少年の心

少年の心を、忘れずに持っていたい。

7月某日、仕事終わりの平日。日々のルーティーンを熟(こな)した後、就寝までには幾らか時間が残っていた。そろそろ新たな記事を認(したた)めねばならぬ気がして、ひとり意気込み、パソコンの前にトンと鎮座する。電源を入れ、Wordを開く。前回更新した記事の続きを書きたいのである。

その書き出し。文章の論理構成も斟酌し、如何なる出だしならば、読みやすくなるか。頭の中で試行錯誤。けれども、ここで一難。何も思い付かぬのである。書きたい内容は、概ね定まっている。伝えんとする内容も、定まっている。しかし、それらを形にするための良い言葉が、さっぱり降りてこないのである。頭の中では、前後に必ずしも関連性の認められぬ様々の思考が、縦横無尽に飛び交っている。それら飛び交う思考の中から、指定の内容の記事を認めるに当たり適当な思考のみを抽出し、それらをきちんとした言葉に成形し文章化するためには、書き出しの一文が、その一連の作業遂行における非常に大事なモーメントとなるのだが、その書き出しの一文が、ちっとも降りてこない。苦し紛れに、一文書いては、消し、また一文書いては、消し、そのような作業を繰り返すこと3、4時間、ようやく1700文字ちょっとを唸りながら、何とか真白の画面に打ち込んで、さて、続きは明日以降の試みと、パソコンの電源落としてベッドに倒れ込み、ぐったりと就寝する。

翌日。この日も仕事終わりにパソコンを立ち上げ、続きを書くため、昨日書き残した1700字を改めて読み返す。酷い文章である。徹頭徹尾、一つも褒めるところが無い。一読して、この下地に如何なる装飾を施すれども、きっとこの文章は輝かないだろうなと思って、躊躇うことなく、昨日あれだけ苦しみ苦しみ紡ぎ上げた1700文字を、跡形もなく消去した。後悔はなかった。

それからというものの、一字も書けなくなった。書きたい内容はある。書きたいという意思もある。しかし、何故か分からないのだが、いざパソコンの前に座りキーボードに手を置くと、書き出しの一文で躓(つまづ)き、途方に暮れ、その場で深呼吸をしたり、意味もなく寝転がったり、部屋を行ったり来たりしたり、終いには適当な本など読み出したりして、一向に、一字も捗ることがなく、日が暮れてしまう。嗚呼、この、書き出しの一文さえ閃いたならば、その勢いで最後まで書き切ることが出来るのに。それが出来ぬ内は、何も進まぬ。これさえ定まれば、後は、大きな力で以て静止状態から解放された物体が、摩擦係数の減少と共により小さな力でスムーズに面を滑るようになるのと同様に、筆の進みが、随分滑らかになるものなのだが。

さて、そのような日々が実に二ヶ月弱続いたわけであるが、「前回の記事の続き」をどの様に書き上げたものかと思案に暮れている間ずっと、妙に頭を離れぬ一文があった。それが本記事冒頭に記した、「少年の心を、忘れずに持っていたい」であり、「前回の記事の続き」の更新が二ヶ月弱の間滞り、このままでは8月は一つの記事も更新できないのではないかという焦燥感に苛まれている折であったこともあって、藁にも縋る思いで、この一文を書き出しとして、思い付くまま、その先の文章を書き認めてみようと考えたわけである。故の本記事『少年の心』は勿論、前回の『底から生まれるもの2』の続きにはなっていない。今回は前回までの陰鬱な記事とは打って変わったテイストになるはずなので、所謂一つのお口直しとして、気楽に読んでいただければ幸いである。

少年の心を、忘れずに持っていたい。

7月某日、土曜日の朝。貴重な休日、特に意味も無く、通帳に記載された数字の羅列を眺める。意外と貯まっていないな、と思った。私は、これといって金のかかる趣味を持っていないのである。安月給の身といえども、もう少し持っていても良いのではないかと思われた。私には、貯金を趣味とし、通帳に書き込まれる数字の増えていくのを、ニコニコ観察せんとする夢がある。こうなれば、生活費を切り詰めようか。何となく生活費に関しては、これまであまりに余分なお金が掛かっている気がする。今度からは、余計なものは買うまい。日用品店へ行く。必要最低限のものだけを籠に入れ、レジへ向かう。そこでレジ前の棚に陳列してある、手頃な価格の、興味深いお菓子が目に入った。思わず、手に取ってしまいたくなる代物。しかし私は、決して籠に入れぬ。これは、店舗側の仕掛けた罠である。往々にしてレジ前の棚には、こうした「購入に比較的抵抗の少ない価格」の、「つい、思わず籠に入れてしまいたくなる」誘惑が陳列されているものであるが、客がうっかり手を滑らしこの誘惑をレジ打ちに渡し、それをして発光ダイオードから放出される赤色光線を浴びせられたら最後、本来ならば支払わずに済んだ百円、弐百円という財産を失うことになるのである。塵も積もれば、云々。たかが百円、弐百円と、小金を笑うこと勿れ。買ってたまるものか。籠に入れたら、負けである。節制を志す者、敵を知り己を知れば百戦危うからず、というわけのものである。その場に似合わぬ、妙な興奮で肩を怒らせたまま、日用品店を後にしようと思ったその時、ふと思い出した。柔軟剤が、そろそろ切れる頃ではなかったか。この際に買っておいた方が良かろう。闘争心剥き出しの、日用品店には明らかに馴染まぬ節制戦士は回れ右して、店内の柔軟剤置き場へ向かった。普段使用しているものと同じものを、段々になった棚から探す。様々の種類があるものである。なかなか目当てのものが見つからぬ。そのとき藪から棒に、クマの絵柄の、興味深いボトルが目に飛び込んで来た。気になってそのクマに焦点を合わせると、そこには「北欧」、「クリスタルムスク」といった消費者側の興味を引くワードが、色々書いてあった。不運にもこれらの視覚情報は、私の好奇心を煽ってしまった。

クマの絵柄、

北欧、

クリスタルムスク。

クマの絵柄、

北欧、

クリスタル、ムスク。

値段は予定していたものの大凡(おおよそ)二倍であったが、生憎(あいにく)自身の財布には、十分のお金が入っていた。こうなると、もうダメである。正直に申し上げる。私はさして柔軟剤に拘る人間でもないし、クリスタルムスクなる香りが果たしてどういったものであるか、皆目見当が付かぬ。けれども、自身の好奇心煽るこの商品を、買わないわけにはいかなかった。数分間の逡巡の末これを購入し、これにより志高き節制戦士は、日用品店にあえなく敗北した。いや、自身の内なる好奇心に、敗北した。余分の財を投入したことにより、貯金の夢が一歩遠ざかった。

しかし

自身の好奇心に従い喫した敗北であるためか、その所感は決して悪いものではなく、それどころか、寧ろ購入により清々しさを覚えた程であった。購入に踏み切らなければ、こういった類の清々しさは得られなかったであろう。ちなみに肝心の「クリスタルムスクの香り」であるが、以下に記述するイメージが適確であろう。

秋の公園、涼しげに吹く心地よい風。地面に張り付く落葉の上に、数多の小枝。その一本を拾い上げ、おもむろに、鼻に突っ込む。「ツン」、とした刺激が全身を伝わった。
――これが、クリスタルムスクの香りのイメージである。第三者は想像し辛い表現かも知れぬが、分量さえ間違えなければ、決して悪い香りではないと思っている。

その翌週。この日は某アーティストのライブへ行くため、珍しく重い腰を上げひとり外出。場所は日本橋。ライブ終わりに早めのディナーをと思い立ち、食べログ調査にて何となく気になっていたフレンチレストランにノコノコ入店した。店内は上品な雰囲気が漂っており、自らもまるでブルジョアジーの仲間入りをしたような錯覚を覚えたのも束の間、案内された席は所謂「おひとり様用」とでもいった、シケた席であった。ちくしょう、一目で、田舎から来た貧乏小市民であることを勘付かれたか。これは由々しき事態。こうなれば、一丁前にこの店のメニューの中でもより高級なものを頼んで、自身を侮る店員をして「あ、」という悔恨の一声を上げさせてやる、と、この時既に、崇高なる節制精神を愚かにも忘却し、この場では全く不要の、性来の負けん気の強さまでメラメラ湧いて出て、勢い手渡されたメニューをガバと開いて、しかしその瞬間、田舎から来た一貧乏小市民は、愕然とした。事前調査にて、この店のディナー予算を調べることを怠った罪は、どうやら重くなりそうであった。「あ、」という一声、それも、悲鳴に似た一声を上げさせられたのは、私の方であった。予算を調べぬ、浅薄な入店。何が「節制戦士」だ。お前には、まるでその才能が無い。この時にはもう、この店の比較的「高級な」品を頼み店員を平伏させる気力はすっかり霧消して、比較的お手頃の、樋口一葉を含む紙幣二枚でお釣りの来る品を追従笑いしながら注文し、料理が到着するや否や、慣れぬマナーの意識、且つは先天的な手先の不器用さ、そして不要の卑屈精神に由来した震える手つきで牛肉をつまみ、ぼそぼそと、それを口に運ぶ。ところが私のその場に居合わぬ卑屈な態度とは裏腹に、眼前の一品は口に含んだ瞬間それと分かる美味であった。たまには、こんな食事も悪くないではないか。確かに節約とはほど遠い晩餐にはなったが、非日常的な空間で、質の良い料理をひとり堪能できたことを考えると、決して損はしていないなと思った。ここで卑屈の小市民はにわかに元気を取り戻し、節制の事などてんで忘れ、寧ろ微笑を以て会計を済ませ、悠然と店を後にしたのである。金銭のことを全く忘却し、好奇心のみに突き動かされ、後先考えず弾丸のように入ったレストランを心より楽しんだこの経験は自身の中で、良い思い出として今も胸に残っている。

8月某日。その後も自身の内なる散財癖の暴走を止められず、そろそろ節制の心掛けが馬鹿らしく思えてきた折。文章作成に行き詰まった私は、『夢を叶えるゾウ』という一風変わった自己啓発本を読んでいた。お金を稼ぐ方法の一つに、人々を幸せにすることを動機とした行動を取るよう心掛けよ、とあった。全くその通りだなと思った。更に、「自分だけが幸せになりゃ良いんだ」といった自分本位の、目先の金しか見えておらぬ行動ばかりを取っていては、お金は稼げるようにはならぬ、とも書かれてあった。これも、そうかも知れないなと思った。続けて、「だから自身の給料の一割を募金箱にぶち込んで、人々の幸せに一役買え」と書かれてあった。この記述には内心、げっ、となった。なるほど、人々の幸せを願って行動する人間にお金が集まるようになるという理屈に則れば、確かに自身の募金は悩める人々を救い、ないし幸福にし、それによって何らかの作用が生じ、ゆくゆくは自身にもお金が集まってくるという論理に矛盾はない。が、何となく、賛同しかねる内容であった。いや本当のところは、その内容に自身「賛同しかね」たのではなく、「賛同することは自身にとって都合が悪かった」からこそ、敢えてその内容に「賛同しかねる」自身を無意識に自分の内に創り上げただけなのである。「募金することが自身の金稼ぎに繋がる」という記述に懐疑を覚えたから先の記述に「賛同しかね」たのではなく、「募金することで自身の懐の寂しくなるのが嫌である」からこそ、「募金することが自身の金稼ぎに繋がる」ことに対する懐疑の情を自ら敢えて創り出し、その疑いの情を根拠に、募金という行為を否定し自らの懐を守らんと試みる浅ましい魂胆を持っていただけというのが、本当のところなのである。これはアドラー心理学の教えである。実行する勇気を持て。この時ばかりは、未だ自身よく飲み込めておらぬアドラー心理学を持ち出しては募金を渋る自身を叱りつけ、会計を済ませた後は断腸の思いで、募金箱に釣り銭を捻じ込む生活を始めることになった。これもまた人々のため、そして自分のため。今後、使途明瞭の募金箱があったならば、そこにより多くの金銭を投じるつもりでいる。これにて、自身の節制生活は完全に破綻した。

上記いずれの例も大なり小なり、自身の内なる好奇心のもたらす衝動制御の失敗によるものである。私はこの類の好奇心を日頃「少年の心」と表現しているが、この少年の心に従って為す行動は、散財に繋がるものの、大抵、その結果如何に大きく左右されず、幾何かの充実感をもたらしてくれるようである。年を取るにつれ、実用性ばかりに拘っていく人生は、ちょっと退屈かも知れない。私は、この自身の内なる「少年の心」を、今後も忘れずにいたいと思っている。

先日、大学時代の友人が私の元へ来て、ドライブしようと言い出した。私はこれに応じて、運転席に乗り込んだ。友人の持ってきた車は何とMT車であった。あれ、この前のドライブではAT車に乗っていなかったか。どうやら彼は、親から買って貰ったAT車を売り払い、自分でローンを組んでまでMT車を購入したらしい。その動機は「MT車に乗りたいのだ」とする、完全なる遊び心であった。人々は言う。彼は、馬鹿であると。さすがの私も初めは苦笑したが、その心意気には幾らか共感するころもあって、二言目には「いやでもそういうところ嫌いじゃないけどね」と返した。MT車に乗る彼は心底楽しそうであった。その彼も、少年の心の持ち主である。彼には、いつまでも笑顔でいて欲しいなと心から思っている。




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