どうせ私は失敗作さ

どうせ私は失敗作さ。残念なことに私は、思い描かれていたような姿で、社会の荒波へ繰り出すことができなかった。

そんな私を、心のどこかで冷めた目で見ているのだろう。
そうした不信感を、心から取り去ることができない。

私達の関係は良好だ。表向きでは、非常に良好だ。しかし心の内側では、決して通じていない。言葉では互いを分かり合っている。けれども心より理解し合えているとは、思っていない。どこかで私が道を踏み外しさえすれば、言葉だけの共鳴さえ、すぐにできなくなるだろう。そう考えている。この関係は、双方の遠慮と、譲歩から成り立っている。
使用する単語と、表情と、声のトーン、話題さえ脳内で吟味し気を付け続けることができるならば、どうにか保ち得る関係。危なっかしい綱渡りをしているような心持ちだ。

私の存在そのものは、喜びにはなり得ないのだ。
私がここに存在している。それだけでは物足らないはずだ。私が迷惑を掛けることなく、許容範囲内で、大人しくしているときに限って、その存在をどうにか容認できる。そうだろう。できることならば、もっと立派な、客観的に賞賛に値する人間として、外へ出ていって欲しかったのではないか。

これは、「人を信じることは難しい」っていう単純な問題ではなくて、「不信感の元となったトラウマや、心の傷を克服するということは相当に難しい」という問題として捉えた方が、真実に肉薄しているのではないかしら。

表面上の関係改善が為されるだけでは、問題は解決しない。

私の存在は、数年前の、痛みを伴う非常に、非常に大きな衝突によって、表立って非難されることはなくなった。今となっては、私に向けられていた敵意の眼差しはなくなった。
しかしどうせ裏では、心の内では、あの頃と同じような敵意が棲みついていて、どこかで私に失望し、諦め、批判的になっているのだろうという不信感を、払拭することはできない。

表向きでは私の自立を喜んでいる。けれども心の裏側では、どこか批判的で、どこか冷ややかな眼差しを向けているのだろう。その事実が、私にとっちゃ、とても悲しいことなんだ。

私のことを敵、味方の概念なく、煩わしい存在だなどと示すことだってなく、ただ無条件に応援し幸せを願っていてくれれば、いやそのことを私が信じることができていれば、どんなに良かっただろう。恩知らずなのは承知だ。しかし、感謝と信頼とは根本的に、別問題なのである。これは生物学的にも、仕方のないことなのである。

どうしても、生意気な幼児みたいなことばかり言ってしまう。

「幼少期に満たされなかった幼児的願望は、大人になっても消えずに残る」とはよく言ったものである。私の心は幼児のままだ。幼児のままだけれど、大人となってしまった今、幼児を抱えた私にとっては、立派すぎる大人の仮面を被って、一丁前に成長しているフリをしてやっていかなければならない。けれども心の中の幼児が、事あるごとに、不器用に顔を出してしまう。そしてそれが時に非合理的で、意味不明で、言葉による説明の不可能な物分かりの悪さとなって、社会との折り合いをぎこちないものにさせてしまう。

大丈夫。社会不適合は、あなた自身のせいじゃない。自分を責めすぎないで。社会不適合を起こしてしまうのも、無理はないんだよ。当たり前のことなんだ。

捻くれているから愛されないのだ、とする批判は、当たっていない。その批判は、物事の本質を、まるで捉えられていない。捻くれたくて、捻くれる者があるものか。いかに純粋たるを熱望して生まれ落ちたって、後天的に悲しい経験が積み重なってしまえば、やむを得ず、己の命を守るためのギリギリの手段として、捻くれざるを得ないのだ。表層の事象だけを批判したって、問題は決して解決しない。

自分の存在を認められていない。そう信じているから尚更、認めてもらいたい気持ちが強くなってしまうのだろう。もう少し頭が良かったなら。もう少し稼げるようになっているのなら。そんな「たられば」を考えては、結局、そんな条件付きで認められたって虚しいばかりだと言い聞かせる日々だ。どんなに良い条件を手にしていたって、どこかで私が挫ければ、間違いなく失望が待っている。

私は、認められたかったのだ。今となっても私は心のどこかで、認めてもらいたいと思っている。高得点の答案用紙を持って帰ったあの日の狂喜乱舞のような、あの承認への渇望が、頭から離れない。たとえそれが、条件付きの承認だったとしても。

ああ。なんと、か弱き心だろう。これは嘘偽りなき、純粋な心だ。飾りなき、美しい心だ。キラキラと、繊細に光っているのを感じる。これ以上、その繊細さを痛めつけてはいけない。期待と失望のハンマーで散々に痛めつけるのは、もうやめろ。

「子供は皆、親が好きなのだ。だから親に認めてもらおうと必死になる。」という記述を頻繁に目にするが、私自身、その表現はどうもしっくりこないと思ってきた。私なりにこの言葉をアレンジするなら、子供たるもの、出来る限り、親のことは好きでありたい。そして親には、自分のことを好きであって欲しい。だからどうしても、難しいと分かっていても、自身の存在を認められたくなってしまうのだ、とする方がしっくりくる。

最後に酷な言い方をしてしまうのだけれど、

無理なものは、無理

なのである。お月様を望み、手に入らぬ不幸せに傷付くくらいなら、別の魅力あるものを求めよ。それが大人というもの…いや、「現実的」、「合理的」とでもいうべきものだ。この世にはお月様に準ずる素晴らしいものが、きっと他にも沢山ある。それは信じていよう。そしてそれを掴めるだけの魅力を、自身も身に付けられるよう努力しよう。

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