底から生まれるもの4

この記事では、自身が生来有することになった知能の低さ(正確に表現するならば、知能の凹凸)とネガティブ思考、それに伴い生ずる精神的疲弊により、遂に自殺企図に至ったまでの過程を書いていこうと思う。

 

私は、かなりのネガティブ思考の持ち主である。簡潔な文章で表現するならば、「一ヶ月後の享楽よりも、明日の憂鬱。明日の享楽よりも、一ヶ月後の憂鬱」を思い煩い、必要以上に心的疲弊をする人間である。この傾向は多分昔からそうであったのだが、大学生になってから一段と強く表れるようになった。過去の失敗経験蓄積の産物であろう。

更に私には、「不確定未来に対し必要以上の悲観視をする」という悪癖がある。未だ怒られてもいないのに「明日の実験で教授に怒られたらどうしよう」などと思い煩う。講義で演習があると決まったわけでもないのに、「この講義の後半で演習問題が課され、そこで皆に置いてきぼりを喰らったらどうしよう」などと思い煩う。すなわち、杞憂の連続である。現実で「怒られ」たり「置いてきぼりを喰ら」う事態に発展してから大いに悩めば良いものを、私は、怒られる材料、ないし置いてきぼりを喰らう材料を手にする前から異常なまでに怯えていた。これでは疲れるわけだ。私は、特に人間関係絡みの諸問題については非常に打たれ弱い人間である。幼少期から、人様が自身に対し否定的な所感を抱かぬよう、人様の顔色をうかがい窺い生きてきた。それ故、教師を始めとする大人達に「良い子」として扱われてきた。それどころか、付き合ってきた友人と喧嘩をしたことさえ殆ど無かった。従って、少しでも他者が自身に対し否定的な所感を抱いている素振りを見せようものなら、それを敏感に察知し、深く傷付き、いつまでも引きずる性格をしている。 

そして私は、私の知能は、大学で必要とされる水準を恐らく満たしていなかった。私の知能をWAIS-Ⅲという知能検査に基づき科学的に算出された数値データで表すと、以下のようになる。
知能指数(IQ)(※平均値100,標準偏差15)(※参考:90109⇒平均的、8089⇒平均下、7079⇒境界域、69以下⇒知的障害)
言語性検査:106
動作性検査:80
全検査:95
群指数
言語理解:105
作動記憶:103
知覚統合:66
処理速度:92
上記の結果で特に目に付くのが、知覚統合能力の低さ(具体的には、下位項目の積木(3/19)、絵画(4/19)の低さ)である。何とこの知覚統合、下位2.2%未満の水準であった。手元の知能検査報告書には、「想像力の低さ」により「目の前の物以外の物を想像することや、指示を頭の中で動画として処理する能力に乏しい」ことや、「統合力の低さ」により「情報をまとめて解釈したり、情報を繋がりの中で理解する能力に乏しい」、更に「一度に二つ以上のことを進める能力に乏しい」といった記述がなされている。すなわち私は、非言語的な課題を解決する能力に著しく乏しい――化学実験を周囲の人間と同水準で遂行する能力に著しく乏しい――人間なのである。検査結果を基に考えるならば私は、作業内容が具体的なルーティンワークとなる世界で初めて輝く(≒自身の不得手な能力とあまり向き合わなくて済む)人間なのである。少なくとも、抽象的指示内容を頭の中で分解しそれらを再構築して適確に作業を行ったり、頭の中に映像を留めそれを基に作業を進めていく能力の必要とされる化学科の世界では、やっていけぬ頭をしていた。
これは余談であるが、この検査を受けた病院で私に発達障害の診察は下りなかった。強いて言うなら軽度学習障害と言えるが、取り立てて騒ぐほどのものではなく、それすら診断不要なもの(どうしても必要となれば下りるが)であるというのが医師の見解であった。
このように、自身の弱点が明るみに出やすい環境下で、しかし人様から負の印象を与えられぬよう頑張り続けることで、かなりの心的疲弊を蓄積していたのであった。まさに私にとってこの行為は、自身の身の丈を遙かに超えた大事業であった。精神的に疲弊するのも、無理はない。

知能検査結果が出たのは20159月、大学三年生の夏休みのことであった。この頃の私はもう、以前のように三年生後期の化学実験に向けた実験準備に取りかかる気力は残っておらず、ただお昼過ぎに起床し、自動車学校へ通い夜帰宅しネットサーフィンして眠るという味気ない毎日を送っていた。

三年生前期の生活は、散々であった。常に化学実験で周囲の迷惑を掛けるのではないか、恥を掻くのではないかという憂慮に囚われ、講義の時間では周囲に比べて明らかに飲み込みの遅い自身を悲観し、将来に明るい希望を全く持てず、生きている理由も分からなくなって、「自身の生きる理由」について考察することに随分長い時間を掛けるようになっていた。

遂に、あまりのストレスから大学に通えぬ日が数日出てしまい、そんな不甲斐ない自身に対する嫌悪感が頭を支配していた。

自己否定感が強くなっており、顔を上げて歩くこともままならず、他者と関わる際も、内より生ずる卑下の情からこれまでよりも一層オドオドと、自信の感じられぬ言動を取るようになっていた。

自身は、この世に存在する殆どの人間に総合力で負けているという思考が頭を占めていた。

常に頭に靄がかかったような感覚を覚えており、頭の回転が健常時のそれよりもかなり低下していた。

大学へ通うことはおろか、大学のホームページを見るだけで、気分が異常に重たくなった。

体の芯に、邪悪な気を纏った比重の大きな金属が巻き付き、それが周囲の嫌な、不快な水気を吸い込み膨張し、体全体を圧迫ているような気分の悪さに襲われていた。

自殺について色々と調査を始めるまでに至っていたが、実行するための勇気が湧かなかった。ここで、自殺のために必要なものは「勇気」ではなく「狂乱に基づくある種の勢い」であることを知った。自殺を踏みとどまらせたのは、単に死ぬことが怖かったからという理由もあるが、外見上、健康体そのものである自身の体を傷付けることに、相当の抵抗のあったことが大きかった。また、自身の価値観の置き方次第で、人生が良い方向へ転じる可能性のあることへの理解があったことも、理由の一つであった。これらの理屈を超えて実行に至るまでには、未だ発狂具合が足りなかった。

今の自分が、何らかの精神の病気に罹患している、または自身の脳みそに何らかの障害があったならば、どんなに救われるだろうかということを、日々考えていた。今自身の抱えている諸問題が、自身の「甘え」だとか「性格の問題」、「努力不足」として片付いてしまうことに対し、物凄い恐怖を抱いていた。もし私の悩みがただ自身の甘えによってのみ生じているのならば、私はただの我が儘人間、ただのクズ人間ということになり、それこそいよいよ、自身の存在価値が全く無くなってしまうことになるからである。この問題の根本に、自身の“努力不足”以外の原因が潜んでいて欲しかった。その大義名分となる心の病か、障害が、自身の言い訳材料として必要であった。「それならば、しょうがないよね。ゆっくり休みなよ」または、「退学して別の道を歩むのも手だよ」と言って貰えるような何かが、欲しくてたまらなかった。

この環境から、逃げ出したくてたまらなかった。毎日、中退のことを考えた。しかし、大学を中退した者に対する世間の風当たりの強さを記述したホームページが脳裏に焼き付き、また、この期に及んでも過去から積み上げてきたプライドを捨てきれなかった臆病者の私は、その選択を全く除外せざるを得なかった。もっと言うと、ただでさえ無能の私が、「大卒」という肩書きを放棄した後は人生が今よりもっと凄惨なものになるのではないかという懸念が、全く拭えなかった。

自分には、存在価値がないと思われた。なにも、自身が無能であることによって存在価値が全く消失しているわけではない。無能であるにも関わらず、これまでのプライドを自身の実力相応の程度までに捨て去ることを躊躇う自身の社会不適合的気質が、何より自身を存在価値のない者せしめているよう感じられた。恥を掻かずに生きていきたい?――馬鹿野郎。無理に決まっているだろうが。

前期のこの調子を維持したまま、後期が始まった。後期になると、来年三月に迫り来る就職活動に対する懸念も加わり、これが徐々に徐々に、自身の内面を蝕んでいった。就職によって、いよいよ自身の将来が大きく変わることになる。しかし、就職活動をするだけの気力は当時の私に残っていなかった。そもそも自身はこの知能を以てして、何を志せというのか。考えることすら億劫であったため、この問題には目を瞑り続けた。斯くの如く私は周囲の同級生よりも、就職活動に不熱心であった。就職活動以前に、これまでの――勉強により一流ではないものの決して悪くはない大学に籍を置いている、否、それ以上の大学を目指していた時期が過去にあったのだという下らぬ――プライドと、実際の自分の実力の間に生じている大きなギャップを埋める必要のあることを自覚していたのだが、それすら行わなかった。行う気力がなかった。ただ、今までと同じように大学の講義と化学実験、それに伴うレポートの作成、そして就職活動をてんで行わぬ自分に対する自己否定感により大きく疲弊する生活を送り続けるだけで精一杯であった。毎日が苦痛で仕様がなかった。

そんな現実への数少ない逃避手段は、ネットサーフィンと過去の回想であった。現実世界がこうも色褪せていると、過去の自身が妙な輝きを伴って思い返された。「あの頃は楽しかったな。あの頃に戻りたいな」というのが、私の口癖ならぬ、「思考癖」であった。

冬が訪れた。周囲が平然とこなせている事柄を、自身はこなすことの出来ない現実は相も変わらない。いや、「平然と」等と表現したことについては、その頑張っている周囲の皆に対し失礼であり、詫びなければなるまい。傍から見れば「平然」に見えても、内面では皆必死にやっているのだ。皆、必死こいて平凡な生活の維持に向け奮闘しているのだ。それなりに苦しみながらも、歩みを前へ前へと進めているのだ。自重しなさい。お前は、その「必死に就活をやってみる」という行為すら出来ていないではないか。ただ、「これ以上は頑張れない」と苦痛に表情歪めて何かと理由を付けては、就活から逃げているだけだ。「当たり前のことを当たり前に出来ない自分」を変に特別視して、「当たり前のことを必死に実行する周囲」を妬むのはやめなさい。このことに関しては、単なる貴方の努力不足です。同情の余地など、ありません。
――いいえ、私は、もう限界なのです。日常のあらゆる事象における自身の体力の削られ方が、他の人のそれとはまるで違うためです。これは、自惚れではありません。大抵の人が、朝起き、大学へ通い、就活をし、実験をし、帰宅するという一連の生活の中で消耗する体力と、自身のそれとは、大きく異なっているのです。余力が、無いのです。皆にとっての「当たり前」は、やはり私にとっては「当たり前」ではないのです。たとえ一般的に何のことはない、体力の殆ど削られぬ小さな課題であっても、日常生活を送るだけで体力が0になっている人間には、とても取り組めるものではないのです。それを、「あいつはこれだけの事も出来ないのか。とんでもない駄目人間だな」などと酷評することは、惨(むご)いことです。あんまりです。
――それならば、もう下らぬプライドは捨てて、自身の身の丈に合った人生を歩まれなさい。幸いにも、ここは日本です。出来ない人間には、出来ない人間なりの生き方で食べていくことができる。
――それは出来ません。プライドが許さないからです。私はプライドだけは一丁前の、格好付けなの、ナルシストなのです。
――それでは、どうするのです。
――死ぬしかありません。

周囲の人間に比べて著しくパフォーマンスの劣る者を、「努力不足」の一言で以て叱責し軽蔑することは簡単である。しかし、その叱責かつ軽蔑され得る彼、彼女が、実はその劣ったパフォーマンスすら死に物狂いで出していたとしたならば、そこから必死に出されるそれを「努力不足」の一言で以て片付けてしまって良いのであろうか。
表層の実績のみに囚われるなかれ。」
――
というのは、所詮理想論かも知れぬ。現実、このことを心掛け生きていくことは、自らも含め非常に難しいことである。当時の私にも沢山の非のあったことは誰の目からも認められるであろう。しかし、その非に照準を当てられ、糾弾されるばかりで、日々精一杯に生きているという蔭の努力が全く黙殺されてしまうことに関しては、なかなか、堪らないものがあるというのも事実である。私は決して、頑張っていないわけではなかった。現状維持という行為を、頑張っていたのである。現状打開に費やすエネルギーは、残っていなかった。

2016124日、日曜日のことである。この日、遂に自身の自殺を思い留まらせる枷が外れた。
この日は、翌日以降に控える後期期末試験の勉強に充てるつもりであった。試験勉強のため重い腰を上げ、机の前に鎮座し、テキストを広げた。しかしながら、この時はもう、自身の脳みその、あらゆる努力に対する拒絶反応というものが非常に強くなっており、眼前の活字をいくら目で追っても、意味が頭に入って来なかった。どうにもこうにもその状態を抜け出すことが出来ず、どうしようもなく、諦め、自室のベッドにバタリと仰向けに倒れ込んだその瞬間である。死のう――と思った。「死にたい」ではない。「死のう」と思ったのである。自身の精神は、既に限界を迎えていた。“頑張って生きる”ということが、面倒くさくなっていた。私はもう、頑張れない。頑張れない人間に対しても、容赦なく迫り来る定期試験と就職活動。この定期試験で単位を取得出来なかったならば留年が待っている。また就職活動で失敗したならば、今よりも凄惨な未来が、きっと待っている。もう、ダメである。ここまで苦しんで人生を送ることに、疲れ果ててしまった。こんな人生、頑張って送るだけの魅力がまるで無い。捨ててしまえ。自らの手で捨て去り、楽になるのだ。今なら、自身のプライドを守るため切腹をした武士の気持ちが分かる。惨めな人生を卑屈にだらだら送り続け恥の上塗りを続けるくらいなら、未だ綺麗な部分を残したまま、散ってゆきたい。

この時の私は、得意であった。遂に、最大の障壁であった生存本能を克服し、自身がこれ以上惨めな身になることに自ら終止符を打てることを、誇らしく思ったからである。
だが、この時それをすぐに決行するだけの狂乱は、自身の内に存在していなかった。本当のところ、そうは言っても出来ることならば死にたくはなかったのである。就職活動が本格化する三月までは、“自己憐憫を理由に好き勝手生きようと決めるだけの冷静さが、自身の中に残っていた。これまで、散々駄目だ駄目だと自分を罵ってきたけれども、そんな私も、ここまで頑張ってきたではないか。よく耐えてきたではないか。この二月は、そんな自分自身に対する、お疲れ様の気持ち、ささやかな平穏のプレゼントとして、自身に贈呈しようと思った。冥土の土産に、好き勝手やると良い。真っ先に私は、遺書を作成しようと思った。が、この作業は難航した。出来るだけ自身の自殺に至るまでの経緯を詳らかに書き綴り、「周囲から見れば甘ったれているように思われただろうが、私はこんなに苦しんでいたのだ」という事実を知って貰えるよう努めようとしたのだが、その作業ですら気力が追いつかず、全く捗らなかった。辛うじてベッドの上でネットサーフィンは出来たので、そこで死に関する様々の事柄を調べていた。そんなことばかりに、貴重な二月を費やしていた。

ただ面白いことに、このような悲惨な状態でも週三日のアルバイトには律儀に行っていた。そんな性格をしているから、ここまで追い込まれてしまうのである。アルバイトで稼いだお金で以て、家族に美味しい食事を御馳走した。「急にどうしたの」と驚かれた。私は「不出来な子供に生まれて、ごめんなさい」という反省の気持ちから御馳走に至ったわけであるが、まさかその場でそう応えるわけがなかった。その場は適当な理由でやり過ごした。悲しい食事であった。

毎日、夜になると死ぬことに対する物凄い恐怖が襲いかかってきた。昼間はさほどではないのだが、兎に角夜が酷かった。死ぬのが怖く、何とか生きる道を模索するものの、結局は現状打開に向け気力を振り絞ることが困難であったため、結局はこのまま何もせず死へと向かっていく自分を肯定するような結論で毎度締めくくった。自身が自殺をしないで済む方法は、簡単なことなのである。「心身の休養期間を設け、その期間中の努力によりプライドを捨て、身の丈に合った環境で慎ましく生活をすることを是とする価値観を身に付ける」――これだけなのである。ここは日本。下手なプライドさえ捨てられたならば、いくらでも生きる道はある。しかし、「今の自分には幼少期から当時に至るまで自身を支配していた価値観を捨て去り、新たな可能性を探し求めるだけの気力体力行動力を回復させるための休養期間が必要であり、従って大学を休学させて欲しい」と両親を説得するだけの気力が残っていなかった。そんな願望、あちらからすれば馬鹿らしくって聞いちゃいられないであろう。それをどうにか理屈で説得せんと試みることは、嗚呼何という大業であろう。このように、どうしても“面倒くささ”が勝ってしまい、結局は「死を以て楽に終わりにしてしまおう」という結論に行き着くばかりであった。

毎日、悲しくて仕様がなかった。自身の知能と、それに見合わぬプライドを有するまで努力を継続してしまった自分自身を嘆いた。「自殺は悪であり、自殺をした者には罰として更なる苦しみを与える」とする形而上なる者が、私を自殺するような罪深き人間として存在せしめた事実を心底憎んだ。この悲しみを涙で以て流してしまいたかったが、どうしても泣くことは出来なかった。ただ、心に大きく陣取っている悲しみをどうにかしたくても、そのやり場は何処にもなく、結局、胸に再度しまい込むばかりであった。

誰かに、「ここまでよく頑張ったのだから、ゆっくり休んで良いんだよ」と言って欲しかった。しかし、私の現状を「甘え」以外の認識で以て支えてくれる人の存在など、身内を含め、到底考えられなかった。

三月が訪れた。いよいよ就活解禁である。私は合同説明会に行く振りをして、死のうと思っていた。しかしその前夜、睡眠導入剤と精神安定剤を飲み過ぎ、そのくせ殆どその晩は眠られず体力に限界が来ていたせいか、朝身支度を終えたリビングルームで、ばったり意識を失ってしまった。とは言っても、ただ寝入ってしまっただけの話である。
ただ、これは何の巡り合わせか知らないが、昼前に、普段は仕事に行っており家にいない母親が忘れ物を取りに偶然家に帰って来たのである。そこで就活をせずにリビングルームで寝転がっている私とご対面、その結果、激怒した。「貴方はいつまでそんな事をしているの」。言い逃れの出来なくなった、本当は死を心より望んでいない自殺企図者は、遂に重い口を開け、事の経緯のほぼ全てを、その場で説明した。母親は仰天した。その後この一件は、家族間で大事(おおごと)になった。

その週の週末に私は過去知能検査を受けた病院に連れて行かれ、両親はそこの医師から私の先天性の能力の凹凸の存在や、それに伴う大学生活での様々の困難の生じていたこと等を聴き、ここで初めて両親は、私の置かれた状況に理解を示した。「今まで理解しようとすらせず、申し訳なかった」と言われた。それに対し私は「仕方の無いことだよ」と返した。本当にこればかりは、経験した者でないと中々分からぬ、仕方の無いことなのである。
私はこの日、人生において最も惨めさを感じた。精神病院の中、体だけは大きく立派な成人と、その両隣に佇む、年老いた両親。私は、自身が肉体的には生き残ったが、社会的に死亡した身になった感覚に陥った。
強烈な劣等感、惨めさを感じた。I am 廃残者。そこに、「他者から羨ましがられる人生」など、どこにも存在していなかった。

話し合いの末、私は半年間、大学を休学して休養を取ることとなった。この休養期間を経て、私はこれまでの自身の価値観の転換に努め、またメンタル面を鍛え上げ、徐々にどん底から回復へと向かっていく。一回りも二回りも強くなった自身は大学へ復帰し、そこから待ち受ける研究生活や就職活動と対峙する。




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