人生の意味


貴方の人生における転換期は、いつですか?

もしこのような問いかけをされたのならば、私は間髪入れずに、「2014年」と答えるだろう。
2014年、私はそれまで抱き続けてきた価値観の転回を迫られることになる。それは“コペルニクス的”とも形容可能のまさに“大転回”であり、その転回は、後の私の生き様までをも、ガラリと改革せしめる、人生における大事件であった。2014年までの私は、自身の存在価値を「試験で良い点が取れたか、否か」という一点のみで決定するような人間であった。口先では「皆違って、皆良いんだ」などという言葉を放っては善人面をしていたが、内心では眼前の他者が自身より試験の点数が低いことを知ると、自身の存在価値の相対的な大きさが鮮烈に実感せられ、物凄い安堵感を覚えていたものだった。従って、私は自身の存在価値を決定せしめる受験勉強に、相当拘った。自身の理想とする自己像を予め設定し、その実現に向かい、必死に努めた。予備校浪人はおろか、“仮面浪人”などという無茶をしてまで、必死に拘り続けるほどに、人生を賭けたつもりであった。しかし、天は私のその傲慢を許さなかった。「枝から離れたリンゴは地面に落ちる」という至極当然の基本的な古典物理学の法則は、私のその思い上がりを完膚なきまでに蹴散らした。私は大学受験に完敗し、自身の理想の生活を手放さねばならない境遇に置かれ、以て自身の存在価値を失ってしまった。何故。こんなに頑張ったのに。私は気が狂いそうになった。話が違う、と思った。「努力は必ず報われる」のでは、なかったのか。これまでの辛抱が、何も実を結ばないなどということが、あっていいのか。あの言葉は嘘だったのか。「努力は必ず報われる」という言葉の裏切りは、当時の私にとって大打撃であり、以上をもって、これが私に提示された一つ目の教訓として、価値観の大転回の始まり、きっかけとなったのであった。努力は必ずしも、報われるわけではない。今にしてみると当たり前の古典物理学を、私はこの場でようやく理解することとなった。プロ野球選手になりたくて、一生懸命練習に励んでも必ずしも夢が叶うわけでないことを知っていながら、それが勉強にもそのまま適用されることに、それまでの私は愚かにも、殆ど気が付いていなかった。この過剰な“努力信仰”への妄信からの脱却は非常に辛かったもので、長年その思想に仕えた者として、「騙された!」と心から叫べたならまだ良かったのだが、当時の私の心境としては、「ああ、そうだったんだ」という静かだがとても深い諦観、落胆があるばかりで、以降これが心に湿った気怠さをももたらし続けることとなった。失意のドン底とは、あの時のような心境のことを言うのかも知れない。
人生の転換期における学びはそれだけに留まらなかった。私はその後の大学生活で、実は自身がそこまで勉強の出来る人間でなかったことを思い知らされた。この事実も、大変な衝撃を私に与えた。というのも、私は幼少期より、試験で点を取ることばかりを考えて生きてきた人間であり、現に長年の鍛錬(と、かなりの好運)の甲斐あって、試験では(一般的に見れば)そこそこの結果を出してきたつもりであった。確かに実感としては周囲の人間に比べ頭の回転が悪いことはある程度自覚していたが、まさか同じ土俵で戦うことにこれほどまで苦労し音を上げねばならぬほど、頭の回転の悪い人間であるとは考えていなかった。そのため、大学にいる周囲の人間と比して、自身はあまりに脳みそのシナプス結合が少ないのではと考えさせられる経験を何度もした上、少なくとも当時の私の出来得た努力だけを以てしてはその溝を埋めることの出来ない事実を突きつけられたことは、謂わばもう一つの大切な信仰さえ奪われてしまったような、痛烈な打撃となったのであった。ここで私は、乗り越えがたき先天的な脳の器質差について、まじまじと考えさせられることとなった。努力が必ず報われるわけでないのは、生まれ持った各々の脳や個体の器質の差に大きな開きがあり、それは「努力でプロ野球選手になれるか」、「努力さえすれば皆東大に合格できるか」といった大きなスケールの世界に留まらず、「同じ野球部員間における個体差」、「同じ大学生間における器質差」などといった小スケールの世界であっても、覆すのは容易なことではないという学びを、この一件を以て会得したわけである。
2014年は更に多くの学びを私に与える。私は、努力が報われず夢破れ、それどころか更なる困難を大学生活で被ることとなった自身の境遇をとても理不尽なものと感じ、その嘆きが昂じるあまり、遂に自身の人生に対し相当投げやりな状態になってしまった。内面の腐り果てた私は、自身の幸福に関するあらゆる努力を放擲し、次第に堕落していった。これは一種の自傷行為であった。この堕落の目的は、形而上学なる存在に対する抗議のつもりであった。何故、「勉強を頑張った」だけの無害の、いや寧ろ高尚なる人間に対し、これほどの仕打ちを与えるのか。私は何か悪いことを企んでいましたか。気に入らないことをしたことに対する罰なのだろうか。ふざけてはいけない。そちらがそのような態度で私に対峙するのであれば、お望み通り、こちらはふて腐れ、ダメ人間となることで応戦いたしましょう。勤勉なる真面目な人間をこのようにして叩き潰すような真似をすると、それに応じて、抜け殻のような不真面目な人間が量産され、そちら側にとっても、メリットの無いことを思い知らせてやろう、といった魂胆と、恐らくは学習性無力感のような精神状態が相まつことによって、私は自身の幸せを放棄するようになった。徹底的に、人生を楽しむ努力を放棄した。あらゆる享楽の予兆を冷笑で以て笑い飛ばし続け、決してそれらを受け取ろうとしなかった。その結果、こんなことばかりは見事お望み叶って、私はますます不幸になった。ほぼ、楽しみのない生活。ただ、自身の学問における無能さに涙をのんで忍耐するばかりの毎日。私はあまりの苦しさに耐え切れなくなり、一時期は人生そのものをも投げそうになるまで、精神的に追い込まれてしまったのであった。私はその経験から、その後少しの休息期間を経ることで、新たな一つの教訓を得ることとなった。自分自身で人生を諦めてしまったら、そこからなかなか這い上がることは出来ない。結局、いじけていたって、仕方がないのである。どんな不条理に苛まれようと、天を呪い、運命を呪い、自らが腐って、人生を投げ出してしまったら、何も良いことは起こらないのである。どんなに理不尽を感じようとも、現状の好転に向け、どうにかして立ち上がって前を向く努力、姿勢が必要なのである。そうでないと、いくら誰かの情に訴えようとしたって、天は、物理法則は、私を幸福に導いてくれることはない。ただ、不幸にするばかりである。努力は必ずしも叶うわけでないが、せめて堕ちないための努力は、最低限必要なのである。以上のような一つの教訓を得た。この一件は自身の中で、本当に大きな学習となった。おかげさまで私は、2014年以前(厳密には、その教訓が活きることとなる2016年前後)に比べると、随分精神年齢がまともになったと自分でも思っている。その後の人生において嫌なことがあった際も、それからの私は簡単には折れないようになった。この精神的成熟が満たされないままであったら、私は後に訪れることとなる研究生活を乗り切ることは出来なかったであろう。
他にも2014年の出来事からは、色々な置き土産を貰った。それまで抱えていた自信の喪失に伴う人格の変化、定期的に訪れる“生”に対する気怠さ、人生に対する一定の諦観、そして客観性の体得。一見すると悪い事柄の羅列であるが、これらの置き土産のお蔭で、私は自己肯定感が失われた際の日常パフォーマンスの低下について身をもって実感することが出来、そのような事情により本来の力の出せていない人のことを単なる“気のせい”等の一言で一蹴するような真似をしなくなったことは大きな収穫であるし、定期的に訪れる気怠さに関しては、そのやり場のない虚無感を創作(本ブログでは、『出口の見えるトンネル』がそれに該当)にぶつけることで強い感情の吐露を伴う作品を創り上げることが出来たわけで、意外なことにこういった負の感情も何らかの収穫の材料となり得ていることは確かで、まあ、これらの置き土産がデメリットとして働くことは確かに多いのだけれど、なにも悪いことばかりではないと考えている。これらも自身の精神的成熟に一役買っていると考えれば、悲観ばかりする気はなくなってくる。
畢竟、人生の転換期である2014年以前、以後の私自身は、それぞれ全くの別人であると思っている。アメブロ時代の記事を見ると一目瞭然で、この頃は今と比較するとかなり未熟な発言が目立つ。私は怖さと羞恥のあまり、当時(2013年~2014年)に自身の書いた記事を再読することが出来ない。当時の私と比べれば、今の私は仙人にでもなった気持ちである。

このように、私は様々な経験から色々の思考の転換をすることになったわけだが、私は人生における様々の出来事と、それに対処し新たな自分、思考を作り出すというこの一連の流れを、いつしか「人生の課題」と呼ぶようになった。精神的に未熟である自己が、その未熟さ故に何らかの困難に見舞われたとき、きっとこれは、その出来事を機に何らかの学びを得るよう求められているサインなのだと、解釈するようになった。大学に落ちたのは自身の偏った価値観を改めるため。苦痛に塗れた大学生活は自身の認知の歪みを自覚し、感情の制御術を体得するため。精神的に追い込まれた経験は、同じような境遇の人の気持ちを理解し同じ立場に立てるようになるため。そしてそれらを通じて得た精神的成熟を世の中に様々な形で還元し、人様の人生の改善に貢献していく。斯くの如く、自身の人生における課題をこなし、その結果を何らかの形で世の中に還元することで人々の幸福に少しでも貢献していくことが、私はなにも自分のことに限らず、人間たる存在の、生きることの意味だと考えている。

そのように人生の意味を捉えると、人生において無意味と思われる出来事に対し、何らかの意味を見いだせるようになってくる。私の場合、一見すると無駄のように思われた受験勉強も、理系の勉強をしながら結局それと全く関係の無い業界の仕事に就いたのも、そしてその仕事を生涯の生業には現状どうも出来そうにないことも(苦笑)、過去の自分よりもより良い人格を備え、その後の人生でもっと高いパフォーマンスを発揮するために必要不可欠の過程だった、ないし過程であると考えると、「全くの無駄だった」、「全く無駄なことだ」等と断ずることは嫌でも出来ないなと思うのである。
従って、私は何か苦しいことが自身の身に降りかかってくると、勿論ある程度嘆き悲しむことはするが、それでも必ず、頭の片隅には「自分はこの経験から、何を学ぶことが求められているのだろう」と考えるようにしている。研究生活で経験したあらゆる災難も、就職後に現在進行形で実感することとなった業界のマイナス面も、そこから何かを学ぶことを期待されていると考えて、例えば研究生活では感情制御術の体得、仕事では自らの学習の成果発揮の場といったように、なるべく自分の糧に出来るよう努めているつもりである。決して悲しみの感情ばかりに飲み込まれることなく、幾分の客観性を持ちながらその出来事を見つめ直す姿勢は、自身の人生をより良い方向に進めるために非常に有効な手段であると考えているし、きっとその過程で得られた教訓は、その後の自身の人生において何らかの形で活きてくるのだと思う。そしてそれら種々の教訓の集合が各々のより深い人格形成に一役買うこととなり、それらを周囲に還元することにより、周囲が豊かになるだけでなく、その豊かさが自らにも巡り巡って返ってくることとなる。そんなことを、しばしば考えながら生きるようにしている。私は学生の好みそうな綺麗言群、美辞麗句になかなか賛同できない(できなくなってしまった)人間なのだが、一つ、「人生に無駄なことはない」という言葉については、これは上に述べた通り、素直に賛同できるのである。少々、考えが甘いだろうか。それも今後得られることとなる教訓によって分かってくるだろう。

ざっと私の人生観について書いてきたが、もちろん、各々の人生で、「人生の意味」、「人生の課題」は異なってくるはずである。どこぞのサイトで書かれていた例を挙げるなら、それこそシェフになって美味しい料理を提供することで人々に幸せを与えることがその人の人生の意味になってくるだろうし、もっと通俗的な例を挙げるなら、早々に結婚し幸福な家庭を築き上げることが人生の意味となる人もいるだろう。「生きる意味は何ぞや?」といった哲学的な問いに対する回答を得られない方は、それぞれ、自分がこの人生で果たすべきことは何なのだろう、自分はこの世界で、何を残すことを求められているのだろう、と考えることが、その回答への鍵になるかもしれない。ポイントは人生の転換期であると考える。多分私のブログの読者は、決して一筋縄ではいかない人生(ここは表現が難しい。これではまるで単純な人生があるかのような物言いだ。単なる便宜上の表現と捉えていただければ。)を送られている方が多くいらっしゃると思うので、もし行き詰った際、少し心に余裕のある時は、このような考えを頭に留めていただけると少しは人生を俯瞰することができ、幾分状況が緩和されるかもしれないので、是非試していただきたいなと考えている。たとえ努力や忍耐の結果が思っていたような結果を伴わなかったとしても、どうか人生を諦めないでほしい。一見進んでないように見えて、実は大きな前進をしている可能性が高い。

先程、私は自身が4~5年前記述したブログを「未熟」だと発言したが、2014年当時の私とて、その4~5年前に自身の日記に記述していた自らの発言を同様に「未熟」だと思っていたし、そもそもそれらを書いている瞬間は、確かに自分で“正しい”と思ったことを結構大真面目に書いていたつもりであった。きっとこの現象は今の私についても同様に言えることで、今は自身の現状で持っている考え方が“正しいもの”と一応認識してはいるが、5年後の私は今の私の発言を「未熟」だなどと、きっと何らかの根拠で以て断じているはずである。そういうわけであるから、私が現在「真実」であると思ってこうして記述している事柄も、5年後10年後にはどのようになっているかは分からない。しかし、“今の自分のレベル”でないと残せない言葉というものは確かに存在して、それがたとえ5年後10年後に否定されるものであったとしても、その時々の精一杯生きた証として、このように、文章という形として残していけたら良いなと考える今日この頃である。




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