陰キャラが親睦会を乗り切るために必要な心掛け




親睦会。取り分け、「陽キャラ」と称される人々や、“並”程度のコミュニケーション能力を有する人々がボリューム層となっている親睦会。
残念ながら「陰キャラ」なる者にとって、それは必ずしも「親睦会」とはなり得ない。個人的には「親睦会」なるものは、自身の「化けの皮が剥がれる会」だと思っている。

陰キャラは陰キャラなりに頑張っている。
何を頑張っているのか?
本当は社交性が皆無に近いのだけれど、
「まるでそうではない」
かのように振る舞うことを、頑張っている。

その努力の甲斐あって、所属するコミュニティ内では
「印象ほど、コミュニケーションの取れない人ではない」
とか
「意外と、面白いことの言える人だ」
とか
「喋ってみると、そこそこ会話を継続できる人だ」
といった評価を得ている。それはそれは苦心して、得ている。

その努力が水泡に帰するのが、親睦会という名の「化けの皮が剥がされる会」である。その場で我々は、自身の“異端性”を身に沁みて実感することとなる。

親睦会。始まる前から「辛酸を嘗める」ことになることは分かっている。
トークが上手く、人の輪にいるのが好きな人達がワイワイと楽しんでいる姿を見るにつけ、それができない自分に劣等感を抱くことになるのは間違いない。自分もああいう人間に生まれていれば…などと考えて憂鬱になることはほぼ確定している。

しかし――

きっと自分のように、周囲と馴染めず、苦い思いをしている人間だっているはず。そういった人達がいたら、「なぁんだ。馴染めていないのは自分一人じゃないんだ。そこまで自分を追い詰める必要はないんだ」と自分を慰めていれば、どうにかその場をやり過ごすことができるだろう、などと、高をくくる。

しかし・・・

陽キャラは当然のこととして、これまで、我々の仲間だと思っていた「コミュニケーション能力のそこまで高くないであろうと踏んでいた人々」も、何だか人々の大きな輪を作って、ワイワイやっている。そうしてその表情はどこか楽しげである。

一方で、自分だけが浮いている。自分だけが、親睦会の被害者になっている。

会の終わりに、
「今日は楽しかったね!」
と言われ、
即座に
「楽しかった!」
と返さなければならぬところを、どうしても自分に嘘を付けず、
「あはは」
と乾いた返答しかできないほどに、参ってしまっている。心は劣等感で傷だらけ。その日は寂しい気持ちで一杯になる。

そうして、家に帰って反省会。
意外と、自分が思っているよりも皆、社交性を有しているのだなぁ。
どうして自分は最低限の社交性さえ、ないのだろう。
あの人、こんな自分にわざわざ話し掛けに来てくれたな。私のせいで気を使わせてしまったな。

皮肉にも、こちらの“会”は一人で大盛り上がりである。
そうして、ある一つの現実に落胆する。

ああ、自分が“根暗のド陰キャ”であることが皆にバレてしまったな――。
「化けの皮が剥がされる会」の所以である。

このような経験をして、親睦会を初めとする様々な“社交の場”にますます苦手意識を覚えてしまう人は、実は少なくないのではないかと考える。

さて、そのような人達は一体、どのような心持ちでそういった“社交の場”と対峙すれば、最小限のストレスでその場を乗り切ることができるのであろうか。
ここでは、「コツコツと社交性を身につける努力をする」以外の、明日からでも実践できる「心の持ち方」について考えてみる。

そもそも、親睦会で必要以上のダメージを負ってしまうのは、自身がその場に馴染めぬことに対する劣等感から来ていることが多いと思う。

トークの上手い盛り上げ上手の人が多くの人を引き連れてワイワイやっている姿

普段は目立たない人が意外なコミュニケーション能力を発揮して、人々との親睦を更に深めている姿

トークが上手くなくても、複数人の会話の輪に入り、楽しくお喋りをするくらいのことはそつなくこなせている人
と、
それらが一切できていない自分自身
を比較して、自身の劣等性を感じる。そこでダメージを負うわけである。

ならば、人との比較をやめればいいのか。
それができるならそれでもいいが、できない人が大半だと思う。

ではどうするか。
自分の内より湧き出る感情の全てを、自分自身によって、嘘偽りなく、正直に認めてしまうのが良いと思う。
例えば、こんな風に。

「私は、“社交の場”というものが苦手だ。」
「あの人はトークが上手くて良いなぁ。いつも沢山の人に囲まれている。」
「あの人は積極性があって良いなぁ。だからあんなに人気が出るんだろうな。」
「本当は、自分も面白いことを言って周囲の人を笑わせたりして人気者になりたい。けれどもその力はない。」
「と言うか、自分はどちらかと言えば、多くの人達とワイワイやるよりも、一対一でじっくりと深い話をする方が好きだし、得意なんだよなぁ。」
「自分は騒がしい場所よりも静かな場所の方が好きなんだよなぁ。」
「人との会話を通じて自己表現をするのは苦手だけれど、伝達手段が文章であれば、自分も上手にできそうだよなぁ。」
「プレゼン等の、“話すことが決まっている”場なら得意なのだけれど。」

このようにして自分の感情を正直に見つめ直すと、自分という人間に関して見えてくるものがあると思う。

「ああ、自分は“社交の場”というものにつくづく向かない人間なんだな。」

当たり前のことである。そのことで悩んでいるのだから。

そこでもう一歩、踏み込んでみる。

「自分が社交の場で輝くことは難しいことだよな。」

もう一歩。

「でも、大勢の社交の場ではなく、一対一のコミュニケーションだったり、文章による自己表現やコミュニケーションといったものには人並か、それ以上のパフォーマンスを発揮できるよな。」
「仮に親睦会が“文章によるやり取り”によって行われたら、そこまで苦痛ではないよな。むしろ得意かも知れない。」
「親睦会がプレゼンみたいな形式で行われたら、かなり良いパフォーマンスを発揮できそうだな。」

なるほど、ここで一つの結論が得られた。

「自分の輝く場所は“社交のここ場”ではないのか!」

そう。人には、得手不得手というものがある。
社交の場が得意な人もいれば、苦手な人もいる。それは当たり前のことである。
自分の苦手分野において輝こうとするから、苦しくなるのである。

自分の苦手分野において、無理に輝く必要はない。確かに、社交の場において輝く人を見ることで劣等感や嫉妬心は湧き出てくるだろう。羨ましく感じるだろう。
しかし、社交の場が得意なあの人と、苦手な自分とを、同じ土俵において、同じ価値観で戦わせてはいけない。あの人にはあの人の、自分には自分の、それぞれ異なった、輝くべき場所がある。今回は、あの人の輝ける環境が設定されたということ。自分にとって極端に苦手な環境が設定されたということ。これはもう、仕方のないこと。自分にとって得意な環境が設定されたときに初めて、張り切ればいい。今回はそのときではない。

苦手な土俵で、いかに自分を見失わずにいられるか――。

これを第一に考えることが大切である。

親睦会が始まったら、自分にこう言い聞かせよう。

「自分の輝く場所は“社交のここ場”ではない」

と。そうして、どんな状況に置かれても、堂々としていよう。超然としていよう。
「あの人は輝いていて良いなぁ」
なんてことを思いながらも、自分は自分なりに、堂々と振る舞っていよう。その場から浮き上がることを、恥と思うな。
その場の雰囲気や、焦燥感に完全に飲み込まれて、その結果、冷静を失って不要な黒歴史を量産してしまう必要はない。
その環境の中で、いかに自分を見失わずにいられるか、自分らしさを保っていられるかだけを、考えていよう。
過度に卑屈になる必要なんてない。そもそも、人間には多くの価値観がある。多くの人々がワイワイとやっている中、それを意に介すことなく、そこから少し離れたところで堂々と自分の時間を過ごしている人を「素敵だ」と思う人だっている。実際に私がその一人である。

私の会社には、張本人にとっては恐らく苦手であろう“社交の場”にあっても、過度に自分を見失うことなく、堂々とその人らしく振る舞っている人が何人かいる。私は彼らを心より「素敵だ」と思っている。しかも、それではそうした彼らが仲間外れを受けているかというと、断じて、そんなことはない。周囲の大半からはそれも一つの個性として認められている。天晴れなことだと思う。

最初から、自身の苦手な場において、実際に堂々と振る舞っていられるようになるかどうかは分からない。もしかしたら初めの内は上手く行かないかも知れない。
ただ、それでも内面において、過度に卑屈になる必要は全くない。あの人にはあの人の、自分には自分の輝ける場所がある。そのことをキチンと心に留め、自分の感情に正直になりながらも、決して自分を見失わないことである。
自分は自分の得意なフィールドで輝けばいい。そう考えることが大切である。

そうした心掛けがひとつ持てるだけで、親睦会を初めとする“社交の場”に対する意識が自分の中で、大きく変化してくることと思う。
ただ、環境にコントロールされ「憂鬱」なだけだった親睦会は、自ら環境をコントロールしようとする前向きかつ勇敢な感情を誘発する成長の場となり得る。

感情に自身の行動をコントロールされるのではなく、感情をコントロールすることで、自身の行動を適切に規定していくのである。

もし、自身の正直な感情に従った結果、「それでも最低限のコミュニケーションは取れるようになりたい」とか「少しは積極性等を身につけたい」という思いが湧き上がってくるのであれば、以上の心掛けを持ちつつ、社交性を向上させる努力をしてみると良いかもしれない。たとえ極端に苦手とするような分野であっても、改善に向けた努力を継続することで、かなりのスキル向上が見られることもある。かく言う私も、雑談に関する書籍を読んで、使えそうなノウハウをスマートフォンの端末に収め、隙間時間に見返しては、過去に職場で為された雑談のフィードバックを行っている。目に見えた上達が見られるのはまだ先になりそうだが、「更に上を目指したい」と思ったら、こうした努力は必須になるのかなと思う。

畢竟。
陰キャラたる者、せめてメンタルは強く持っていたいものである。

 

 

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