢こそが、その過程こそが、その努力こそが、評価に値するとは思わないか?きっとそう思っているはずだ――頼むから、そう言っておくれ――。これは自身の査定のために言っているのではない。あなた自身のために、言っていることなのだよ。
「最後の審判」――いよいよその瞬間が訪れた。神より私に与えられるのは、永遠の命か、それとも地獄への片道切符か。
さあ、結果より過程に心動かされる人間ドラマの美しさを、私に見せておくれ――。
彼女はゆっくり顔を上げ、期待と不安の入り交じった表情の私を指さすと、こう主張した。
「この人喋らないからヤだー」