私は自分の主張が欲しい。

27年間、私は一体何をやってきたのだろう。

――――――――――

「自己喪失しながら生きること」
「自尊心が低いままに生き続けること」は、何と恐ろしいことだろう。

私は長年、自尊心が低いまま人生を送ってきた。自尊心が低い私は、低い自尊心を少しでも回復させようと、

「他者から自分の存在をいかに認めて貰えるか」

ということしか、考えてこなかった。

自尊心の低い私は、他者からの承認によって、低い自尊心を少しでも高めようとするあまり、誰彼構わず、

認められるように振る舞う
嫌われないように自らを偽る

ということを徹底させなければならなかった。

逆を言えば、他者から自身の存在を認めて貰えさえすれば、自分の意思なんてものは、抑圧されても構わなかったし、自分の信念を持つことも、さほど重要なものとは思われなかった。

だが、しかし。

自尊心の低いままに生活を送ることは、実に苦しいものだった。

・人と話しをしていても、相手の気分を害さないことばかりを考えてしまい、会話に集中できない。

・人との関わりの中では、必ず相手に迎合することを優先させてしまうので、自ずと自身の感情や意思を抑圧してしまい、心理的に対等な関係を築けない。

・対人援助の仕事では、つい、相手に与えることよりも相手から与えられることばかりを考えてしまい、仕事を高い質で全うできない。

・ブログを書くにしても、自分のことしか見えていないので、身勝手かつ思い遣りに欠ける、読者に不親切な記事ばかり書いてしまう。

・外出すれば、自分の存在が人様の邪魔にならないことばかりに気を取られて、一瞬も心が休まらない。

このように、自尊心の低さから

「自分の存在が他者に認められるか否か」

しか考えられない心理状態にあると、人と関わることはすなわち、

一、自己を抑圧し

二、己の一挙手一投足に対し過剰に気を使うことで疲労困憊し

三、それでいながら、結局は自分のことしか見えていないので、自身の言動が他人思いになっていないのを感じざるを得ない

ということになってしまう。生きることが楽しめなくなるのは当然のことだ。

常に自分が見捨てられないか、失望されないか、攻撃されないか、ヒヤヒヤしながら自己を過度に抑圧し、防御する。けれども抑圧というものをし過ぎると、自分の考えていることが、分からなくなる。自分の考え、価値観や信念、大切にしていること、批判を受けてでも主張したいこと等、そういったものが、全く分からなくなる。自分が分からないまま人と関わっても、その人と深く通じ合うことはできないし、相手に新たな刺激を与えることだって、できない。ただ相手に迎合することだけを考えて、当たり障りのない言動を取るだけの、魅力ない人間に成り下がってしまう。

だから、私にとって、

自尊心の回復

は人生最大の課題となった。自尊心を上げないことには、

どんなに物質的に豊かになっても、
どんなに人様から表面上の承認を得られたとしても、

幸せになんかなれない。それを知ることとなったから。

そこで考えるのである。

「自尊心を回復するためにはどうすればいいのだろう?」

そのためには、一つ、「自己喪失」という大きな問題をどうにかしなければいけないと考えた。自分を抑圧し過ぎて、自分というものが分からなくなっている状態からの、脱却。それが、自尊心回復に向けた大きな一歩になり得ると考えたのである。
自分というものがまるでないのに、自尊心だけは高まる、などというのはちょっと考えにくい。

自己喪失を脱却するためには、自分の考えをしっかり、持つことが大切である。
それには、

自分の中で大切にしていること
譲れないこと
批判を受けてでも主張し通したいこと

そういったものを一つ一つ、外界の刺激を通して、自分の中から探して行くことが重要だと思った。

そこで私は、
テレビを視聴するにしても、
YouTubeを観るにしても、
ネットサーフィンをするにしても、

ただ、それらコンテンツを漫然と受け取ることを、やめた。

「自分ならその問題に対して何を思うか?」
そういったことを、いちいち感じようと努めることにした。

某YouTuberが

「会社の飲み会ほど無駄なものはない」

と豪語すれば、それを

「そうだそうだ」

と、ただ盲目的に首肯するのではなく、

「本当にそうだろうか?」

と、自分なりにいちいち立ち止まって、考えてみることにした。

「自分の主張をはっきりさせること」

その上で大切になると感じたのが、“自身の過去の経験”である。一つの問い掛けに対して、自身の頭だけで練られた考えだけでなく、自身の過去の経験から得られた知見というものも交えて、あれこれと思考していかないことには、質の高い「自らの主張」というものを確立させることは、難しいと感じたのである。

主張や信念、価値観は、頭の中だけで考えて深まるものではない。
頭にある自身の考えや理想論と、現実世界の経験より感じた肌感覚とのギャップを調整することによって、深まるものだ。

「飲み会なんてクソだ」と頭で思っているだけでは、深い価値観にはならない。実際に飲み会を経験し、それによって自身が様々な損得を経験したり、はたまた他者が損したり得したりしている姿を実際に見てみる。そうした上で、あらゆる物事を、
「実際の経験で起きたこと」

「自身の頭にある観念論」
との間で、比較検討する。そうした工程を経て、結論、

「飲み会なんてクソだ」

と改めて主張することができて初めて、価値観は奥深いものになっていくのである。

ただ私の場合は、信念や価値観を持つ上で大切になる「過去の経験」を、全然活かせていないと感じる。無論、27年間も生きてきたのだから、それなりに何らかの経験を積んできてはいる。しかし、あらゆる場面で結局のところ、

「自分の存在が眼前の相手から認められるか」

しか考えて来なかった人間なので、あらゆる経験の質が低い。その上、折角何かを経験しても、私自身が自己喪失してしまっていたため、そこから自身が何を感じたか、何を考えたか、何を得たのか等、そういった「経験を今後に活かす姿勢」というものに、致命的な不足が無意識的に生じていた。結果、何を経験したって、自分というものが、全く積み上がってこなかった。折角の貴重な経験というものを、全然活かせていなかった。

「過去に物凄く辛い経験をした。けれどもその経験を振り返り、自身の価値観や信念を深めようとすることなく、結局は自己喪失しながらの生活を、送り続けてしまった」

私はそのようにして、様々な経験を活かす機会を逸してきてしまった。だから私は27年の経験の割に、中身が空っぽなのである。自身の人生経験から期待されるほどの、人としての中身が伴っていないのである。

自分の考えを持たず、ただ某YouTuberの

「会社の飲み会はただの時間の無駄」

という主張を

「そうだそうだ」

と受け取るだけでは、

「どうして飲み会がいらないと思うの?」

という質問に対し、

「だってYouTuberが言っていたから」

以外の答えを出すことはできない。そこに深い考えはない。そもそも自分が本当に「飲み会はいらない」と思っているのかさえ、分からない。

私が27年間の人生で得てきた価値観や考え方など、その程度の、浅く薄っぺらいものだったのである。なんと惨めなことであろうか。

27年間、

「自分が認められているかどうか」

ということしか考えてこなかった過去を今更嘆いてばかりいても仕方ないのだけれど、私は非常にまずい人生を送ってきてしまったのだということを、否が応でも思い知らされる毎日を送っている。

私は一時期、愚かにも

「私の内面的魅力は同世代のそれを引けを取らないのではないか。寧ろ優れているのではないか」

と自惚れていた時期があったが、とんでもなかった。実際に私は長年自己喪失していたわけだから、自分の内面というものは事実さっぱり育っていなかったし、かといって今すぐに、内面の魅力を急ピッチで磨き上げられるだけの質ある「過去の経験」だって、大きく不足している状態にある。

私と異なり、自己喪失などせず(ないし自己喪失している期間が比較的少なく)、自分の意見や信念といったものをしっかり持ちながら20年以上もの人生を歩み、自分の頭で考え、葛藤し、現実対処を学び、日に日に自身の価値観や信念を深めていったような人達は、私からすると、「人としての魅力」というものが、私と比較して遥か彼方の高次領域まで到達してしまっているように見える。彼ら彼女らの思考や発言内容の重みは、私のそれとは全く違って感じられる。私の発言は一つの小さな反論で行き場を失うヤワなものでしかないけれど、自己喪失していない者の発言は、無数の反論にも耐え得るような、しっかりした芯を備えた堂々たるものである。その差は歴然だ。自尊心の程度に大きな違いが生じるのも、当然のことである。

そして、そうした人達と自分とを比較しては、自身の存在の小ささ、魅力のなさに打ちひしがれる日々を送っている。そこで私は自身にこう嘆くのである。

「27年間、私は一体何をやってきたのだろう」、と。

しかし私は腐ることなく、自身が自己喪失しており、人としての魅力に欠けていることに気が付いたこの瞬間より、自己喪失からの脱却を図り、自尊心を高め、人々との間に付いてしまった差がこれ以上広がらぬよう努めていかなければならないのである。嘆くだけでは、ただただ既に広がっている大きな差が、更に広がってしまうばかりである。

私は、私よりもずっと長い期間に渡り、これまで様々な経験を積み上げ、それらを活かし続けてきた魅力ある人達に追いつくことは、そう簡単にはできないと思っている。恐らくこの課題はこの先何年間にも渡り、私に苦しい現実を突きつけることになるだろう。けれども私は、腐ってしまってはいけないのである。私が人生において望むべきものは、世の中を憂い、自身の境遇をニヒリスティックに投げやってしまうことでは、決してないためである。魅力に欠けていようが、人としての中身が劣っていようが、そんな状況を地道に改善させていき、少しでも自分に自信を持てるよう前に進み続けること。そうしていかないと、数年後には、今の何倍もの泣きを見ることになる。自分の未来を少しでも明るいものにしたいならば、どんなに惨めだろうが、今この瞬間から、変革を起こしていかなければならないのだ。

そう自分に言い聞かせながら、27年の間に背負ったこの負債を、今日も返し続けてゆく。その道のりは長く、険しい。

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