独りよがりのプレゼント

先月の、これは頭の話だったでしょうか。行きつけのスーパーマーケットにて、買い物を終えた私はレジを抜け、店の出口へ向かう途中、通路の傍らにて、何やら見慣れぬ雑誌の並んでいるのを発見し、ハタと足を止めました。雑誌の表紙には大きく「夏ギフト2019」の文字。成る程もうすぐ、お中元の時期です。私はこの時、どういうわけか己の内より湧き出でてしまった好奇心を抑えきれずに、お中元などこれまで、まるで興味も持たなかったくせして、思わずその雑誌にふっと手を伸ばし、何の計画性もなく、社宅に持ち帰ってしまったのでした。何でしょうか、自身の心の好奇心の声に素直になることは、とても心地のよいことに感じられます。好奇心と、それに伴い生ずる衝動性は、実に、麻薬のようなものであります。
社宅に着き、持ち帰った雑誌をバサリと床に置き、その前に、自身もトンと鎮座。雑誌と向き合う形。乾燥した指でそのページをパラパラとめくりますと、果物、菓子、肉、酒、そうめん、洗剤、油と、色々な商品がズラリ、その各々が自らの存在を必死の装飾をまとって主張し、お中元に、僕はどうですか、わたしはどうですか、いいえここはわたくしを、と、雑誌の紙面の所狭しと、賑やかにひしめき合っておりまして、それを見るにつけて、その自己アピールの一所懸命な姿が、どうにも愛らしく、微笑ましく、すっかりその様に心を打たれてしまった私は、不覚にも、「これらのどれか一つを、家族に贈ってみよう」などと、決意してしまったのでした。

お中元と言えば、これはもうずっと昔の話ですが、我が家には決まって、次から次へとハムばかりが届けられたものでした。恐らくは父の人脈から色々な方が贈ってくださったのでしょうが、どういうわけか、皆、示し合わせたように、ハムを贈られるのでした。お中元、お歳暮の時期、我が家には、ハムの山。従いまして、私にとって、ハムと言えば、いえ、お中元と言えば、ハム、そういう、imageが、今となってもついて回るのでした。やはりこの雑誌も、ペラペラと頁を捲っていきますと、あ、やはりあります、ハム。しかも、多種。豊富な品揃え。お値段にも幅があります。どうやらハムは、明治から昭和初期にかけて、高級品だったそうで、おまけに保存期間が長く、使いやすく、その使い道もバラエティーに富み、種類も豊富、子供から大人まで好き嫌いが少なく、幅広い年齢層の人が楽しめるといった観点から、ハムは贈り物として、非常に優れていた、その名残が、贈り物の定番と言えば、ハム、といった一つの固定観念を形成するに至った、そんな経緯があるそうです。ところが、です。ところが、どんなに素晴らしい文言を並び立てて、ハムを崇め、尊び、その価値の高さ、偉大さを幾ら訴えたところで、これは愚かな言い訳にしかなりませんけれども、ハムの山に居る者とて、ハムのその、無比なる値千金に気が付くことは、本当に、ほんとうに、至難の業なのであります。その難しさ、自身健康体の身にて、それでも己の健康を日々欠かさず有難がることの如し、または、「日々是好日」に心から気が付き、実践していくことの如し。喪って 初めて気付く 値打ちかな 人々は、恐らく殆どがそうだ。失って初めて、その価値、その存在のかけがえのなさに、気が付くのだ。失わなければ、気が付けないのだ。君も同様、ハムを失って初めて、これまでその価値に気付くことの出来なかった自身の愚かさを、あらん限り、嘆いたら良い――果たして、嘆くだろうか。私達は、実際、ハムを全て失った(消費した)際も、残念なことに、ちっとも嘆かなかった。ハムの存在の尊さに、いよいよ気が付くことが、出来ていなかった。ハムの山、乗り越えた先に、安寧の光。ハムもきっと、私達の改悛を、期待していただろうに。
「良いんですか。あの愚人どもは、貴方のお価値に全く気付いておられません」
「なに、あいつらだって、オレを失った時初めて、オレの本当の価値に気付いて呆然とするのだろうよ。それまでの辛抱さ。今は時期尚早というやつだ。オレは、奴らがオレの偉大さに気付き、けれどもその改心があまりに遅すぎた故、大いに落胆するその様子を、天界から揚々と眺めさせていただくよ。痛快なものだね。オレが生きている内から、その価値にちょっと目を付けられて、したり顔して、適当に有難がられたんじゃ、そっちの方がよっぽど救われねぇや」
などと、ハムも己の存在に対する価値に、純粋なる自信を持って豪快に笑っていただろうに、いざその、存在の失われる時が来て、蓋を開けてみると、なんと待ち受けていた光景は、消費者達の、安堵の溜息と、情け容赦のない、急速な忘却。もうこうなったら、いくらしがみつこうとしたって、ひとり、またひとりと、自らの抗議を、過去の存在の証を、問題にしなくなっていく。己の死は、人々にとり、瞬時においては確かに与えるインパクトが絶大なものとなるかも知れないが、自分の思っているよりもずっと高速に、忘却は、日常は、人々の隙間という隙間を見つけては、その間にスルリと入り込み、透明に溶け込んでゆき、もう、そうなると、挽回は難しい。この世に物理的接触を起こすことの出来なくなった以上、取り返すことは、困難を極める。世界に、自身の持つ信念を、魂の叫びを訴えたいのならば、遺したいのならば、一日でも長くこの世に留まり続け、一日でも長く、それを実行し続けることが、大切である。keep tryingの権利を手放すことは、合理的でない選択だ。強く生きる。逞しく、何度も起き上がり、訴え続ける。それだけが、私達に出来る、最大の抵抗なのである。

――えっと、何の話をしていたんだっけ。

「お中元を口実に、家族に何か贈ろう」と思い立った私は、考えました。何を贈れば、外さないだろうか。先程も申し上げましたが、雑誌には、果物、菓子、肉、酒、そうめん、洗剤、油、ハム。色々の商品が並んでいます。それら一つ一つについて、検討していきます。果物、喜んでもらえるか、微妙です。菓子、太ります。肉、その週の献立を狂わせてしまいます。そうめん、こんなにいっぱい貰っても困るでしょう。こんな会話が、聞こえてくる気がします。
「なんだ、今日もそうめんなのか」
「だってしょうがないでしょう、こんなに沢山送りつけられてきたもの、消費しないのも悪いでしょう」
これは、やめておくのが吉でしょう。続けます。洗剤、いつも使っているやつが良いでしょう。油、今オメガ6は取らない方針のようですし、オリーブオイルは先日買ったばかりのようですから、ボツ。ハム、安寧の光。このような消去法にて、答えはすぐに見つかりました。酒。これに決まっています。酒が一番、喜ばれる可能性が高いのです。というか、選択さえ間違えなければ、きっと喜ばれるはずです。私は贈る品物をこのようにして早々に「酒」と決めてしまって、問題はその種類の選択であります。如何いかんせん私はエタノールを「美味しい」と人生においてただの一度も感じたことのない人間でありまして、そのため酒に関しては全く明るくなく、大学時代、研究室の飲み会にて、酒が嫌いとはいえその場で全く飲まないのも甚だ具合が悪かったので、適当に、「ワインで乾杯。赤の次は、白だ!」などと、本当に滅茶苦茶な具合に飲んでいたところを隣の教授に「本当に適当だな…」とぼやかれたほど、酒に関しては、無知の人間なのであります。しかしその無知故、前もって家族にお中元の予告をしようものなら、
「お中元にお酒贈ろうと思うんだけど、何が良い?」
「そんなん勿体ない。無駄遣いはやめなさい」
「御意」
というやり取りになり、自身の計画が頓挫することは決まっていますから、ここは何としてでも、自分で考えなければならないわけです。ワインは、どうやら甘口だの、辛口だのと、味にも色々と大きな違いがあるそうですから、多分、好みが割れるでしょう。リスク高し、やめておくのが無難です。日本酒も然り。焼酎はあまり飲んでいないようだ。ビールでは、非日常感に欠け、贈る側としてはつまらない。ウイスキーはどうだろう。ウイスキーならば、ワインや日本酒ほど、好みも割れまい。これは私の誠勝手な偏見であり、有識者の方からは私のその浅薄な論理を大いに叱責されてしまいそうな軽率な思考なのですが、私はそういった論理、消去法によって、ウイスキーを贈ることに決めてしまったのでした。スコッチウイスキー バランタイン Aged 17 years 9500円/700 mL.値段はきっと、裏切らない。そもそも、頼まれてもしないのに、勝手に、一方的に送りつけておいて、喜んで貰えなきゃ困る、だなんて、なんという横暴、なんという、傲慢。傲慢たる者、寧ろ、迷惑がられると思え。たとえ迷惑がられても、たとえ結果的に無意味の散財になってしまったとしても、それでも笑っていられると確信出来るのであれば、送れ。と、このように自分に何度も言い聞かせ、さあ、その覚悟もどうやら出来たようなのでいよいよ送ってしまおうとしたその時――祖母が、倒れた。病状は重篤で、もう、あと何日生きられるか分からないらしい。親戚一同、てんやわんやの、大騒ぎ。私は、一時的に、お中元を自粛することにしたのでした。

しかし、祖母は医師もびっくりの見事な奇跡の回復を果たしまして、私は、一旦は断念したお中元を、どうやら送ることが出来そうだと判断し、発送を、お願いしてしまいました。配達までは7~10日掛かるとのことで、翌日から見舞いのため二日間帰省する身としては、そちらの方が好都合に思われました。
帰宅すると、憔悴しきった両親の姿がありました。片方は取り分け抑うつ状態に入っておりまして、喋っていても、生きていても良い事なんて、云々と、大変ネガティブな言動が目立ちます。心理的なアドバイスをはじめ、色々と前向きの言葉で励ましてみるも、どうにもその言葉は、届いてくれませんでした。空気が、あまりに重く、暗い。ここでふと、この雰囲気の中、無断で私の送りつけたウイスキーが届いた時のことを想像しました。このような空気にて、高値の酒が届いてしまった日には、
「あんたは、一体、何をやっているの」
と、真面目な顔して私の愚行を糾弾される情景が脳内にてありありと浮かんできて、やめておけばいいのに、その懸念から、私もうっかり、
「機嫌、悪いみたいだね」
と口を滑らせると、すぐさま
「当たり前だ。機嫌の良いバカは、どこにもいない」
と両親をして大いに呆れさせ、嗚呼、想像力が足りなかった、このタイミングで、頼まれもしない贈り物など、やめておけば良かったのだ。共感性における欠陥、想像力の、重大なる欠如。自分は人様から喜ばれる存在と信じて疑わぬ純粋なるウイスキーを挟み、両者互いに、嘆息の図。罪だ。今回の偽善は、罪になり得る。このようにして私は、己の独りよがりを呪うことになったのでした。

翌日の夕方のことでした。相変わらず実家の空気は変わらぬまま、その空気を未だ残した自宅でひとり留守番をしていると、出し抜けに、インターホンが鳴りました。宅配便か、私はこの場に住んでいるはずのない人間だが、ここに人が居るのだから、受け取らない選択肢はあるまいと、私は玄関の扉を開けました。荷物を受け取り、仰天、差出人に、自身の名。この時宅配便で届けられてきたものは、一昨日送った、自らのお中元だったのでした。随分早くに届いたものです。7~10日でお届けと、確かに伺っていたはずだが。しかも自分で送った贈り物を自分で受け取るという、大間抜けな、大失態。この冴えなさは、自身の人生の象徴。いつもこうだ。私はいつも、大事な局面で、決めきれない。今回のような、そういった不甲斐ない人生を、今後もずっと、送り続けなければならないのだ、と、大変興醒めな気持ちでその独りよがりのプレゼントを自らダイニングテーブルに放り、半ば破れかぶれに、両親の帰宅を待ちました。きっと、怒られる。いやなにも、そこまでの罪ではないよ、大丈夫だよ、そう自分に言い聞かせながら、破れかぶれに、時の過ぎるのを、待ちました。

さてその結果ですが、思わぬ展開となりました。なんと、当たったのです。私の直感が功を奏し、独りよがりのプレゼントは、結果として、家中の空気を一変させる救世主となったのでした。あの重たい空気は、今はもうありません。私の偽善は結果として、一家を覆っていた抑うつの暗雲を、吹き飛ばしたのでした。どんな慰めの言葉より、どんな励ましの言葉より、どんな優れた助言よりも、エタノールが、人を救うということもある。エタノールでないと、変えられない空気が、ある。私はそれを、学びました。今後、エタノールは一家を覆う雲を吹き飛ばすための切り札として、持っておこう、そう決めました。何にせよ、思わぬ形で窮地を救うこととなった自身の少年の心に、乾杯、そんな気持ちと共に口にしたウイスキーは、エタノールには、やはり、美味しさを、微塵も感じることが出来ませんでした。酒の味は、今後も、分からなくていい、私は今でも、そう思っています。

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