八方美人を、やめようと思っている。今回に関しては、八方美人を「やめなければならない」でなく、「やめようと思っている」と、言い放つ。前者と後者の主張では、「実際にその実現のため、有効な行動を起こしているか、否か」に最も大きな違いがある。現に私は、自身に長年染みついている八方美人の衣を剥ぎ取ろうと、今はそれなりに努めているつもりである。
ただ、八方美人というものは、「やめようと思って」すぐさまやめられるものではない。「今日から他者に過度の迎合をするのをやめよう」と決意することだけで、すぐにやめられるものではない。どんなに朝一番、「よし!今日から私は、八方美人を卒業するぞ!」と勇み張り切っても、勢いがあるのは最初だけ。気が付けばお昼や夕方頃、いやもっと酷い場合は朝、他者と二言三言の会話をした時点で、もうすっかりいつもの衣――それも、とっても分厚い、分厚い衣――を身に纏っていて、無意識の内にいつもの他者迎合をしてしまっている自分がいる。結局、何も変わっていないのである。八方美人の衣は、そう簡単に剥がせる物ではない。
「衣」、「衣」と書いたので、私はうっかり、天ぷらをイメージしてしまった。
私達は、無力なエビである。無力なエビは水と卵で湿らされ、そこに粉を塗された。そしてそれは、180 ℃の油に投じられた。その結果、無力なエビは分厚い衣を身に纏うこととなった。
油は外界である。外界と接触すればする程、身に纏った八方美人の衣は強固になる。そしてその衣の原料となっている粉の正体だが、それは「承認欲求」である。無力なエビは、承認欲求の粉をはたき落とせない限り、永遠に、外界の油と接触する度、八方美人の分厚い衣を身に纏うことになる。無力なエビは、油の中で衣を纏うことをどうにか気合いだけで抵抗しようと努めるのではなく、湿った我が身に纏っている承認欲求の粉をはたき落とす努力をしなければならない。しかしこの粉、自分の身が湿っているだけに、なかなか落ちてくれる物ではない。ここに八方美人矯正の難しさがある。(上手く伝わったかな?)
私は現在、この承認欲求と戦っている。私の、やめたくてもやめられない八方美人の行動様式の土台にあるのが、先にも述べた通りこの承認欲求であるためである。他者から認められたい。更に簡単に表現するのなら、他者から「すごーい」と言われたい。それが、これまでの私の生きる意味であり、生きる目的であった。私がどういった人間であるのか、どのような特質を備えているのか、どういう性格なのか、どういったことに興味があるのか。それら要素の全てを無視してでも、周囲の人々から「すごーい」と言われたい。たとえ自分を偽ってでも、自分を苦しめてでも、不幸になることが分かっていても、言われたい。代替可能性の極力低い人間であることこそが、自身の幸せへの道だと思い続けてきた。
私は幼少期より父から、「お前は人の上に立つ人間にならないといけない」と言われて育ってきた。要するにこれは「出来るだけ人間界の希少種になれるよう努力せえ」ということなのだが、私は当時からそれを「その通りだ」として首肯した。希少種、すなわち人様から羨ましがられるような人間になることこそが幸せへの道として、十何年も疑うことなく、そればかりを目標に人生を送ってきた。私は人様から「すごーい」と言われるため、自分なりに頑張った。
「すごーい」と言われるために己を磨く、という工程までは、良かった。しかしそれがいつの間にか、行き過ぎたところまで来てしまった。「すごーい」と言わるような人間になれなければ、私は生きている価値がない、という強迫観念になってしまっていた。私は自分の価値を守るため、必死になった。それも過剰に、必死になった。過剰な必死さは自身の元々狭かった視野を、更に大きく狭めた。そしてあまりに自身の実力を超過した環境に身を置き続けてしまった結果、遂に競争に敗れてしまった。その瞬間私は、私が生きていることの価値を失ってしまったように思われた。この体たらくでは、人様から「すごーい」と言われるような人生を送れない。生きている価値がない。生きる意味が無くなってしまった。幸せな人生など、もう想像出来ない程にまで、落ちぶれてしまった。落ちぶれたと思い込んでしまった。
けれども私は熟考の末、生きることを選択した。この先何十年生きるのか知らないが、生きることを選択した以上、何とかしてこの、人様から「すごーい」と言われることを絶対視する価値観(つまり承認欲求ですね)を矯正しなければならない。しかしこの承認欲求、幼少期より根強く自身の価値観を支配し続けてきたせいか、簡単に我が身から離れ落ちてくれないのである。
ふとした瞬間に、テレビを点ける。液晶に、人様から「すごーい」と言われるような人々が映し出される。それを見た出演者が、壇上で「すごーい」と賞賛を贈っている。私はそれを見て、やはり「すごーい」と感嘆する。そして次の瞬間、嘆息する。彼ら彼女らに比べて、自分はなんてしょうもない人間なんだ…。
これまたテレビの話になるが、取り分けジェラシーを感じてしまうのは、頭の回転の早い人が、その真価を発揮した姿を見せるときである。司会から出し抜けにコメントを求められた際、考える時間の短い中で、咄嗟に機知に富んだコメントを返せてしまうアナウンサー等を見るにつけて、私は頭の回転の早い彼ら彼女らに、深い羨望を感じ、そしてやっぱり、嘆息してしまう。やはり、私に無いものを持っている人達には、羨望を感じざるを得ない。私の場合はきっと、如何なるコメントを求められても、短い時間どころか、相当の長考をした末でさえ、しどろもどろの、どうしようもない頭の悪いコメントしか残せないことであろう。頭の回転の早い人達には、特に、憧れる。憧れると同時に、こういうシーンを見る度、つい、自分のちっぽけさを感じてしまう。正確に言うと、自分の存在がちっぽけなものに感じられてしまう。
憧れ――。誰かに憧れて、その人に少しでも近付こうと、必死に努力することは素晴らしいことである。しかし。その動機は、決して「承認欲求」に根ざすものであってはならない。人様から「すごーい」と言われたいがために、自分の本当の要求に目を瞑り、自分の真の興味をねじ曲げ、自身の先天的な特質を無視してまで、無理な努力をしてはならないのである。
先の例で言うと、「(頭の回転が早くて)すごーい」と思われたい動機から、必死に頭の回転を早くしようとしてはいけない、ということである。順番が逆なのである。頭の回転が早いからこそ「すごーい」となるわけであって、「すごーい」と言われたいがために頭の回転を早くしようとするというのは、適切な順序ではないのである。順序の逆転は、後に不幸を招く。例えば私が、自身の承認欲求を満たそうとして、頭の回転を早くするため1日30分間の高速音読を始める(※これは実際にやったことがありますが、結構効果ありますよ)。暫く継続していくと、成る程その成果は著しく、以前と比較すると随分気の利いたことを言えるようになるものである。しかし、それが周囲の如何なる人間からも認められるか、というと話は別である。世の中には、もっと頭の回転の早い知人を持つ人がいるかもしれないし、そもそもその人自身の頭の回転が私のそれよりも相当早い、という場合もあるかもしれない。そういう人、場合に、付け焼き刃の機知は通用しない。そういった人達からは承認されない。「すごーい」と言って貰えない。
すると、もっと努力して鍛えよう、ということになるかもしれない。しかし、どんなに努力を重ねても、多少の向上はあるかもしれないが、やはり先天的に持っている人達には叶わないし、テレビの向こう側のアナウンサーにも到底及ぶことはないから、そんな彼ら彼女らを見ては嘆息する人生に終わりが来ない。承認欲求は永久に満たされることがない。おまけに、本来の私は頭の回転が早くない。しかし一部の人達からは、頭の回転が早いと思って貰えるようになっている。ここで、いつ化けの皮が剥がれるか、常に怯えるようになる。元々、高速音読は楽しみで始めたものではなかった。そのため、思うような承認も得られないのに、努力をし続けることが辛くなってくる。しかし、その辛い努力を放棄すれば、みるみる頭の回転は元に戻っていき、ゆくゆくは今認めてくれている人達の承認さえ得られなくなってしまう。そうすると、自分に価値を感じられなくなる。それが怖い。だから強迫的に辛い努力を続ける。そしていつの間にか、自分の人生の大半が、人様から「すごーい」と言って貰うために続けなければならない、辛くつまらない努力で埋め尽くされる。そうして自分の人生が送れなくなってしまう。
順序を間違えてはいけない。それは凄い人だから、「すごーい」と言われるのである。「すごーい」と言われたいがためだけに、物事を始めるのは良くない。高速音読が楽しいから、音読をする。音読をすることでくるくると口が回るようになる快感が好きだから、音読をする。頭の回転が早い方が得だと思うから、音読をする。物事は、こういった「自分のため」に実行されるものでなくてはならない。こう言うとややこしくなってしまうかもしれないが、自分が本心より、人様から「すごーい」と言って貰いたいと望んで音読をするのは別に問題でない。すなわち自分の意志で人様からの賞賛を得ようとしているが故に音読をするのであれば、これは実は問題がないのである。自分の意志ではなく、自身の存在価値を他者からの評価に依存してしまっているが故に、人様から「すごーい」と言って貰わなければならず、その実現のために無理してまで音読をすることが問題なのである。自分が本当に望んでやっているものなのか(換言すると、その達成により自分が自分から認めて貰えるものなのか)、それとも他者や世間体から認められるためにやっているものなのか、そこに問題であるか否か、という結論が変わってくるのである。
自分のため――。取り分け、過度の承認欲求に人生を翻弄されている人達は、この「自分のため」に、何か物事を遂行していく、ということをしっかりと意識していかなければならない。人様から「すごーい」と言われるために何か物事をやるのではなくて、自身が、「これが好きだから」、「これに興味があるから」、「これをやっておいた方が自分のためになると思うから」、「これをやっていると楽しいから」、といった動機でやることが大切なのである。これら一連の動作を「自分の声を聴く」と私は表現しているのだが、この、「自分の声を聴く」試みこそ、現在、私が承認欲求の改善のため実行している事柄の一つなのである。自分の声が聴けるようになれば、自分の本当の望みと、世間体を気にして生まれてきた望みとを頭で分離することが出来る。ところがこの「自分の声を聴く」という動作であるが、十数年間、他者からの承認に人生の価値を置く生き方をしてきた人間にとっては、なかなか出来る芸当ではないのである。自分の声というものが、ちっとも聞こえてこないのである。
ある少年が旅行に行ったとする。そのお土産に、土産売り場に陳列された鳥のぬいぐるみに心を奪われた。欲しい、と思った。けれどもこの少年は、過去にぬいぐるみを父にねだった際、その父に「男のくせにこんなものが欲しいのか、女々しいやつめ」と嘲笑されていた。その嫌な記憶が蘇り、少年は鳥のぬいぐるみを諦めて、本当は欲しくない木刀のキーホルダーを買った。そこでこの少年は自分に言い聞かせる。「僕が欲しかったのはこのキーホルダーなんだ。鳥のぬいぐるみなんて、欲しくないんだ」。これは自分の本当の声を抑圧する行為に他ならない。こういった本心の抑圧が日常的に行われ続けてしまった結果、徐々に思考回路が「好き→欲しいと思う」ではなく、「好き→その『好き』は父に認められるか→認められるならば欲しくなる(そうでないなら欲しくならない)」というものにすり替えられていく。完全にすり替わったとき、少年は自身の「好き」という感情を覚えることが出来なくなっている。この時の少年の頭にあるのは、自身の決定が果たして父から認められるものなのか、否か、ということのみになっている。
これと同じ事で、長年承認欲求の粉に晒され続けていると、自分の好き、嫌いという心の声が、簡単には聞こえなくなってしまっている。長年自分の声に蓋をし続けると、遂に心の声が聞こえなくなってしまうのである。つまり、気が付くと、「それは人様から認められる行為なのか、否か」という基準でしか、物事を決定することが出来なくなってしまっているのである。
私は今となってはしょっちゅう、自分が行っている物事に対し、いちいち自分の声を聴いてみようと努力する、ということをしている。例えばカラオケ、ブログ記事の制作、勉強、仕事、プロ野球観戦、それから新しく見つけた趣味(まだ内緒!)、といったあらゆる物事を行うに際して、「君はそれを好きでやっているの?」と、いちいち問い掛けるのである。果たしてそれを、他者から「すごーい」と言われたいがためだけにやっていないだろうか。世間体というものに囚われてやってはいないだろうか。本当に興味があってやっているだろうか。本当にそれをやることで楽しめているのか。ストレス発散になっているのか。色んな事を自身に問い掛けているのである。が、先程も申し上げた通り、自分の心の声というものは、なかなか聞こえてこないのである。
君は、好きで小説を書いているのか。
・・・。
今書いていて楽しいか。
・・・。
小説を書ける自分に酔いしれたいだけじゃないのか。
・・・。
人様からの賞賛が欲しいから書くのか。
・・・。
自分しか読まないものであっても、書いていられるのか。
・・・。
という風に、全く、聞こえてこないのである。どうやら長年冷凍してきてしまった自分の声を聴けるようになるためには、ある程度時間が掛かることのようである。心の声を聴けるようになることの大変さというものは、本にもネットにも「そりゃあ大変なことですよ」と記述されていたから、きっとそういうものなのだと思う。時間が掛かるのは必至である。
そのため、私は前回投稿した小説(さっきから小説、小説言ってすみません)に関しては、作成するに当たって、「自分だったら、こういうものがあったら嬉しいと思う文章を書くんだ!」という動機をぶらさず書き進めてみたのである。私は自身が文章を好きで書いているのか、それとも人様から「すごーい」と言って貰いたくて書いているのか、それともそのどちらでもあるのか、分からない。自分の声を聴くには未だ時間が掛かる。だから私は、「自分が読んで面白いと思えるものを(好きという気持ちをベースとして)書こう」という動機で前回の作品を仕上げた。そうすることで、「この制作は、自分が好きでやったことなのだ」ということを強調しようと試みたのである。しかしその割には、私はあの作品を世に送り出してから、それを再読することが出来ていない。自分が読んで楽しめる物語を書いたつもりなのに、世に出してしまった瞬間、私はそれを再読することが怖くて出来なくなってしまった。私はいつもそうなのだが、自分が世に送り出してしまった記事群を再読することは、あまりないのである。それはやはり、世に送り出してしまった文章を改めて読み返したとき、「こんなしょうもない文章を世に送り出してしまったのか」と落胆することの恐怖から逃れるためなのである。一応、作成の際には精一杯、良い物を書こうと努めているつもりなのではあるが、それでも常に、「実はあの記事はしょうもないものだったのではないか」という恐怖がつきまとうのである。今回作成した作品が、それに該当していたときに覚えるやり場のない羞恥を感じることの恐怖が、凄まじいのである。現に再読せずとも、今思うと未熟であったなあと思い返される記事をこれまで大量に排出してきてしまった。私はそれらの記事群を今となっては削除したくてたまらない。けれどもいちいち気に入らない部分がある度に削除したり、心機一転、新しいサイトを立ち上げていたのでは、収拾が付かなくなる上、ある意味で、そのサイト全体が嘘まみれになってしまう。だから消さない。
これは何も、文章だけに限った話ではない。私は外に出た瞬間から、自身の姿を鏡で見ることが出来ない。学生時代は特に、鏡の前に立って己の髪型、顔面等をチェックする学生群が多く見受けられたが、私はそのような行動を取ることが出来ず、鏡からは必ず視線を外していた。家から出、一瞬でも人様に見られてしまったこの顔がどういうものに映ってしまったのか、自身で知ることがとても怖かったのである。もしかしたら自分の想像を遙かに下回る顔をしているかもしれないわけで、そんな顔を見せていることに自らが気付くことで覚える羞恥に対する恐怖があまりに大きかったのである。
これらの恐怖感も、過度の承認欲求に由来するものである。人様が自分のことをどう評価しているのかを知ることが(もしくは世に出した作品や自分の姿から推測されてしまうことが)怖くて仕様がないという感情が大きいためである。前回投稿した小説は、自分の「好き」という気持ちを前面に出して書いたつもりであった。しかし投稿以降に再読することが叶っていない今、「好き」という気持ちよりも、承認欲求の粉に塗れていたものであったと推測するのが妥当だと考えられ、若干、落胆しているところである。作品というものは、作者が、自分でそれを良いと思うからそれを愛し、投稿するのである。他者からの承認を得られて初めて、自身の作品への愛が左右されるものではあってはならないのである。
ここまで承認欲求について書いてきたが、過度の承認欲求を抱えている人達の根本は、「他者から承認されない自分には価値がない」という思考で凝り固まっているのである。元々価値の無い自分に価値を持たせるために、他者からの承認を過剰に求めてしまう。「すごーい」と言って貰うことで、自身の命の価値を確かめる。ただそれは、底に大きな穴の空いた容器に水を満たそうとするようなもので、決して、欲求は満たされることがないのである。たとえ一つの承認を得られたとしても、それは今、その瞬間だけ自身がそこに存在しても良いのだという免罪符を得られたようなものに過ぎず、その次の瞬間の自身の存在価値まで保証されたのではない。また別の形で承認を得ることで更なる承認を得なければ、自身の存在のための免罪符を得られないのではないかとビクビクするのである。そしてそんな、継続的に承認を得続けようと試みる中で大変な脅威となるものが、「失敗」というものなのである。過剰の他者承認を求めている人達にとって、「失敗」することは、致命的である。失敗というものは、それが大なり小なり、過剰の承認欲求を持つ人達にとっては、己の命の価値を脅かす程の大惨事なのである。だから、出来る限り失敗はしたくない。
失敗は長い目で見れば、その人の人生を豊かにするものである。確かに短期的に見ると失敗はしない方が良いことのように思われる。しかし長期的に見れば、失敗したからこそ経験値が増え、それにより人生におけるより高次の満足を得られることになる可能性もあるわけで、必ずしも、忌み嫌わなければならないものではないのである。しかし、粉を身に纏った無力なエビにとって、失敗というものは己の生命さえ脅かすもので、絶対に避けなければならないものなのである。勿論私も過度に失敗を恐れる傾向がある。特にそれは仕事の中で存分に発揮されていて、私は失敗を恐れるあまり、対人の仕事において腰の引けた対応ばかりしている。私の何らかのアクションにより眼前の相手が不愉快な思いをする可能性のあるときは、兎に角、このまま何もアクションを起こさないためにはどうするか、ということばかり考えてしまう。まだこの仕事の経験は浅いのだから、失敗することは仕方のないことであると分かってはいるのだが、失敗することの恐怖がその理解に勝り、アクションを起こすことに消極的になってばかりなのである。しかし、失敗することを過剰に恐れている限り、承認欲求の呪縛からは逃れられない。だから私は、つい、腰の引けがちな対応に終始してしまいそうになる自身に気が付いた際には、自身に「失敗しても良い!」と都度、言い聞かせるようにしている。そして頑張ってアクションを起こすようにしている。人間、失敗はつきものである。そして失敗は未来の財産にだってなり得る、大切な経験である。これを過剰に恐れていては、前へ進めなくなってしまう。おまけに実際に人間相手に失敗をしてみると分かるのだが、たかだか一度や二度の失敗程度で、そうそう相手はその人を見捨てたりしない。こちらが誠意を持ってその失敗に対処しようとすれば、大抵はこれまでと変わらぬ関わり方で私に接してくれる。決してこの世は、たかだか一度の失敗を引きずってはネチネチ言うような人ばかりではない。「失敗したって良い」――この事実に気が付くことは、八方美人を矯正する件でも、非常に重要になってくる。
これまでの話を総合して八方美人についてまとめるが、自分の存在価値の評価を他者に依存してしまっていることこそが、八方美人をやめられない主要因なのである。自分の存在価値に自分で確信を持てず、その評価を他者に委ねてしまっているからこそ、他者から嫌われないよう、過剰の他者迎合をビクビクしながら行わなければならないのである。ちなみに、その過剰な他者迎合は一見すると、「他者を思い遣れる」という一つの長所のように思われるが、残念ながらそれは違う。過剰の他者迎合は、自身の存在価値を守るための自己防衛の一つであり、迎合をやっている人は、表面上では眼前の相手のことを思い遣っているように見えるが、本当のところ、殆ど思い遣れていない。実際に思い遣っているのは、自己防衛をしているその人自身だけである。相手のことを思い遣っているから調子の良いことを言っているのではない。相手を思い遣っているから喜ばせるようなことを言っているのではない。眼前の相手に、自身の存在価値を否定させないために、言っているのである。迎合している人間は、自分を守ることに必死になるあまり、相手のことがちゃんと見えていない。相手がその日どんな服を着ていたか、髪型が変わったか、どんな表情をしていたか、動作に疲れが出ていないか、声の調子はいつもと異なっていないか等といったことが、全く見えていない。自分の発した言葉に対する相手の反応や表情の変化以外、見えていない。だから相手が少し暗い表情をしていても、それに気が付いてあげることが出来ず、思い遣りのある言葉を掛けられない。相手から「最近疲れていて…」と話されない限り、「大丈夫?」と声を掛けられない。相手の暗い表情に気が付くとしたら、それはただ、自身の言動に対する反応として、相手が暗い表情を見せたときくらいのものである。また、過剰の他者迎合をしている人は、眼前の相手のことを信用することが出来ていない。他者を、自分の存在価値を脅かし得る脅威として認識してしまっている。実際にはたかだか一つ、二つの失敗で相手が自身を見捨ててしまうようなことは決してないのに(いや、あることにはあるのだが。しかしそういった人は精神的に未成熟なだけなのであって、世の中はそういう人ばかりで溢れてはいない)、しかもたとえその人から見捨てられたとしても、自身の存在価値が揺らぐなどと言うことは決してないのに、まるで一つの失敗で自身がその相手から嫌われ、存在を否定されてしまうのだと言わんばかりの、大きな不信感で溢れている。信頼関係の築かれぬ対人関係に誠実はない。このように八方美人は、相手のことをしっかり考えているようで、その実は自分のこと、自分の見られ方しか考えていない。自身の存在価値を守ることにしか興味が無い。だから周りのことが何も見えていない。相手のちょっとした変化や、不調に気が付けない。そして信頼関係も築けない。
自分の存在価値の評価は、実は、自分自身で決めることである。そしてその結論は必ず、「自分に存在価値はあるんだ」と結論づけられることである。そのためには、自分の人生における種々の選択を自分の責任で決定していくことで、自分の人生を生きられるよう努めることが大切なのである。その努力の継続によって、自分の本心の声が聞こえてくるようになり、それによって自分の声に従い、自分の意志、責任で行動を選択出来るようになり、それが「失敗」を前向きに捉える力となり、そして人生が良い方向に動き出してゆく。その一連の動きにより、自分という存在に対する自信に繋がっていく。
1.自身に過剰の承認欲求があることを認め
2. 抑圧してきてしまった本当の自分の声に耳を傾けるように努め
3. 自身の存在価値は他者承認に左右されるものではないことを肝に銘じながら
4.「失敗は悪いことではない」という事実を確認する
頭では、ここまで了解した。けれども、こういった精神的な諸問題に関しては、頭による了解よりも、その了解が心にまで浸透することの方が大事だと私は考えている。現状私は、頭によってこれらの事項を了解してはいるが、それが心にまで浸透するには至っていない。だから未だにここまで頭で知っていながら、八方美人をやめることが出来ていない。けれども、これは過去に経験したことだから言えるのだけれど、頭による了解が心に浸透していくのには、何かしらのタイミングというものがあるものである。悩んで、悩んで、悩み抜いた挙句、ある時ふっと、「ああ、健全な状態って、こんなことだったんだ」と、分かるタイミングが、来るものなのである。同様のことはやはり他の方も述べられていて、神経症的な問題が解決する大きな一歩とは、こういったタイミングに大きく依るものなのかなと思っている程である。
私はこれからも、頭によって了解した上記の事柄を実践していく。きっと、なかなかそれが上手くいかず、悩む日が長いこと続くことと思う。しかしいつの日かそれが心にまで浸透していくときが訪れて、それが訪れてしまった瞬間からは、憑きものが落ちたように、私は、今よりずっと自由な人生を送ることが出来るようになっていることと思う。今は兎に角辛抱して、決して諦めず、無力なエビから脱却出来るその時を、待ち続けようと思っている。きっと、長い人生の何処かで八方美人を抜け出すことじゃ出来る。何となく、そんな気がしている。
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