I am 八方美人

私という人間の実態は、“自意識”と“自己愛”の塊なのだろうな、と思う。

私はいつも、“他者からの見られ方”というものを、過度に意識しながら生きている。私は、私自身の関わるほぼ全ての人に対する「理想の人物像」に、自身が出来るだけ近付けるよう努めてしまう悪癖がある。私は、他者の前では自身の本当の意見や考え、価値観、信念といったものを押し殺し、眼前にいる相手の考え方に対し必要以上に迎合してしまう人間なのである。一言で表すならば、私は、「誰にでもいい顔をする」人間。一語で表すならば、「八方美人」なのである。

こういった「八方美人」がベースとなった言動というものは、恐らく多くの人が実際に取られた経験のあるものだと思う。特定の相手との、その場限りの関わりを穏便に保つための一種の手段として、上述した“行い”が必要となる場合が、少なからず存在することは否定しない。ただ、私の場合は、その「八方美人」が“常態化”していること――ここに問題があるわけなのである。
他者と関わる際、常に「八方美人」状態を保っていると、心的に非常に疲弊してしまう。毎日が“接待”時のような心持ちと言えば分かり易いかも知れない。おまけに、自身の考えを過度に押し殺し、思ってもいないことを口にしてしまったことに対する自責、自己嫌悪感も同時に生じてくる。そして何より、こういった「都合の良すぎる人間」は、その人の持つ本来の“性格”や“魅力”が表に出て来ず、また自分の立場が時と場合に応じてコロコロ変わるため、関わっていても“刺激”や“張り合い”の感じられぬ人間として他者の目には映るわけだから、仮に初期段階の関係が良かったとしても、ゆくゆくは相手方から飽きられてしまう。

多分、私以外にもこういった“八方美人”的性格を持つ人は少なからず存在しているのではないかなと思っている。「自身の考え方とは全く異なっていても、つい相手の意見に同意してしまう」とか、「『違う』と思っていても反論が出来ない」とか、「相手のご機嫌を取ることに全神経を研ぎ澄ましてしまう」ような性格、また少し発展して、「自分の考えを人前で言えない」特徴や、「何かを主張するときは、逐一予防線を張らずにはいられない」といった特徴等、自分で「好ましくないこと」と自覚していながらも、それをやめる勇気の出ない人達というものは現に多数、存在しているのではないかなと考えている。

さて、かく言う私も、その例に漏れない。
「八方美人は人間的魅力に乏しい」
という仮説を、恐らく「正しい」だろうと確信していながらも、私は未だに、現実世界において八方美人であることをやめることが出来ていない。どうしても、眼前にいる相手の価値観や信念に、自身の言動が大きく左右されてしまうのである。自身が「左」と思う事柄でも、ある瞬間、たまたまその時関わっていた眼前の相手が堂々と「俺は右だと思う」と言ったならば、たちまち私は自身の立場、意見を翻し、「私も右だと思う」等と心にも無いことを言って、その相手に迎合し、ご機嫌を取ってしまうのである。

果たして、それは何故か。

攻撃されるのが、怖いからである。
先程述べた自身の本当の意見だとか、考え方とか、価値観、そして信念といったものを他者から否定されることが、心底嫌だからである。こんな私も実は胸の内で、自身のこれまでの経験に基づき形成された哲学のようなものを持っていて、密かにその哲学を大切にしている。この大切な哲学は、言わば自身のアイデンティティーであり、もっと言うと、自分の人生そのものと言っても、過言ではない。こうした、非常に重要な意義を内部に包含している“哲学”を人様に攻撃ないし否定されることは、自分の存在そのものの崩壊に繋がりかねない。このことがまた、決して“大袈裟過ぎる”わけでもないから困るのである。
と言うのも、私の“自分に対する評価”を定める過程、思考回路はどうやら幾ばくかの“歪み”を有しているようで、私は、自身の“価値”や“存在意義”といったものを実際のところ、“自身による評価”よりも、“他者からの評価”に依存している傾向がある。これはすなわち、自身の存在が「価値あるものであるか否か」という大事な選択を、自身の価値基準ではなく、他者の価値基準で評価していることと同義である。そのため私には、自分の存在を「価値あるもの」にしておくため、四六時中他者の顔色を窺っている必要がある。眼前にいる相手からの好評価を得られなければ、私は平常でいられない。かくの如く、常に自身の存在、すなわち自身の有する哲学は、他者からの「それは評価しない」や、「同意できない」、「甘い」といった類の言葉に対し過剰にないし敏感に反応し、且つは必要以上の影響を受け、簡単にその土台のグラつく可能性を有している。これは言わば、他者に対し自身の哲学を曝け出す行為は、自身の存在価値の否定、不安定化に密接に繋がるわけである。こうした大変な危惧があるため、私は他者からの攻撃を受けることに大変な恐怖や嫌悪を覚えるのである。

素直に申し上げてしまうと私は、現在有している自身の哲学というものに、多少なりとの自信を持っているつもりである。要するに私は、実を言うと、自分にある程度の自信を持っているのである。本記事内では散々、「私の自己評価は、他者の、私に対する評価によって決定せられる」とか、「だからこそ自己評価を下げぬため、コミュニケーションの際は他者の価値観に過度に迎合することで自分を守っている」などと自分で自分をやっつける記述をしてはいるが、その根底にあるのは、それに伴う自信喪失や自己喪失感では断じてなく、自分の持つ哲学に対する仄かな自信なのである。私はその「仄かな自信」が、他者の何気ない批判の一言によって崩壊せられることを非常に恐れている。従って他者と関わりを持つ際、私は、自身の内なる哲学や、それに基づく自信というものを表に出すようなことは決してせず、そっと心底に隠し、他者の価値観に沿った言動を、まるで自身もその相手と同様の価値観を有しているかの如く取ることで、自身の哲学が他者からの攻撃を受け、その影響からこれまでの人生で得た価値観や信念などといった、自身の根幹を成す基礎が崩壊することを防いでいるのである。その行為が、自身を魅力の無い、よりつまらない存在にしていることを分かっていながら実行に移し続けているのだから、尚のこと質が悪いと思っている。

本記事冒頭の一言――「私という人間の実態は、“自意識”と“自己愛”の塊なのだろうな、と思う。」――は、以上のような私の弱さを端的に表した一文なのである。

さて、かくの如く「魅力に欠けたつまらぬ実存」の私は、恐らくそのつまらぬ人間性故(ゆえ)に、先日職場で怒りさえ湧く悔しい思いをした。この場で詳細を書くことが出来ないため漠然とした記述になってしまうのだが、その概要は以下のようなものである。

同い年の上司に、仕事上分かりきっている事柄に関して注意を受けたのである。

その趣旨は、「仕事をする上でもっと頭使って考えないといけない」というものであったのだが、注意を受けた瞬間私は、その上司には悪いのだが、そんな分かりきったことを指摘されたことに対し内心「ちくしょう」と思ってしまった。「思ってしまった」のみならず、それに対する返答として、「すみません」の一言に続けて、「しかしそのくらいのことは分かっています」といった旨の、要らぬ一言を付け加えてしまった。それ程までに悔しかった。少なくとも私は、仕事の最中は日々、様々なことを思考しながら行動を取っているつもりだった。おまけにその「思考」については、私と同年代の人は殆ど持たぬであろう自らの苦しい過去の経験や、それに基づき生まれた自身の信念といったものを材料として行っているつもりであり、簡単に、それに関して注意を受ける謂われは無いと思っていた。こういった背景があって私は、一見すると何でも無いその一言に対し、「そのくらいのことは分かっています」などと、大人気もなくつい反発してしまったのである。

その後数日間はあまりの悔しさから、「何故あのようなことを言われたのだろう」という疑問について延々と考えていた。暫く思考したのち出した結論は「私の言動の裏にあるものが何も見えなかったからであろう」というもので、その原因として挙げられるものは多分、上述した私の“八方美人的生き方”から生じる“一貫性の見られぬ言動”であり、そこに不甲斐なさを感じたからあのような一言が出たのだろうな、と一応は結論付けた。というか、結論付ける“ことにした”。確かに当時の私は、仕事をする上で色々と思考はしていたのだけれど、会社には多くの先輩や上司がいて、彼ら彼女らの存在そのものであったり、そこから出される数多の情報に対し「過度に」翻弄され、結局のところ自分の思考から得られた結論に基づく言動というものは、あまり取れていなかったように思える。ここで私はこういった実情に対し、その上司と(まあこれは一種の自惚れであるが、実際はその上司だけに限らぬ)形而上的存在から「しっかりせい」と言われているのかも知れないなと解釈し、また、私のこうした“八方美人的性格”打開への起爆剤を与えてくれる上司との出会いや激励が同時期に相まったこと、そして何より、前々から自分自身で「現在の、他者からの見られ方ばかりを気にする貧弱な精神を何とかしなければ」と考えていたこともあり、上記の一連の出来事に対し何らかの思惑を感じ取った私はそれ以降、仕事における自身の軸を、過去の自身の経験や(僅かばかりではあるが)これまで働いた過程で教わった、ないし得た知識に基づき構築し、それに従った言動を他者からの評価に優先する形で、徐々に取り始めるようになった。今はその軸に従って仕事を行うことに、ある程度の充実感を覚えることが出来ている。現在の私は、今までの自分からは考えられなかった方向に歩みを進めようとしているのである。

次回からは、今私の有しているその“軸”が何なのか、また、それを持つに至った経緯はどんなものであったのかを、詳しく述べていきたいと考えている。流れは、「私は過去こんな経験をした→だから今はこんなことを信念とし、それを大事にするに至っている」といったものにしていく予定である。ちなみに私は、大学で化学を専攻したのち、職業は新卒で知的障碍者の生活支援員をしているのだが、そこに至る経緯もよく分かるように書いていくつもりである。




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