起きて半畳寝て一畳。職を有さぬ貧学生なれば、よろしく日々慎んで生活をするべしと雖も、天の配剤、賦与された人生の甚だ苛辣なるを持て余し、以て受難、忍従を何年、何十年と継続すること苦心惨憺たるを憂戚するなれば、ただ慨嘆して人を妬み世を恨み天を呪うばかりでなく、人事を尽くしてこれを改善しようと努め、そのためならば須く吝嗇の念を意識外に放逐し、迷わず財布の底をはたくべし。東に自尊回復の書あると聞けば、すぐに行って之を買い求め、西に人間不信治癒の書あると聞けば、やはり直ちに発足し、その場で之を買い求める、どうしてこの敢為を一口に「濫費」と言えようか。(いや、言えない)
――という経緯で、私は数冊の、自尊心回復や人間不信払拭について諸々解説された書物を鞄に押し込むと、そのまま大型書店を出て、足早に駅へと向かった。
その道中、いつものように人生についてぼんやりと考えた。私はこれまで、自身を蔑ろにしすぎた。己の欲求や情熱の燃えているのを全く黙殺し、その代わりただ闇雲に人様から承認され、賞賛され、批判されないことばかりを求めて生きてきた。だから私は、自分が一体、何者であるのかといったことが未だよく分からない。ただ、人様に認められること、拒絶されないことを血眼して目指しすぎる余り、自身本来の感覚、知覚、感情、認知の湧いて出るのを徹底して抑圧し、代わりに全身全霊、眼前の他者、周囲の皆々の内々なる欲求を推量し、その推量に基づき適切なると思われる反応を即席に醞醸させ、何とかその場凌ぎの承認を得、ないしは拒絶を回避して己の存在意義を繋いできたような生き方を続けてきたものであるから、自身の思考、挙動まるで刻一刻変化する高山の天候の如しで、一貫性に乏しく、あまりの唐突で接ぎ穂なき我が変心振りに脳みそも大変な混沌を呈し、以て自己喪失に陥ってしまっていたのも無理はない。唯一、これだけは自身の中で一貫しているものがあるとすれば、それはもう「自己保身に生きる」というものに他ならなくて、その忌むべき自己保身の動機の核として底流しているのが、何を隠そう自己を蔑ろにせんとする硬直した自己懲罰の気持ちと、人間というものに対する基本的不信感にあることを、私はほぼ確信している。これら二点に対するアプローチなしに、私の自尊心回復の道はないのだろうとさえ考えている。
自尊心回復のためには、まずは長年にわたり失われてしまった自己の感覚を取り戻すことが肝要であろう――そう思った私は、抑圧されていた自己本来の感じ方を取り戻すべく、自身の生活史を書き出し、その中から、無意識裡に他者からの承認確保を動機とせず取っていた僅かばかりの自身の言動を「本心からの行動」としてノートに抽出し、これを精査し、過去にしっかりと纏め上げていたことがあった。その時私は、自身の数少ないながらも、様々な欲求に触れることになったのであるが、続いて私は、その欲求の声を掘り起こすだけでなく、できることならば少しずつでも良いから、叶えてあげることが更なる有効な一打となり得るのではないかと考え、その欲求の満たすことのできる機会を日々、伺っていたのであった。
そんな折に訪れた外出である。私はここで何とか一つ、自身の欲求を思い起こすことはできないかと思案し、我が貧弱なる記憶力を頼りに、自己分析に使用したノートを懸命に回想した。自身の欲求とは何か。自身の欲求とは、果たして何であったか――さてその刹那、胸中キラリと光る一言を発見するに至った。それは、
「ケーキを食べたい」
というごくありふれた欲求であった。私の本心は、「ケーキ」を求めている、それに気が付くことができたのだ。ノートのお蔭で。それも今、ここで。
このとき私は、かねて抱懐している自尊心回復のための一策――自分の心の声に従った言動を積極的に取ってみること――を、今こそ実行するべきだと直感した。確かに、私はこれまでの人生において、幾度も外食の機会を持つことがあったものの、たとえそれが人様の気を使わなくて良い場面であったとしても、自分が一体何を食べたいのかをさっぱり思い付かないため、一向に意思決定ができず、もじもじして、ぐずぐず悩んで、けれども幾ら熟考してもどうにも決め手を得られず、結局は意思、根拠薄弱のまま適当な店に入る、ということが多かった。それが今やどうだろう、自身生活史から抽出、精査、大成した諸要素の為せる業によって、私はこうして、特定の食物を自身、心より渇望しているのを実感することができたではないか。天晴れ、この内心欲するものを蔑ろにせず、自らそれを全面的に承認してやることこそ、自尊心回復への第一歩であると、かねて自己の感懐していた一策が遂に実行せられる興奮を胸に、私は懐中からスマートフォンを取り出して、近場のカフェを検索すると、運良く、目的にかなったカフェを発見することができたのだった。「ケーキが有名である」との文言を見て、私は揚々と、迷わずそのカフェへと歩みを進めることとなった。
カフェに辿り着くと、既にその入口に向かって、三組の先客が列を成しているところであった。私はその場に立ち止まり、はてこれは何の列だろう、と一考した。私は無論そのカフェを訪れるのが初めてであったから、如何せん入店時における勝手、規則については、全くの無知である。しかしながらこの状況から推察されるに、私の眼前に展開されているこの列は入店待ち、すなわち空席待ちの列であって、無難に私はその列の後方に並びさえすれば、きっといずれか外から店員が出てきて、内部の席の空くのに合わせて順々に客を店内へと案内し、そうして入店へと至るといった具合になるのであろうと愚案し、以て列の後方へと歩みを進めようとしたその刹那――私はガラス張りのそのカフェの内部事情を知ることとなったのであった。見ると、カフェの店内には空席が複数ある。それもかなり目立っている様子である。それでいて、店員は外で列を成す客群には一向に素知らぬ振りして、せっせと己が職務に服している。まるでこれから外の客を案内しようという気配がちっともないのである。私は警戒して列の後方へと向かうその足を止め、はたともう一度考えた。それではこの列は、一体なんだ――。
私はカフェの入口に、「テイクアウト」の文字があったのを思い出した。もしかするとこの列は、テイクアウトを目的としており、ここに居る客群は既に注文と会計を店内のレジにおいて済ませており、自らが注文した食物の出来上がるのと、それを受け取るのを、今はただ待っているばかりという、そのために形成された列なのではないか。それだとすると、たった今来たばかりの新参者の私が、テイクアウトの注文も会計もせず、テイクアウトの列を入店待ちのそれと勘違いし、のこのことその後方に並び始めたのならば、ああ何という無知、このカフェの仕組み熟知するところのこれらの客をして、嘲笑せられるのではないかという嫌な空想に忽ち我が脳内が支配され、私は身動きが取れなくなってしまった。「人は結局のところ、私を拒絶するのである」と確信するその人間不信の念が、「人間そこまで私に注意を払っていない」とする真実の声の必死の説得を丸呑みし、ここぞとばかりにぬっとその強靱な鎌首をもたげたことで、私は半ば自動的に、「自己保身」の態勢に入らざるを得なくなってしまったのであった。
ここは無知を晒すリスクを冒してまで、無理に並ばない方が良いだろう――私は後退りしてその列から距離を取ると、暫くカフェの入口を視界の隅にとらえながら、その場で怪しき逡巡を開始した。どうにかして、このカフェの入店の仕組みが分からぬものか。折角ここまで来たのだから、このような仕様もない理由で自らの欲求を鎮圧し、以てここから退却するのも非常に惜しい。ならば入口付近のレジで何やら作業をしている店員に入店の仕組みを今すぐ聞いてみれば良いのかも知れないのだが、よく考えてみよ、もし私が、たとえそのような悪意なき純粋の動機を持ってカフェの店員に接近したとしても、その道中で必ず、入口からズラリと成る客列を黙殺し、その先頭の人より先に店内に押し入る必要がある。幾ら悪気がないとは言え、私が全く列を無視し、その先頭に立つ二人組の客よりさきにカフェへと闖入しようものなら、三組の列客はその姿を確認するにつけ、私に「横入りの横暴者」との烙印を押し、以て軽蔑の白い眼差しを向けてくるのではないかという、その愚昧なる恐怖の空想が胸中で展開されてしまって、ますます迂闊に入口に近づくことができなくなってしまった。
かといって、こうしてカフェの入口付近でうろうろし続けている姿も、私の内面の葛藤しているその事情を知らぬ他者から見たのなら、それはもう半ば「狂態」とでもいったものに違いないだろう。だからここは一旦、この場を離れて形勢を整えようということに決まり、私は足早にその場から離れると、その途中、「あのカフェはどうも勝手が分からないから、別のところに入るのも良いかもしれない。ケーキはまた今度」等といった弱気な回避癖の思考が頭を過ぎり、その都度「いやいや折角ここまで来たのだからそう簡単に決めてしまうこともなかろう」と、先の回避思考を鎮めつつ、さて、これからどうするべきであるかということについて、一つよく考えてみることにした。
私はどうも、「人」というものを怖がりすぎている。人を過剰に恐れる余り、私は積極性を大きく失い、それにより人生において数々の不利益を被り、自身の将来の可能性の芽を徹底的に潰してきた。私はもうただ、さっぱり自分に自信を持てず、それこそ己の存在それ自体に心からの疑義を覚えるほどで、自分は不要なのではないか、いやそれどころか私は世のお荷物であって、他者にとってはただただ不快、迷惑なる存在なのではないかと自らに疑念の目を向ければ、而してその疑念を他者の一挙手一投足に投影することによって、他者が私を拒絶し、失望し、切り捨てるのではないかという愚かなる空想を展開させることとなりこれに常に怯え、その脅威から逃れるために、敢えて人と交流するのを避け、我が胸襟を開くのを頑なに固辞し、人を信用するのを避け、人に与えるのを避け、人に優しい言葉を掛けるのを避け、そして人を愛するのをさえ、明瞭に避けてきた。私は齢二十九の年にして、未だ、真の意味で人を信じ、敬し、愛することによって得られる、情緒交流の成す感動の味を知らない。私はただ自己を恥じ、人に怯え、人と対する時に自己の保身のことだけを考えては本音をひた隠し、常時眼前の相手に迎合、または相手の批判の矛、その諸刃が自身に向けられぬようその殺気の芽を摘み取ることばかりに腐心する自意識過剰、否、自意識のバケモノに他ならない。このようにして私は一向に人を信じることができないのであるが、それだからこそ今後は、人を信じるということを進んで学んでいかなければならないと、常々思っているのだ。そしてそれはすなわち、自分を信じること、それをまずは学ぶということに他ならないことにも、気付いている。何彼につけては人を恐怖し、自己を軽蔑し、以て自らの殻に引き籠もり、自身の未来に残された幾多の希望、期待、可能性、それら悉く手ずから捻り潰して、後半生の不振確実なるに一直線して繋げるような真似をし続けていては、決してならないのだ。その酸鼻、陰惨なる人生を変革するための第一歩に、自尊心回復に向けた一策として、自己の本心の声を聞き、その声を尊重する、すなわち本心の欲求を充足させるための行動を積極的に取って行く、ということが必要であって、それが今回では、「ふと気になったカフェに入店してみること」であるのだ。奮い立て。たかが入店、されど入店。しかし、この一事を達成するところの持つ大意、それをみすみす放擲しては、決してならない!一世一代の大勇猛進を、今こそ敢行せよ!と、自らを鼓舞し、大きく息を吐き、我が小弱たるその精神を極限まで発憤させ、これまでカフェから遠ざかり、油断すればカフェへの入店を諦めようとしていた己の歩みを直ちに止め踵を百八十度くるりと返し、肩を怒らせながら再度カフェの入口へ向かってずんずん直進した。
この間僅かであったものの、カフェに戻ると先ほど並んでいた三組の先客はいなくなっており、カフェの入口付近はがらんとしていた。良いタイミングで店員が来たのを見計らい、私は勇気を振るって、これまで解決し得なかった入店の仕組みに関する問いを、ついぞ店員に投げかけた。
「席は予め自分で取るのですか」
「いえ。こちらでご案内します」
――これにて不明瞭であった入店の仕組みが、明らかとなった。そうか、そういうことだったのか。
ではやはりあの列は、入店待ちの列で当たっていたのだ。私はただそこに並んでさえいれば良かったのだ――これでテイクアウトの脅威に戦くことなく、私はここで突っ立って、店員に呼ばれるのを待っているだけで良いことが分かった。それが先の店員とのやり取りを通じて明々白々となり大義名分を得た私は、カフェの入口の前で――先ほどの先客がそうであったように――ひとり自信ありげに佇んだ。何せ私には、大義名分があるのだから。
ほどなくして店員が顔を出し、私を店内に案内し、以て私は入店を成功させたのであった。
――たったこれだけのことだったのだ。たったこれだけの一事を、私はどうしても人並みに、スムースに実行することができないのだが、これ自らを心底より深く恥じ、人様を信じる能わざる人間の宿命である。私はこの厳酷なる宿命を背負い続けたせいで、これまでの人生でどれだけの損を被ってきたか、分からない。
こうして無事店奥の一席に通された私であったが、しかしここに来て、その悲しき宿命が再び産声を上げることとなってしまった。両隣にいるお客の存在が、気になり出してしまった。私の左右、スマートフォン片手に食物と対峙している私とほぼ同世代と思しきこの両客は、果たして私がこの昼時、主食を頼まずデザートのケーキだけを注文しては、無心にかつ孤独にそれをフォークで突き刺しているのを見て、一体何を思うだろうか。その姿、「キモ」くは、映らないだろうか――。
何とも思わない、キモくも何ともないに、決まっている――咄嗟に頭で、懸念の声を打ち消した。けれども、打ち消せば打ち消すほど、却って懸念の方から私を追い掛けてきて、更に私の危機感を煽ってくる。私は必死でそれを振り払う。何も思わない、思うわけがない、いい加減にしてくれ、私は人目なんて気にせず、自分のやりたいことをやりたいのだ――このとき既に私は、半狂乱になっていた。自意識過剰。誰も私のことなど、見ていない。誰も私のことなど、気にしちゃいない。誰も私のことなど、注意していない。誰も私のことを、笑っちゃいない。頼むそれを分かってくれよ、頼む。この場に自尊心を抉られる危険なんてどこにもありゃしないんだ。頼む、今だけは分かってくれ――こうした必死の懇願虚しく、神経系が自動的に危機を察知し、我が脳内の思考、そして全身の硬直が始まってしまった。呼吸が極端に浅くなり、大きく息を吸っても、それが腹部までまるで届かず、吸入した空気は肺の極浅い場所に僅かに蓄えられるだけで、そうしてそれに伴って、無情にも動悸さえ開始された。いつもの身体の防衛反応である。不要の危機察知。今この場では全く無用の闘争-逃走反応。苦しい。私は懸命に己に言い聞かせた。誰も何も思わない、恐れすぎだ、過剰反応だ、ただ自分の好きなものを注文して、それだけで事が終わる話なのだ。しかし――そのありったけの総力を動員した渾身の説得も、脳の渺たる一領域、その僅かなるを活性化させるのみに留まり、やはり自分自身で己のことを「キモ」く思っていては悲しくも必死の説得の言葉が総身隅々まで浸透することは決してなく、全身の過緊張の前に敢えなく、殆ど無抵抗の形と相成った。
無念。私は、自分の好きなものを注文することさえ、ろくすっぽできないのだ。私はそういう人間なのだ。私は確かに外見こそこうして人の形をしているけれども、その内界に至っては、明らかに周囲の人々のそれとは異なっている。大きく、異なっている。私は皆と違うのだ。普通でないのだ。異常なのだ。異常ではあるのだけれど、それを人々に知られてしまったら、いよいよ私は彼ら彼女らをして敬遠されるところとなるはずであって、だからこそ私は自身異常なのを、隠し通して以て健常な振りをし続けていなければならないのだ。
「ふー」と嘆息して虚空を見上げたくなる衝動を抑え込みながら、表向きでは何でもない風を装った。その甲斐あって、私の異常なる内界は外に漏れ出ず、以て私は人々の目に健全なるを映じているはずであった。周囲の人々には、葛藤など何も持たぬ俗人として、私の姿はその目に映っているはずである。それすなわち、誰もが私に何ら注意を向けていないことの証左に過ぎない。私の内界の異常は、人様とは決して共有し得ぬ、言わば他者にとってはまこと不可解なる乱心のようなものなのである。私は日頃よりこの事実を「孤独」と称し、その孤独にひとり耐えている。自らの内界の混沌を、外部に表出することの許されぬ孤独。我が内界の不健全なる事情を、人様から理解されぬ孤独。いずれ私は、この種の孤独を解せる方々の、心からの味方となりたいと思っている。いつの日か、その方々の抱える底知れぬ孤独を、動的に、迫真さを以て私は、理解できるようになりたいと思っている。しかしそれはずっと先の話であろう。今はまだまだ、勉強が足りていなくて、孤独に喘ぐ方々に一条の光を差し込むことなど、到底かなわない。その能がないのである。私は自分の感情の面倒さえ、自分で見られないのだから。
――店員が注文を取りに来た。私は観念し、蚊の鳴くよりも小さな、それでいて我が発言が店員の気分を害さぬことの用心から出た,卑下と卑屈と劣等と媚態の混じった猫なで声で以て、
「ハンバーガー」
と、息絶え絶えに回答した。
するとそれを受けた店員から、意外な返答がきた。
「付け合わせはいかがなさいますか?」
私は狼狽した。
「ツ、ツケアワセ?」
――間抜けな声が出てしまった。私はすぐさまメニュー表に目を通す。震える指で開くは勿論、ハンバーガーの一頁。
そこには確かに、ハンバーガーを頼む際は、定められた三種類の料理の中から一つ、付け合わせを選択できると書いてある。自身の内面の葛藤処理に奮闘していた私は、店員にそれを指摘されるまで、全くそのことに気付かなかったのだ。
いや、今はそれどころでない。なんださっきの間の抜けた声は。完全なる油断、なんという失態。僅かな隙から生み出された、何たる醜態、何たる恥辱!私の左右に鎮座する彼のスマートフォン片手の両客は、きっと私の無知を嘲笑っているに違いない――と決めつけかけて、ふと我に返り、ここで自身に再度言い聞かせる。だから、誰も何も思っちゃいないのだって。自意識過剰のお化けめ。被害妄想するのは、もうやめよ。自身が拒絶されたり見下されたり嘲笑されたり愚弄されたり軽んじられたりするのをこうも警戒し恐れなければならないのは、すなわち私が自らを拒絶し、蔑視し、軽んじているからに他ならないのだ。私にそれら負の感情を向けているのは誰でもない、私自身だ、何をか恐れんや。そう自分に言い聞かせる。僅か零コンマ何秒という寸刻に、何度も、何度も、何度も、何度も、自分に言って聞かせる。だが、だが、――だがどうしても、私は、私の全身は、私の心底は、その真実の言葉を信じ切ることができない。全身に巡らされた神経系が、今この場において確かに脅威が一切なく、以てこの場が安全なることを「点」程にさえ感じ取ることをも、決して許してくれない。無慙にも、無用の警戒、過剰の防衛反応が作動する。心拍数が倍加し、呼吸が浅化し、終極に全くホワイトアウトの様相を呈する脳内。私はまるで酸欠に陥った金魚のように口をパクつかせながら、
「フ、フレンチフライを、おねがいします」
と辛うじて付け加えて、注文を終えた。無論、「ケーキ」とは言えなかった。私は自分の本心をまたもや心の奥に押し込め、人様から「キモ」く思われない道を取ったのだ。それも、自身の頭の中で作り出した、被害意識の道を――。
それからは、高ぶりすぎた神経系の興奮を抑えることに腐心した。が、無情にも警戒のアラートは全身に始終鳴り響き続け、安全感を覚えられる瞬間はついぞ訪れなかった。
私は、自身の内界で警戒音を鳴り響かせながら、「常にスマートに振る舞わなければ人様に拒絶される」という信念に飲み込まれながら、運ばれてきたハンバーガーをナイフとフォークで切り分けた。勿論、その所作が人様の目に「上品」なるものとして映るよう腐心した。うっかりナイフが皿に接触し、皿やらナイフやらから「カチ」という音が鳴る度、冷や汗を掻くような有様で、そのせいで身体の緊張著しく、眼前の食物をよく味わうことは、ついぞできなかった。私はうな垂れて帰宅した。今日も自分の本心に従うことが、できなかった――。
いつもだったら自分をこれでもかと責めるところであるのだけれども、その日は、それをしなかった。私は自らを無闇矢鱈に非難するのを、最近になってやめることにしたのだ。私が自らの存在に価値を感じ、人様への不信感を払拭するためには、自分が自分の批判者であってはならないのだ。反省を促すことがあっても、決して無闇に責めてはならない。せめて自分の孤独には、自分がとことん、向き合ってあげたいものである。
そういうわけであるから、私は帰宅した自身に非難の言葉を浴びせる代わりに、ひとまず労いの言葉を掛けた。
「今日は大変なことになっちゃったけれど、また頑張れば良いさ。取り敢えず、お疲れ様」
*
――さて、以上は私の実体験であるが、どうもこの物語はあまりに陰惨で、救いどころがないもののように思われるかも知れない。確かに一見するとこれは、そのような悲惨なものに感じられることに違いはないのだが、けれどもこの話はよくよく注視してみると、僅かながらも、たしかな希望の気配、未来好転に向けた可能性の萌芽さえも感じられるものなのである。
その根拠を一文で提示するならば、それは「ローマは一日にして成らず」というところのものであって、私は未だ、自尊心回復の旅、その最初の数歩を踏み始めたばかりなのである。