1
自分と他人とを逐一比較しては、心を暗黒にする機会が多い。
ひとたび「ソーシャルメディア」の世界に飛び込めば、そこには私よりずっと優秀で、頭も良く、行動力やコミュニケーション能力に優れ、人として深みのある人間らで溢れかえっている。
コンプレックスの非常に強い私は、そういった「自分より優秀な人達」の情報を好んで取りに行く傾向にある。一種の性癖になっているのだろう。
そうして、「自分より優秀な人達」の存在をひとしきり脳みそに叩き込んだ後、私は以下のような2パターンの反応を示す。
(1)「自分も、この人達のレベルに近付けるよう頑張ろう」
(2)「ああ、この人達に比べて自分はなんてダメな人間なんだ」
――どちらの反応になるかは、その時の自身の精神状態に依存している気がする。無論、気分の良いときは(1)のようなポジティブな反応になり、そうでないときは(2)のようなネガティブのそれになる。
大抵、私の内面では(2)の反応が起こる。そしてその都度、私は卑屈になる。己の存在価値を「他人との比較」や「他人からの評価」でしか測れない私は、他人との比較競争に敗退すると、途端に「自分の存在価値」を疑問視せざるを得なくなってしまう。
自身の存在価値が脅かされている状態では、どうしても内面が「卑屈」になる。認知が負の方向に歪み、対人関係にもその「卑屈」さが滲み出てくる。対人不安・緊張感が高まり、人と関わる際、過度に防衛的になる。自分の殻に閉じこもりがちになり。「人に心を開く」なんてことは、とても出来なくなる。言動もどことなく“言い訳がましさ”を帯び、その一挙手一投足、悉く何かを弁解しているかのような浅ましき様態を示すようになる。
そんな私の“自信なさげな挙動”を目にした他者は、苦笑するより他はない。「もっと自分に自信を持てよ」――そんな励ましも、当人の心に届くことは決してない。
2
私は自分に自信がない。それには色々な要因が考えられるのだけれど、ここでは
「アイデンティティーの未確立」
という一つに絞っておこう。
「アイデンティティー」というのは、ざっくり言うと「一貫した自己」のこと。
「自分は人生の何に価値を見出すのか」
――こうした疑問に対し、「一貫した」主張が出来るか? それを問うている。言わば自己の「生きる指針」、「生きる目的」の土台を形成するものだ。
私にはそれがない。アイデンティティーがない。自分はどんな人間なのか、今ひとつ分からない。自分がどのようなことに価値を感じるのか、これもよく分からない。だから生きるにあたって、どこに軸足を置けばいいのかが分からない。
結果的に、「他人との比較」でしか自分の存在価値を測れなくなる。
他人より数値が高いか、
他人より多くを所有しているか、
他人より多く目立っているか、
――そういった尺度でしか、自己を評価できなくなってしまう。
けれども、こうした「比較競争」では必ず「敗北」の時が訪れる。ソーシャルメディアは、本来であれば知り得なかったはずの世界まで、私達に見せてくれる。上には上がいて、自分より凄い奴なんてごまんといて、そうして天は人の上に人を造っている事実を、残酷なほどに教えてくれる。
私の人生は、メディア上で自身より優れし者を見上げては、ただ小さく嘆息を漏らすばかりの、浅薄なものだった。
私は、そんな自分のことを「つまらない人間だな」と、つくづく思っている。私には「自分」というものがないのだ。「自分」というものがないから、他人との比較でしか、自分の立ち位置を決定することが出来ないのだ。
「自分」というものがないから、他人から
「君は負け犬」
と言われれば、
「はい僕は負け犬。背と尻尾ともに丸めて今すぐ逃げ出しましょうキャインキャイン」
と鳴き喚くしかなくなってしまうのだ。
一方、「自分」をしっかり持てている人は違う。他人から
「君は負け犬」
と言われても、
「さあどうかな。こっちはアンタとは異なる尺度で生きていますものでねエヘヘ」
と、正々堂々と跳ね返すことが出来る。自己像に全く傷が付かない。この違いはたいへん大きいと思う。
3
「自分はどんな人間なのか」を熟知していて、「自分は人生のどんなところに価値を置くか」が分かっている人は魅力的だ。何が「魅力的」かって、その言動に「一貫性」のあるところがたいへん魅力的だ。
ここがしっかりしている人間は、たとえ年収が低くても、
「でも自分はこの仕事にやりがいを感じているから」
と、自分に対する評価が揺るがないし、
たとえ多くを所有していなくても、
「自分には自由に使える時間とたまの贅沢があれば十分だから」
と、自分の主張が臆面なく堂々と出来るし、
たとえ他人と意見が衝突しても、
「でも自分はこう思うんだよねー」
と、自分の信条を簡単に変えたりはしない――そんな一貫性ある人は魅力的だと思う。「他人との比較」をほどほどのところで切り上げて、「それでも自分はこう思うから」と、自身の信念を貫ける人は、本当に魅力的だと思う。
こういう価値観を持っていて、
だからこんな生き方をしたいなと思っていて、
その実現のため今こうしてこんなことを頑張っている」
――そんな「一貫した自分」を探し出せたなら、
「無闇に自分と他人を比較しては、心を暗黒にする」
機会も少なくなってくるはずなのだ、理屈上は。
現状における私の課題の一つは、こうした「一貫した自分」、すなわち
「アイデンティティー探しだ」
と言ってしまって、間違いないだろう。
4
私は堂々と生きていたい。自分の存在価値を、他人との比較によって決定してしまうような生き方を変えていきたい。
ただそのためには、「果たして自分はどんな人間なのか?」を探る必要がある。そう考えている。
「自分」というものがしっかりとしてくるにつれ、
その価値観や生き方の指針も定まっていって、
そうして、「自分」や「その価値観」、「生き方の指針」が定まってくれば、自ずと、他人との無闇な比較によって、自分の存在価値を決定してしまうこともなくなってくると思うから。
さて、「自分はどんな人間か」を初めとする「アイデンティティー探し」をするに当たって、私が実践しているのが
②「自分の好きなこと」を軸に人生を組み立てる
③「②」実現のための努力
の三つだ。以下それぞれについて、その根拠を話していく。
①自身の感覚の解像度を上げる について
これは「自分の好きなこと」を探すことを目的としたものだ。
「自分の感覚」に神経を尖らせながら生活を送っていると、日常の中で、私達は様々な「感覚」を覚えていることに気が付くと思う。
それは「仕事が怠いな」とか「休日の朝は気持ちが良いな」とか「本を読むのは楽しいな」等、兎に角、何でもよい。
それらの「感覚」を、まずはキャッチする。案外、長い間自己喪失しながら生きてきた人間は、こうした何気ない自己の感覚さえキャッチするのが難しくなっているものだ。だからこそ「“自分の感覚”に神経を尖らせながら生活を送」ることが重要になるのだ。
で、キャッチした感覚について、今度はその解像度を上げられないか、頑張ってみる。例えば、「仕事が怠いな」という感覚だったら、
「どんな場面で特にそれを感じるのか」
等、自分で自分に質問をしていき、自身の感じているその「怠さ」に輪郭を与えていこうと努めてみる。
といった風に、自身の一つひとつの感覚の解像度を上げていく。
感覚の解像度が上がってくると、それら実体を通じて、自分が「好きだ」と感じるものと「嫌だ」と感じるものが、具体的な輪郭を以て分かってくるようになる。
「本を読むのは楽しいな」という感覚についても同様だ。
といった風に、都度、自身の「感覚」の解像度を上げていく。
解像度が上がってくると、その具体的な感覚の中から、自身の「好きなもの」、「そうでないもの」が、段々と意識化できる(具体化される)ようになっていくのだ。
以前までの私は、こうした「自分の感覚」というものに、ひどく鈍感だった。
そもそも、私の「快/不快」といった感覚は
「他人から自身が評価されるか/否か」
に懸かっていたので、
まったく「他者評価」というものを離れ、「本当に」自己が
「満足するか/否か」
という視点で、自身の感覚というものを見つめたことが殆ど無かったのだ。
そのため、自身が本当は一体、何が好きで、何がそうでなくて、何を望んでいて、何を望んでいなくて、どんな物事に価値を感じ、人生のどんなところを改善していきたいのか等といったことが、あまり分からないままだった。
ただ、
「自分は他人より勝っているか」、
「他人から認められるところはあるか」、
「他人から“凄い!”と言われる要素を持っているか」
――そんなことに囚われるばかりで、全く、自分の“want to”に目を向けられていなかった。
常に自分と他人を比較し続け、少しでも他人から「凄い!」と言って貰えるような人間になることしか考えてこなかったから、自分の「感覚」など二の次、三の次になってしまっていた。
その結果として、それが
「自分の人生でありながら、自分のために生きることを放棄すること」
に繋がっていき、
「自分のものでなくなった人生を生きること」に対する「虚無感」が強くなっていき、人生が面白味のない、つまらないものに感じられてしまっていた。無論、そんな人生を送る自分に自信など生まれようもなかった。
しかし、
自分の感覚に敏感になり、自分の「好きなこと」、「好きでないこと」を積極的に見つけていって、
「さて自分の“好きなこと”を人生の中に増やしていき、“そうでないこと”を減らしていくためにはどうしたらいいか」
を真剣に考えていくことで、
同じ人生であっても、その捉えられ方が随分異なってくるものなのだ。
その「違い」に気付くことが、
「他人との比較でしか自己の価値を測れない人生」
を抜け出すための「第一歩」となるはずなのだ。
②「自分の好きなこと」を軸に人生を組み立てる について
自身の日常における「感覚」に注目し、それらの解像度を上げていくことによって
「自分の好きなこと」
が分かってきたら、今度はその「自分の好きなこと」をベースに、人生を組み立ててみようとすると良い。
例えば私は、最近になって、自身は「旅行」や「旅先の宿泊」、「お洒落なレストランで食事すること」が好きだと分かってきたのだけれど、それが分かったのであれば、積極的に人生の中に、それらを組み入れられないかと努めてみるのだ。(今のご時世では難しいが。まあゆくゆくの話。)
続いて、たとえば「旅行へ行く」という「自分の好きなこと」を実現するために、自身の人生を自ら、好きなように設計していく。それは
・「旅行へ行くため」に仕事を頑張る
でもいいし、
・「旅行」を楽しむために旅行好きの友達を探す
でもいいし、
・「旅行へ行く」ために休日の多い会社に転職する
でも、何でも良い。
こうすることにより、
「私は旅行を楽しみたいからこのような人生を設計するに至った」
という、自身の一つの信念のようなものが生まれる。
この信念こそ、自身の中で明確化された、その人の人生における価値尺度・価値基準のようなものとなる。
自身の中で明確な価値基準が生まれると、「他人との比較」だけで、自身の人生や存在価値が脅かされることは比較的少なくなってくる。たとえば、
「年収低いじゃん」と他人から言われても、
「でも自分は旅行に行きたい人間だから。高給取りになれても、激務のあまり旅行に行けない人生は嫌だ」
という主張が出来るようになってくる。
まあ今回は「旅行」を例に挙げたが、「自分の好きなこと」に関しては本当に何でも良いと思っている。(※他人にこう思われたいから、という動機から来るものは除いて。)
「自分は仕事中心の生活を送りたい」でも
「兎に角お金持ちになりたい」でも
「自由人になりたい」でも
「コミュ力おばけになりたい」でも
「ずっと寝ていたい」でも、何でもアリだ。たとえ他人に批判されても、
「でも自分の価値尺度・価値基準はこうだから」
と、堂々と主張できるものを持てることが大事だと思う。
そしてここまで来たら、最後は「自分の好きなことを軸に生きる」ことを実現するための準備に入っていく。
③「②(“自分の好きなこと”を軸に人生を組み立てる)」実現のための努力 について
皆さんご存じの通り、「自分の好きなこと」を軸に人生を組み立てようと思ったら、そのために幾何かの努力をしなければならないはず。
「旅行へ行きたい」と思っても、お金と時間が無ければ旅行には行かれない。そのため、お金を稼ぐために仕事を頑張る(投資でもいいが)必要があるし、休日が少ないなら休日の多い会社に転職する必要がある。
「コミュ力おばけになりたい」と思ったら、そのために自分に必要なものは何か、頭を使って考え、勉強・学習していかなければならない。人と沢山話す機会を設ける努力も必要だろう。
「仕事中心の人生を送りたい」と思ったら、やはり自身の夢中になれるような仕事に就かなければならない。そのためにスキルが必要になるならば、そのスキルを努力して磨いていかなくてはならない。
このように、「自分の好きなことの実現」を軸に人生設計すると、どうしてもそれなりの「努力」は必要になってくる。けれども、その「努力」も「自分のため」の努力であるならば、多少苦しくても乗り越えられるものではないかと思う。
「他人からチヤホヤされること」
を動機とする努力は苦しくても、
「自分の好きなことをするため」
の努力なら、その心理的負担は、先のものよりも小さくなってくるはずだ。
そして、「自分の好きなことをするための努力・頑張り」もまた、自分の中の価値尺度・価値基準に従うため必要となる人生の一部になっているはずなのだ。
すなわち、
「しかしそのためにはそれなりの努力が必要」
「だから今私はこういうことを頑張っている」
という一連の主張は、まさにその人のアイデンティティー(一貫した自己)を反映したものになっているはずで、
この「アイデンティティー」の確立こそ、
「自分と他人の無闇な比較によって卑屈になってしまう病」
に対する、有効な処方箋になるはずだと、私は考えている。
こんなことに価値を感じて、
だからこんな人生を送りたいなと思っていて、
その実現のためにはこんなことを頑張る必要があって、
だから私の生き方は「こんな風」になっている。
――こんな一貫した主張が出来るようになれば、人生は楽しいものになり、そんな楽しい人生を送っていれば自ずと、
「自分と他人を比較することで心を暗黒にする機会」
も、ずっと減ってくることだろう。
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