真の優しさ


純粋に他者を思い遣るというのは、なんと難しい行為だろうか。どんなに注意をしていても、どんなに気を付けていても、私は、「情けは人のためならず」を意識からまったく除外して、他者に思い遣りを示すことが出来ない。私の見せる優しさには、私の見せる優しさの蔓の後ろには、必ず、下心が付いている。私が心優しく接することで、その受け取り手側が、私にとって都合の良い方向に変わってくれるだろうという期待の下心が、付いている。だからそれが満たされないとなると、途端に私の優しき態度は一変、憎悪の感情を沸々とさせた冷たい人間に早変わり。これが「愛と憎しみは紙一重」の正体か。人のためを思って優しくしているのではない。人のためを思って行動する自分が損しないことを第一に考えた結果、優しさが表面に表れているのである。この条件付きの優しさは無論、“真の優しさ”とはなり得ない。

期待をかけて身を粉にした行為が徒労に終わると、かなりの心的ダメージを伴う。エネルギーを費やし、かなりの精神を削ってまで取った言動が、何も自身にとって利益となるものをもたらさなかったとき、精神的に相当の打撃を受ける。その心的ダメージが、対象となった人物への失望感を生み出し、その感情が、優しさを提供する意図にそぐわぬ、非合理的な行動となって表れる。最近の私は、こんなことばかりを繰り返しているのである。この一連の仕組みは理解しているはずなのに、体が、精神が、実力が、それに追いついていかないのである。実践することの、難しさ。25歳。まだ、“真の優しさ”を実践するには若すぎたか。まだ人生経験に乏しかったか。はたまた未熟な感情制御能力のキャパシティを超えた無謀な挑戦をしようとしてしまっているのか。

例を挙げる。
強度行動障害を持つAさん。ある日の朝、不満顔で何かを訴え続ける彼。人への他害行為も激しく、それだけに止まらず、周囲のテーブルや椅子までもひっくり返し、けたたましい衝撃音を施設内に響かせている。何とかしなければいけない。しかし言葉によるコミュニケーションは難しく、他の手段を図ってみるも、上手にコミュニケーションを取ることが出来ず、さっぱり相手側の意図することが分からなかった。もう、どうしようもない。今出来ることは“彼の気持ちに理解を示す言葉を掛けること”くらいしか思い付かなかった私は勇気を出し、荒ぶる彼と目の高さを合わせ、彼の“何かを訴えてもそれが実現しない現状”に対する理解の言葉を掛けることにした。思いが伝わらず、しんどいよね、と。共感は彼に救いをもたらすと考えたのである。相手の欲求不満を癒やし、少しでも楽になって欲しく、彼に掛けた共感の言葉、これが私の見せたできる限りの「優しさ」である。多大なるエネルギーを費やし、相手に向けた「優しさ」である。しかしこの優しさには裏があった。「この優しき言葉が相手の心に何かしら良い作用をもたらし、彼の興奮を幾らか和らげてくれるだろう」という下心である。この下心が後に不幸を誘発する。彼の反応はその願望に反したものだった。彼は不快感を示す(正確には、示していそうな)大きな声を挙げ、私を思い切り、何発も蹴飛ばした。ショックであった。しかし怯まず、蹴られながらももう少し言葉を掛けてみた。何かいい方向に変わってくれれば、そう期待しながら。けれども甲斐なく、彼は怒った(正確には、怒っていそうな)表情そのまま私の手の甲、腕に爪を立てた。皮膚が破れ、鮮血が噴き出す。その血は酸素と結合した後赤黒く色を変え、血小板因子がその赤黒くなった血を固める。本来つくはずのなかった不必要の傷。同様の赤黒い傷跡を4カ所頂戴したところで、私の集中力はプツンと途切れた。息つく暇もなく自身の願望とは反対の行為を受け続けたことで、感情制御機能を作動させる時間的猶予がなく、感情的になる自身を止められなかったのである。途端に「痛いよ。そんなことしても何の解決にもならないよ」と冷たく吐き捨て、相手を突き放し、この、先程まで優しさにより相手と築こうとした関係を打ち壊すような非合理的行動を以てこの一幕を終えてしまったわけである。不完全な慈悲の気持ちが招いた惨状。これでは本末転倒である。相手が「不満を持っていることを表現できる」関係、状態というのは決して悪いことではない。相手が「この人何するか分からなくて怖いから自分の気持ちは押し込めていよう」と思われていないことは、少なくとも悪いことではない。その不満の表現がいかなるものであっても、否定せず優しく包み込むような関わりを持って行きたい、そうした理想論を私は掲げていたはずである。しかし実際は、それと真逆の結果を招いた。怒りの冷たい言葉によって相手をコントロールしようとしてしまった。「この人怖いから自分の気持ちの表出は控えよう」と思われる、怒りによる支配街道まっしぐら。そんなことなら始めからわざわざエネルギー消耗して優しさなんて見せようとする必要はなかったのだ。下手な偽善が寧ろ関係悪化に繋がる、良い例である。気を付けるべし。

さて、こうした「下手な偽善」から生じる「非合理的行動」抑制への対処だが、自らの取らんとする、ないし取った言動に対する動機、結果を考えた際に表出してしまう感情をなるべく排除することが重要だと考える。つまり自身のこれから見せんとする優しさが「報われてくれる」とか、「相手に響いてくれる」といった結果を招いてくれることを全く期待しないことが大事なのである。この期待の下心こそ、その結果を得られなかった際に伴う「非合理的行動」の原因である。よくなってくれることを相手に期待するから、それが叶わなかったとき、まるで「裏切られた」ような気持ちになるのだ。勝手に期待されては、勝手に失望される人間の心の痛みを知っているはずではなかったのか?自分が同じことをしてどうする。問題解決、事態収拾のために講じたあらゆる手段の上には何の感情も乗せず、ただ、それにより出た結果のみを冷静に、客観的に分析する。状況改善のため、親切な言葉を掛けてみた→しかし相手の興奮の鎮まる様子は見受けられない→別の手段を考えよう。今回の一件は、それっきりにするべきであった。「この親切はきっと花開く」という感情は、災いの元である。そんなもの、多くの場合「折角ここまでしてあげているのに何だよその態度!」といった怒りの情を誘発しておしまいである。自分で「これが良いだろう」として考え抜いた言動を他者に取る瞬間には、あらゆる期待、下心、感情を打ち捨て、決して相手に自身の意図した結果を見せてくれることを無言の内に強制してはならない。優しさに、献身に、ストーリーを求めるな。時間軸を設定するな。ただ一点の刹那のみに集中せよ。たとえ悪しき結果を招いても、「誤っていた」、「正しくなかった」というデータの収集だけに意識を向けること。真の優しさとは、相手のためになりたいとする動機より生じた、下心なき献身である。相手に対して見返りを求める優しさは、嘘だ。自分自身が社会的に評価されたいから施している優しさは、嘘だ。優しさのそのベクトルが、相手のニーズと一致した時のみもたらす幸福感に酔っ払って、その体験を基に下手な信念を抱くことは不幸の始まりである。優しさのベクトルが相手のニーズと異なる大きさ、方向へ向いた時、それを提供する側も、される側も、堪ったものではなくなる。自分の意図通りに事が進むときだけ微笑むのは未熟者だ。出発点を離れてからは、常に、何があっても、無心たれ。

さて、ここまで色々と書いてきたが、どうにも、今回は、一向に筆が乗ってこない。実は今、絶えず頭がぼーっとしており、リズムに乗り、流れるように文章を書くことが出来ていない。唸って、もがいて、苦しんで、ようやくここまで書いた。仕事や環境の変化により睡眠のリズムが大きく崩れ、また寝不足も伴い、いつまでも調子が上がらないのである。今年度より部署異動となり、前年度より随分不規則な勤務になった。いやそれでも、私よりもっと不規則のひどい勤務をしている人は山ほどあるのだが、体調は他者と相対して見るものではないだろう。私はどうも、デリケートでいけない。昔はもっとアバウトに生きられていたはずだったのだが、二十歳を過ぎてから、大学で無茶な生活を続けた代償か、それとも一時的に精神を壊してしまった後遺症か、単なる加齢のせいか、無理の利かせられる範囲が以前よりずっと狭まってしまった。心と体を分けて考えることは、ナンセンスである。心が疲弊しているとき、体も思い通りに動かなくなる。体が疲弊しているとき、心の制御も上手く行かなくなる。例えば、九時間とか、十二時間労働して、三時間半の浅い睡眠取って、起床後にまた九時間労働する日に、要求される最低限の任務を遂行することは可能であっても、その「最低限」の範囲から逸脱した、例えば上述した“真の優しさ”のための感情制御を働かせる等のオプションを付与することは、なかなか容易なことではない。忍耐の限界の天井が平常時よりも低くなる。怒りの沸点も低くなる。堪忍袋の緒も、切れやすくなる。これはやむを得ないことだ。気合や根性でどうにかしろというのは、暴論である。そこまで気負いすることはない。無理ならば無理で、それなりの対策はある。下手に偽善を働かせないことである。上の例で行けば、万策尽きたらひたすら興奮の収まるのを待つのだ。余計な言葉は掛けない。最低限の任務遂行にのみ、集中する。「今日は少々しんどいだろうな」と感じたならば、敢えて距離を取ることも必要である。逃避も重要な一手。ああ、「働くために生きている」とか、「生きるためには人生の大半を労働に捧げるべきである」という常識に「否」と応じることは、ただの甘ったれなのだろうか。たとえ甘ったれとのレッテルのもと、正義の大砲の集中砲火を浴びたとしても、私は、「否」と応じられるための道を、模索したい。時は金なり、時は金なり。すなわち、時間持ちはお金持ちである。物質よりも、健康な精神を持っていたい。今よりずっと多くの自由な時間を手にすることで、私は裕福に生きていきたい。

話を元に戻す。私も、なにもこの「愛と憎しみは紙一重」の一連の仕組みを今知ったわけではない。これまでも、できる限り自身の相手に施す行為の結果に期待を持たないよう、心掛けてはいたつもりなのである。しかし、何処かで、相手に良い影響を与えられると期待する心を捨て去ることが出来ていないのだ。その原因を、私は、感情制御のための鍛錬不足、または鍛錬された制御の実践の場数不足、または長過ぎる労働時間、狂った睡眠リズムに起因する集中力の低下ゆえと仮定している。前者についても後者についても、今は修行の期間であるとして耐え抜くほかない。きっと今は、大学時代に身に着けたはずの感情の制御術に、更なる磨きをかける時期に来ているのである。この場で更に磨かれた感情制御術は、きっとそう遠くない将来、社会をより賢く生き抜くためのよき道具となってくれるであろう。その期待だけは捨てずに、そしてその期待を心の拠り所として、今後、ナンセンスな他者コントロールを徹底的に排斥し、“真の優しさ”を追求したコミュニケーションの取れるよう、尽力していきたい。




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