クリスマスとは、“きっかけ”だ。
クリスマスとは、“口実”だ。
魅力ある人として認められし者が恋人と待ち合わせ、楽しいひとときを過ごすための“きっかけ”だ。
家族リビングルームに集い、皆でニコニコ、チキンに齧り付くための“口実”だ。
華々しき人生を送る者が、己が人生に更なるスパイスを加えんとして、賢く利用するイベント。それが、クリスマス。
と言うことはすなわち、クリスマスとは弱肉強食の祭典だ。リア充のための祭典だ。第一象限に位置するプロットを、更に大きい正の値へ持って行くためのイベントだ。
メリークリスマス。
この挨拶は、リア充こそ良い人生を送っている事実を確認するための行為だ。転じて、陰キャラへの当て擦りだ。資本主義社会、自由恋愛主義に対する、高度の皮肉だ。我々非リア充の出来ることは、毎年飛び交うこの挨拶と共に、自然淘汰の流れに身を委ね、徐々に死期の近づくのを従順に受け入れることのみである。
果たして、そうだろうか?
クリスマスというイベントは、斯くも残酷な祭典なのだろうか。
本当にクリスマスというものは、リア充のためだけの祭典なのだろうか。
アガペーとは、プラスの人生を歩む者にばかり与えられる愛なのだろうか。
否。
実はクリスマスは、そのような無慈悲の祭典ではない。決して、リア充だけに都合良く与えられる愛ではない。断じて、ない。それでは万人に陽が昇らぬ。
クリスマス。それは、奮起の祭典である。
メリークリスマス。
これは、我々に弱肉強食への挑戦を促す、捲土重来の挨拶である。
先程、私はこう申し上げた。
「クリスマスとは、“きっかけ”だ。」
この意味を、限定し過ぎてはいけない。
クリスマスというイベントに正しい“きっかけ”さえ付与すれば、我々はこの時期にも、充分輝くことが出来る。
第三象限にある座標を、原点側の方向へ近付けて行くことが出来る。
これから私は、陰キャラ非リア充の人々に向けた、クリスマスの正しき使い方を伝授しようというわけである。クリスマスの過ごし方に、革命を。
時は一ヶ月前に遡る。私はこの頃から、毎日をつまらなく感じ始めていた。7日の内5日、それも9時間以上もの時間を労働に捧げ、帰宅したら家事をして眠る生活。味気ない日々。何だか一日9時間以上の時間を労働に捧げることが健全な生活でないように思われて、またそういった感情の表出が自身の生活の味気なさに更なる拍車を掛け、ますますつまらない気持ちであった。「働きたくない」とは思わない。しかし、起床と同時に9時間以上の労働が確約されている毎日を過ごす現実に、ほとほと嫌気が差してしまっていた。幾ら何でも働き過ぎだ。だがこれは、入社してから半年ほどの期間では覚えなかった感情である。私は、悪い意味で変わった。理由は単純。仕事が面白く感じられなくなったからである。それは何故か。仕事における、理想を現実に変える具体的手段が何も思い浮かばぬ日々を過ごしているためである。最近の私の仕事振りは、酷い。「斯くあるべきだ」とする理想論が自身の内に存在するにも関わらず、それを具体的にどの様にして実現に持って行けば良いのか分からず、まるで進歩のない日々を送り、またそんな自分を心の何処かで許容してしまっていた。これでは仕事が退屈になるのも無理はない。
現状の打開をしたい。しかしそのためには、週にたった二日の休日を、ある程度犠牲にする必要がある。私はそれを好まなかった。私には仕事を充実させることの他に、やりたいことがあったからである。その「やりたいこと」とは、ブログ記事の執筆、読書、ミックスボイスの練習、「天職の探求」という口実のネットサーフィンであった。休日はこれらの課題ばかりに着手し、仕事の課題には一切手を付けなかった。いや、実際のところ、それら仕事以外の課題に対しても、自身の思うほど尽力できてはいなかった。以て、上述した“つまらない毎日”を送る羽目になった。その結果、私はどんどんつまらない人間になっていった。
さて、そんなある日のこと。定時が迫ったため施設の戸締まりをしていると、職員室とは離れた別の部屋で、二人の上司が何かを熱く話し込んでいることに気が付いた。私が素知らぬ振りしてその部屋の戸締まりをしていると、そのうちの一人の上司に呼び止められた
「亀井さん」
「はい」
「ちょっと聞いて良い?」
「はい」
すると上司は唐突に、こう切り出した。
「亀井さんの心は、燃えていますか?」
これは原文ままである。まるで小説のような流れだ。私はドキッとした。最近の私の腐りきった内面は、こうしてちゃんと見抜かれているんだなあ、と思った。言い逃れはするまい。私は、嘘偽り無い真実を答えることにした。
「正直に言います。4月の頃と比較すると、燃えていないです。『ここはこうあるべきだよな』といった理想論は幾らでも思い付くのですが、それじゃあそれを実現するためにどういったことをしていけばいいのかという具体案が、何一つ、誇張なしに全く思い付かないんです。そういった意味で、以前より随分シラケてしまっている自分がいます。」
それから何度か会話のキャッチボールを行った。最終的に、「その悩みは何年も働いている職員ですら持つものだし、そのような言葉が出てくるということは亀井さんの心がまだ燃えている証拠だよ。その言葉が聞けて良かったよ。悩みがあったら勤続年数の長い職員に色々なことを聴いてみて、そこから自分の中の引き出しを増やしていこう」という言葉を頂き、この件は決着した。有り難いことだな、と心から思った。
しかし私は、知っている。このやり取りに満足し、「ああ、私はまだ大丈夫だ」などと安堵し、その先改善に向け何の手も打たないでいたのでは、事態は何も変わらない。このままでは、私はただの口だけ立派の無力かつ無気力人間のままだ。私は、昔からそうだ。口だけは立派なのだ。その反面、その立派な口の割には実行力が皆無なのである。そんな自分が、つくづく嫌である。
いや、「嫌だ」、「嫌だ」と口では言いつつ、内心では「そんな(自身は口だけ立派な人間であることを自覚している)自分を嫌いでない」と考え、裏でひとりほくそ笑んでいる自分が確かに存在しているのだから、尚更たちが悪い。私の言葉の裏には、大なり小なり自惚れ、ナルシシズムといった自己愛が潜んでいる。自虐の言の裏には、きっと、私にとって不都合とならない何らかの計算が隠されている。自分自身にさえ、油断がならない。自惚れるな!今のお前はどう考えたって無力だ。口ばかりでなく、手を動かせ。口を動かすために頭を働かせるのではなく、手を動かすために頭を働かせろ!
そんな折に訪れた、メリークリスマス。私はこれを“きっかけ”として有効活用することにした。口先ばかりで何の成長も期待出来ぬ自身に奮起を促す“きっかけ”。無気力化した自身に対する、愛の鞭。不甲斐なき自身の奮起には、劣等感を利用しろ。敢えて人生充実したる人々の集う空間に身を投じ、それら人々と自身との間で容赦ない比較検討を重ね、その場より湧き出る劣等感を自己研鑽のエネルギーに変換し、従来の腐りきった根性、生活を改めるのだ。このまま朽ち果ててたまるか。
2018年12月22日、土曜日。この日は前日の会社の飲み会の影響で4時間半しか睡眠の取れておらぬバッドコンディションであったが、重い腰を上げ外へ出ることにした。24日は勤務であるため、その前日の23日はどうしても体力回復日に充てたかった。ゆえに22日の出陣。向かう先は東京駅。丸の内イルミネーションを見物し、KITTEガーデンで東京の夜景を観、丸善丸の内本店で仕事に関連する参考書を買って帰るという流れであった。
電車に揺られ、数十分。東京駅へ降り立った。丸の内方面を目指すも、その道中で空腹を覚えた。前日の飲み会による体調不良により、朝昼と殆ど何も食べずにここへ来たツケが回ってきた。しまった。この時期どこも空いていないのでは。予想に反して、空いているレストランがあった。躊躇わずそこに入った。入った瞬間、ここが空いていたのは大概の席が予約で埋まっているためであることが分かった。
「お一人様ですか」
「はい」
「19時から予約の入っている席ですが宜しいですか」
その言葉と共に通された席は、角に位置する二人席。躊躇せずその片側に腰掛ける。可哀想?まさか。こんなところで音を上げるようでは、二流である。気を確かに持つことが肝要だ。卑屈になってはいけない。
何も考えずにスペイン産赤豚を注文した。デリシャス。時計を見ながら律儀に予定時刻の10分前に食事を終え、颯爽と会計を済ました。そこで貰ったレシートを見て、初めてここはピザが自慢のお店であることを知った。I messed up.
東京駅を出て、勇み足で丸の内イルミネーションを観に行った。独りで歩くには、1.2 kmもの道のりは長く感じた。道行く人々に目を向ける。家族、夫婦、カップル、友達グループ、団体観光客、写真家、仕事帰りのリーマン、そして私のように独りで歩いている者。沢山いた。その中でも、取り分け幸せそうな人々に意識をフォーカスさせ、東京の街をひとり歩く自分自身と比較させる――ダメだ。思っていた以上に、劣等感の表出に乏しい。昨日の飲み会の影響で、頭がぼーっとしているためだろう。正常な感情の表出が妨げられている。これでは「奮起を促す」だけのエネルギーが得られぬ。少々シラケた心持ちでこの場を後にする。
KITTEガーデンへ向かう。ビルに入り、ツリーのライトアップを拝見する。意外と独りで見物している人もいて、ここでも上手に劣等感を表出させることは出来なかった。
その後、KITTEガーデンへ。高所より、東京駅の夜景を堪能する。
良い雰囲気のカップルが沢山いた。自我を有する一個人に愛され、認められ、互いにその事実を確認し合う男女のペア。カップルとは、神聖なものだ。承認される幸せを、知っている。人間としての、大きな幸福を、実感を以て知っている。対極にある私。徹底した分析、比較、検討で自身に発破を掛けるも――うーん、何故だろう。ここでも、思っていた程の劣等感の表出は得られぬ。昨日の飲み会ゆえ、ぼーっとしている頭を立て直すことが出来ていないためか。神経伝達物質の働きが低下し、正常な感覚が随分麻痺しているようだ。
非常にシラケた気持ちで東京駅を望める綺麗な景色を写真に収め、その場を後にした。クリスマスイベントを堪能する人々を目にすることで得られる劣等感と、それに伴い表出する反骨精神、熱情、自身に対する激励の気持ちをこの場で感じ取ることは、自身の予想に反して適わなかった。何だか残念な気持ちであった。
このようにして、私のクリスマスは終わった。丸善丸の内本店で仕事に関連する、現状打開へのヒントをくれそうな書籍を三冊と小説を購入し、東京駅を後にした。総額は一万円を超えた。手元に残ったのは本だけか。馬鹿馬鹿しいことに時間を費やしてしまったものだ。
翌朝。起床と同時に、前夜観たイルミネーションのぼやけた映像が脳内を巡っていた。体が怠い。前々日の飲み会により、サーカディアンリズムが大きく狂い、自律神経が乱れに乱れてしまったせいであろう。通常であれば、ぼーっとした頭を上手く操縦できずにぐだぐだと、ネットサーフィンや長時間の昼寝といった無駄な一日を過ごしてしまう程の体調であった。
ところが
この日は違った。ベッドの脇には総額一万超えの本の小山。調子が悪いながらもその一冊に手を伸ばし、読み進めた。これが何か仕事を充実させるヒントになってくれれば――そんな気持ちを込めながら。
きりのいいところまで読み進めた後本を閉じ、以降はブログ記事の執筆に充てた。これはこれで大きな進歩であった。この体調にしてここまで前進できたのは、根底にある「このままでいいのかよ。いいわけないだろう」という内面の、自身へ贈る激励の気持ちのお蔭である。そしてこの激励の気持ちを起こしてくれたのは、きっと、昨日の不調の体に鞭打ってクリスマスに彩られた東京駅周辺を観光し、それを楽しむ人々を目にしたことにより表出した劣等感と、それに基づく反骨精神である。間違いない。まさかあれほどの光景を目にしておきながら、何もコンプレックスを感じないわけがないだろう。実感は伴わなくとも、じわりじわりと、自身の内に浸透しているはずである。この日の自身の行動は、その証明だ。コンプレックスに対する反発心は、斯くも行動を駆り立てる。
私は、人が行動を起こす一つの動機として、自身の劣等感やコンプレックスを根底とする「反骨精神」があると考えている。この反骨精神を適度に表出させることで、人は時に、自己研鑽へのモチベーションを維持させることが出来る。その反骨精神を上手に湧き起こす“きっかけ”として、クリスマスを利用し、一回り大きな人間に成長する。そんな人間が少しくらい存在していたって、いいではないか。
クリスマスとは、「奮起の祭典」である。
そんな気持ちで充実したクリスマスの送れる人が一人でも増えることを願いつつ、
メリー、クリスマス。
未来記事予告
『2018年更新記事総括』12/29~12/31公開予定
※今年更新した記事作成の動機について述べてゆきます。
『愛とは何か』1/4~1/6公開予定
※福祉の仕事に従事して、思ったことを書いてゆきます。
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