再起




Something was wrong with my whole way of life.
――Rollo May

私は、間違っていたのだと思う。私には、努力が足りなかったのだと思う。私が自分に自信を持てるようになるためには、少なくとも、このままではいけないのだと思う。

何から話せば良いのか、分からない。取り敢えず、時系列で話を進めるのが無難だろうか。

4月9日のことである。

出勤前。同じ部署の職員全員が一箇所に集められて、管理職から、今後の会社の運営方針について説明があった。無論、猛威を振るう新型コロナウイルスの蔓延と、7日に出された緊急事態宣言を受けてのものである。

色々と厳しい内容が伝えられたのだが、最終的には、
「皆で一致団結して、この危機を乗り越えていきましょう」
ということで緊急集会は閉じた。私はそのまま、仕事場へと自転車を走らせたのであった。

自転車を走らせている道中、私の心は暗かった。ああ、この国難において、皆で一致団結をしていかなければならない中にあっても、やれ「自分の価値」だの、やれ「自己否定感」だのといったものに振り回され続けている自分は何と情けないのだろう、といった感情で一杯になっていたのである。正直、このまま仕事場へ向かうのでなく、家に帰って寝込んでしまいたい気分であった。

しかしながら職場に到着すれば、甘えは許されない。仕事場の職員は私ひとりだけである。私が頑張らなくては、職場が崩壊する。空元気で必死に取り掛かった。案外、適度な「甘えの許されない環境」というのは、人が健全に生きていく上で必要なものなのかも知れない。

施設内の消毒を終え仕事が落ち着いた。それと同時に、物凄い「孤独感」に襲われた。私は居ても立ってもいられなくなり、検索窓に「謎の孤独感」の文字を叩いた。

色々と調べていく内に、やはり、孤独感や疎外感の原因は己の「自尊心の低さ」にあるようだということが分かってきた。そこでもう少し、深めてみる。

すると、こんなページに行き着いた。

動かなければ得られない:低い自尊心から自分を解放する方法

記事のタイトルを見ただけで、「ここには何か、自分に必要な情報がある」気がした。

ざっくり言うと、そこには

「自分を愛せるようになるような行動を取れ。低い自尊心に振り回されて、自分にダメ出ししたくなるような行動を慎め」

と書いてあった。私はこれまで、この類の主張を何度も目にしてきたはずだったが、ここに来てようやく、その言葉の本質が胸に届いた気がした。私は今や、行動を起こさねばならぬフェーズに来ているのだと思った。

「自分を愛せるような行動を起こさねば、自尊心の向上、自己肯定感の回復はない」

――その本質を知った私の胸の内には、様々な反省が溢れ出す。

今の私は実際のところ、コンプレックスの塊のような人間なのである。頭が良くありたいのに、頭があまり良くない。本を読んでも内容をすぐに忘却する。心理学の勉強をしようと思っても一年以上殆ど手を付けられなかった意志の弱さや、人に熱く語れる趣味がないこと、英語ができないこと等々。挙げればキリがない。実はもっと大きなコンプレックスだってある。

そうして、それらのコンプレックスを抱えたまま、周囲の友人と自分とを比較しては、劣等感を抱いてきた。自分の中身の無さに、辟易としてきた。

自らの力で月に何十万もの稼ぎを出している友人A
自分の描いた絵をSNSに投稿して、少なからぬファンを獲得している友人B
車についてなら何時間でも語れる友人C
筋トレ、健康、科学の知識ではそこらの人に負けない友人D

等々、私の周囲の友人は、何らかの“見える魅力”を持っている。
一方で私は、これと言って語れるものがない。こんな私であっても、ここ半年以上は、精神分析学を基礎とした、人の自己否定感のメカニズムについて文庫本で勉強してきたつもりであった。

が、先日、両親に

「精神分析って何?」

と問われた際、驚くことに、全く答えられなかったことがあった。自分でも「嘘だろ」と思いたいのだが、本当にちっとも、答えられなかったのである。あれほど本を読み漁って、色々な知識を習得したつもりでいたのだけれど、結局は、勉強していた“つもり”になっていただけだというのを思い知らされて、その日は冷や汗が出てしまったし、夜は悔しさでなかなか寝付かれなかった。これでは、「精神分析を知っています」とは口が裂けても言えない。このような有様では、私には自信を持って「これ」と言える魅力が無いというセルフイメージを持ってしまうのも、無理はないわけである。

「人は人と比較をしてしまう生き物だ」などと言うが、実際、それによって人が重度のコンプレックスを抱えてしまうような場合では、以下のようなことが言える。

人と自分とを比較するから劣等感やコンプレックスを感じるのではない。自分に劣等感があるから、何かにつけて、人と自分とを比較してしまうのである。

つまり私は、自分に劣等感があるから、人と自分とを何かと比較して、更に劣等感を覚えていたわけである。

いや、そんなことは知っていた。ここでの議論はそこではない。これまでの私は、それらの劣等感、コンプレックスを抱えた自分も「かけがえのない自分」として、丸ごと愛そうと努めていた。それはもう必死だった。己の内から劣等感が湧き起こるたびに、理性の声によって、

「私はくだらない人間ではない」

と言い聞かせ続けてきた。私には何らかの魅力がある。その“何らかの魅力”を心より愛することができたのなら、自然と劣等感は消えていき、自分を心から愛せるようになっていくと思っていた。

しかし、それがどうしても叶わない。

『私がブログを書く理由』でも懺悔したが、私の深層心理には、どうしても

「私は、くだらない人間である」

という意識が根付いている。この意識がある限り、自分を愛することはできない。そして人を信じることもできない。だから私は

「きっといつか、人は私に愛想を尽かす」

という誤った思考を頭から引っ剥がせないのである。自分が自分を愛せるようになれさえすれば、コンプレックスの問題も、劣等感の問題も、他者信頼の問題も、何もかも解決するはずなのである。しかし、どうしても、自分を愛することができなかった。

けれどもそれは、自身の“行動”にあったのだと、例のページによって教えられた。私には、厳しい言い方をすれば、まだ努力が足りていなかったのである。

何の努力か?

自分を愛するための、努力である。

じゃあ、自分を愛するためには何の努力が必要なのか?

それは“行動”である。それも、自分を愛せるような、自己肯定感を高められるような前向きな“行動”を、勇気を出して行うことである。

精神科医のジョージ・ウェインバーグは

「行動は背後にある動機となった考え方を強化する」

と言ったそうである。

自分を愛するためには、きっと、「あるがままの、今の自分を丸ごと愛そうとする」だけでは不足があるのだろう。自尊心が低い、自己肯定感が低い人は、数多の選択肢の中から、どうしても卑屈な行動を選択してしまうものである。そうして、自分の実力以下の結果に甘んじてしまう。

そうした卑屈な行動の選択が、ますますその人の自尊心、自己肯定感を低下させているのである。ますます、自分を愛することから遠ざけてしまっているのである。

だから、

自分を愛するためには、

勇気を出して、
思い切って、

自分の欲求に忠実な行動を選択し続けることが必要なのである。ただ頭の中で考えているだけではいけない。

私の場合は、コンプレックスの解消に向けた、努力をしなければならないのである。

確かに、私は頭が良くない。本を幾ら読んだって、内容がなかなか頭に入って来ない。そんな調子だから、心理学の勉強だってやる気が出ない。けれども、“頭の悪さ”を理由に延々と「自分の欲求」「自分の理想とする姿」の実現を諦めていたのでは、自尊心は高まらないのである。

頭が良くないなら、良くないなりの戦い方というものがある。知覚統合が低い人は、低い人なりの戦い方がある。確かに、ハンディキャップは間違いなくある。けれども、それをカバーしてきた過去が私にはあった。必死に努力をして時間を掛けて、努力の方向さえ間違えなければ、“人並み”くらいにはなれるだろう。いやそれ以上だって望めるかも分からない。

本当に自分がそれを望むのなら、逃げてばかりいないで挑戦することが必要なのである。その
「挑戦」
ないし
「挑戦したという事実」が、自尊心の向上に一役買うのである。この論理はどうにも正しいもののような気がしてならない。

今となってはその面影がなくなってしまったが、元々私は、努力の人であった。ウサギとカメで言うところの「カメ」の人であった。努力に努力を重ねて、元来の私の実力からは考えられぬ場所まで到達した人間である。

しかし大学受験で思うような結果を出せず、自身の精神的未熟さも相俟って、ドン底まで腐ってしまった。おまけに努力の方向を誤ってしまったせいで、当時、私は身分不相応の不適当な環境に身を置いてしまっていた。結果、対処すべき眼前の問題があまりに多過ぎて、どうにか炎を鎮火した頃には燃え尽きてしまった感があった。

その燃え尽き感から派生したニヒリズムに自身を寄りかからせながら、自身の欲求に「どうせ自分には無理だから」と言い訳して、目を背け続けてきた。

そんな状態で自分を愛そうとしたって、無理な話なのである。

自分を愛すること
自己肯定感を高めること
自尊心を向上させること

――自身の欲求を叶える努力というものが、これらの実現に繋がるのである。「自尊心が高まってから勉強をする」のではない。「自尊心を高めるために、勉強をする」のである。

同時に、これまで本ブログで警告してきたように、その欲求を叶える行為がカレン・ホルナイの言う「神経症的解決」になってしまってはいけない。

私の場合は、「頭があまり良くない」というコンプレックス解消のために、今から受験勉強をして偏差値の高い大学の入学を目指すような解決や、

「金の亡者」になって、お金の力で人から尊敬を得ることによって、自身の「頭の悪さ」を掻き消そうとするような解決を目指してしまってはいけない。

ただ、
「心理学を勉強したい」
「英語ができるようになりたい」
「本で読んだ内容を頭に残しておきたい」
といった欲求を叶えることによる、正しい解消を試みる必要がある。ここは、間違えてはいけない。ここを間違うと、必死の努力も結果的に「誤った努力」になってしまう。結果、身分不相応の不適切な環境に身を置くことになり、破滅の道を行くことになる。そこは肝に銘じておくべきである。本来の目的から逸脱することはあってはならない。

そして何より、大事なのは「結果」ではなくて「過程」である。ここも強調しておかねばなるまい。

「結果」を求めるのは大いに結構だし、やるからには結果は求めなければならぬのだが、努力の先に思うような「結果」が待っていなかったからと言って、ヤケになっていたのではそれは努力の仕方…というか、努力する際の心構えが誤っていると言わざるを得ないだろう。つまり、正しい努力になっていなかったということである。

自己肯定感を高めるためにする努力について言えば、結果なんてものは、さほど重要でないのである。最も重要なのは、

「自分は自分の人生を最高のものにしようと、全力を尽くしている」

という事実・過程にあるのである。全力で自分の人生をより良くしようと、一生懸命、日常生活を送っているという過程・事実が、自己肯定感、自尊心の向上を促すのである。

「自身の日常生活にやましさがない」

という実感こそ、自己肯定感、自尊心の向上に大切になるのである。
勿論、「結果」を必死に求める姿勢が「全力の努力」というところに繋がってはくるのだが、仮に全力を尽くして「結果」が伴わなくても、それまでの必死の「過程」の方に自信を持つことができるようなマインドを持てているか、都度、反省することが大切だろう。今の私は、大学生の頃のような精神未熟さはないはずである。きっと、この点に関しては大丈夫なはずだ。

先のページにも、以下のようにある。

自信なんてものは、そう簡単にもてるものじゃない。簡単に切り替えたり、すぐに覚えられる単純なものでもないし、外部からどうこうできるものでもない。あくまでじっくり時間をかけて育み、自分自身を心から信頼する内面的な問題なのだ。そこで初めて自尊心というものは生まれる。

原文にも

It(=confidence ※筆者註) is an internal belief about yourself that must be cultivated over time. That begins with your self-esteem.

(中略)

(self-esteemについて ※筆者註)
In other words, do you love who you are? Do you trust in yourself? Do you prioritize your needs? Do you invest in yourself regularly? Do you respect your opinions? Are you congruent with your values and principles?

とあった。自信は、時間を掛けて自己投資することによって、次第に付いていくものなのである。

自信なんてものは一朝一夕に付くものではないし、すぐに付いてくるような“真の自信”など、無いと思っている。けれども、こうした自助努力によって、時間が掛かっても自分に対する自信を付けることができるのならば、それはとても素敵なことだと思うし、その事実が私達に大きな希望を与えてくれるものだと感じる。

そして、私が自分の身を以てそれを証明することができれば良いなと思っている。今、私が置かれているのは行動のフェーズ。それを頭に留め実行することで、再起を図っていきたい。




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