「自分を変えよう」と決意をし、その決意を実行に移すということは、非常に、難しい。
例えば他者のご機嫌を必要以上に窺い過ぎるあまり、対人関係の後で必ずぐったりと疲弊してしまう自分や、他者の自分に対する評価が気になりすぎるあまり、己のキャパシティを超えて頑張り過ぎてしまう自分、他者から頼み事をされたら決して断れない自分、そしてこれらのことから、人が嫌いというわけではないのに、対人関係を回避したくて仕様がなくなっている自分の存在に気が付いたりして、自分のものであるはずなのに、自分の人生がどうにも他者に支配されすぎてしまっていることに嫌気が差してくる。こういったことから、何だか自分は一般的な人と物の考え方や思考回路、生き方が少し違うなぁ、などと思い始める。そしてそんな神経症的な思考、ないし行動様式を変えてもっと自分らしくイキイキとした人生を送りたいものだ、という考えから、『嫌われる勇気』をはじめとする種々の啓発本に手を伸ばし、縋る思いで、パラパラとページをめくる。そこには、自分がこれまで思ってもみなかった様々の神経症的思考・行動様式の矯正法が記述されていて、“新たな気付き”が得られたような気持ちになる。しかしこれらの矯正法に心底から首肯し、自らの神経症的思考・行動様式を見事矯正し、それまでよりもより健全な人生を送られるようになる人々がいる一方で、それら矯正法を実践しようとしても挫折してしまう人や、本を閉じた瞬間、或いは、未だ全て読み終わらない内から、「そうは言っても、それが出来ないから困っているのに」と、自らを変えられる気がまるでしない人が存在することもまた確かである。『嫌われる勇気』から、「目的論的な思考」について学び、「課題の分離」を学び、「共同体感覚」、「自己受容」、「他者信頼」を学ぶ。またはその他啓発本から、「過度に失敗を恐れるな」、「まだ起こっていないことにいちいちネガティブになるな」、「他者と比較するな」、「自分を愛せ」、「社会的活動で自己肯定感を育め」といった、概ね正しく、かつ健全なる認知について学ぶ。これらの主張は多分、正しい。何となくそれは分かる。しかし、そのようにして意識の上では「正しい」と理解することが出来ていながら、または実生活にてそれらを実践していながらも、それでもいつも、本を閉じると、または現実の非情に直面すると、こう思うのである――「やっぱり出来ない。」、「それが出来れば苦労しないんだけどな」――啓発本に書かれている、正しいはずの種々の主張、理屈がどうしても、心の奥底に浸透してくれないのである。つまり意識レベルでの首肯は出来ていても、心底からの首肯が、どうにもこうにも、出来ない。そしてそんな自分に対し、“自分を変える勇気の持てないダメ人間”という烙印を押してしまう。
さて本当にこれらの人々は、「自分を変える勇気の持てないダメ人間」なのであろうか。この世に存在する“正しき主張”の並んでいるはずの啓発本の文言に対し“拒否感”を覚えてしまう人々は、ただの甘ったれ人間なのだろうか。この場で答えを申し上げてしまうと、それは違う。多くの正しい啓発本を読んでも、その読後感が「そうは言っても」という否定的見解に帰着されてしまう人々は、その人がダメ人間であるためでも、甘ったれであるためでもなく、その要因は、これらの啓発本では、その人の神経症的思考・行動様式を誘発している根本原因、真の原因へアプローチすることが出来なかったからなのである。その原理は、発達障害が原因で抑うつ状態になっている人間に対し、「発達障害」でなく「抑うつ状態」の改善にばかり躍起になりアプローチをかけている状況と、同様のものである。『嫌われる勇気』を読んでも「嫌われる勇気」を持てない人々は、いつまで経っても自分に自信を持てず、承認欲求から逃れることが出来ないその理由を、文中で強調されている“目的論”からではなく、寧ろ文中で否定されているフロイト的な“原因論”で以て、その根本原因にアプローチする必要があるのである。そしてこれから、そのフロイト的な“原因論”によって、どうしても「嫌われる勇気が持てない」というその現象を、解明していこうというわけであり、それが本記事の主題ということになっているわけである。
『嫌われる勇気』をはじめとする啓発本の、多数の正しい主張をして自身に「嫌われる勇気」を持たせてくれないその「根本原因」とは、自身の幼少期より今まで、心の奥底の無意識の領域にずっとしまい込まれ続けた、今でも満たされないままでいる自身の「愛情欲求」なのである。自身の養育者によって、与えてほしかったのに、与えられることのなかった愛情に対する、底なしの欲求である。自身の幼少期よりずっと抱え続けている、この満たされぬ「愛情欲求」の無意識の抑圧こそ、
“自分に自信を持てない”
“他者へ過度に迎合してしまう”
“失敗が怖くて行動できない”
“他者が信じられない”
といった、種々の神経症的思考・行動様式の根本原因なのである。
一度、声に出して言ってみて欲しい。自身の養育者の顔を頭で思い浮かべながら、その対象に向かって放るように、「私、あなたに、愛されたかったな」と、声に出して一度言ってみて欲しい。この一言に、何だか胸騒ぎがする、ドキッとする、胸が苦しくなる、そもそもその一言を発することに凄まじい抵抗を覚える等といった、心に何らかの反応があった人は、自身の無意識領域に、抑圧された「愛情欲求」――これは「愛情飢餓」とも「自分という存在に対する無条件の承認欲求」とも換言できるが――を抱えている。この愛情欲求、すなわち、その人をして神経症的思考・行動様式を働かせている根本原因を自身が持っていることを自覚し、しっかりとそれにアプローチしていかない限り、『嫌われる勇気』をはじめとする種々の啓発本中で述べられている数々の素晴らしき主張や理論は、その人の心に本当の意味で届くことはないし、仮にその理論を自分のものにしようと努力したところで、少しの風が吹くだけで、ほんの小さな障壁が立ちはだかるだけで、その努力も水泡に帰してしまう。
次に、個々の抑圧しているその「愛情欲求」が、どのようにして現在その人の持ち得る神経症的思考・行動様式に関わってゆくのか、そのメカニズムについて解説していく。
愛情欲求の満たされていない人は、同時に、自分に対し自信を持てていない。この「自信」というのは「自分という存在に対する揺るぎない自信」とでもいったもので、別の表現をするのなら、「自分がこの世に存在していることに対し違和感を覚えない感覚」であり、「自分の存在意義について長期間に渡り憂える必要を覚えない感覚」であり、「他者は他者、自分は自分、と、自他をしっかりと区別することが出来ている感覚」であり、「“人生の意味”などという事柄にあれこれと思い悩む必要を覚えない感覚」、「自身の社会的有用性を、あらゆる社会的ラベルの武装により示さねばならぬという強迫性を覚えない感覚」といったものが妥当のように思われる。「自分の存在に対する揺るぎない自信」を持てていない人は、その自信のなさ故、あらゆる事実に対し、ストレスを溜め込みやすい状況の捉え方や、解釈をしてしまう。客観的事実はそこまで語らぬのに、それを受け取った側が勝手に悪い解釈を与え、それを強化し続けてしまうのである。それは例えば、こんなプロセスかも知れない。
初めは、とても些細な出来事なのである。授業中に簡単な問題を間違え、心ない一人の人間に笑われた経験。このほんの些細な一事が、本人に相当の心的ショックを与える。本当はただ一人の人間が思わず笑ってしまった、という事実があるだけであるにも関わらず、この日から、その人は自分が周りの人間からバカだと思われているのではないかと心配で溜まらなくなってしまった。また、自身の耳に入ってくる周囲の笑い声が、自分の頭の悪さを笑っているのではないかと不安に感じられるようになった。そしてその笑い声の起こった話の内容を確認するまではその不安感が拭われなくなった。その被害妄想は教室内のみに留まらず、登下校の際や外出時など、あらゆる場面で聞かれる笑い声に対してさえ、敏感に反応するようになった。たとえ自分の頭の悪さを笑っているわけではないと頭の中では分かっていても、身体に入った緊張がいつまでも取れず、心も常に不安でいっぱいになってしまった。外出することに恐怖を覚えるようになり、長い時間家に閉じこもるようになってしまった。
あるいは、こんなプロセスかも知れない。
ある日、自分に見当違いな期待をしては勝手に近寄ってきた人から、「君は思っていたのと違った」と、がっかりされてしまった。この一事が本人の心を深く傷付けてしまった。本当はただ、見当違いをしたある一個人が、身勝手な失望をしたという事実があるだけであるにも関わらず、その日を境に、自分は人々から失望されているのではないか、または失望されはしないかと、常に思い悩むようになってしまった。そこから他者に失望されることのないように、対人関係では自分を殺し、必要以上に他者に迎合することになり、また、自身の一挙手一投足のいずれかが失望の対象になるかも知れないという恐怖心も現れ始め、自身の全ての言動に対し、他者の目を意識するようになった。外界では常に他者の批評の目にさらされている感覚を生じており、常に緊張で身体は硬直しており、呼吸も浅く、他者のいる環境に身を置くことが苦痛になり、家に引きこもるようになってしまった。
または、同じシチュエーションにしても、勝手に寄ってきては勝手に「がっかりされ」てしまったという事実を、「他者の自分に対する裏切り」と捉え、それに対し激怒したり、それ以上裏切られる経験をしないよう、自分の本当の意志とは無関係に、学歴や社会的立場や資産といった客観的な、その人を裏切らぬ社会的ラベルを身に纏うことに過度に執着する人もあるかも知れない。
こうした、“ある事実”に対する状況の捉え方や解釈がストレスを溜め込みやすい方向へ極端に偏るのは、「自分の存在に対する揺るぎない自信」が、その人の中に無いからである。自分に自信が無い人は、その自信を他者からの評価により、担保して貰おうとする。しかし他者が自分をどのように思っているのかなど分からないわけだから、その未知なる部分を、知覚から与えられる情報に対する自らの分析によって、何とか知ろうとする。しかし、その知覚に対する、自身の歪んだフィルターを通じた「分析」というものは、「今の笑い声はきっと私の頭の悪さを笑っていたのだ」とか「さっき自分の取ったこの行動は他者の失望を招いたに違いない」といった歪んだ解釈を証明するための証拠の収集になる傾向が非常に強いため、この歪んだ分析行為がますます自身の神経症的思考・行動様式を重症化させ、かつ、より大きな他者への疑惑、不信へと繋げてしまうのである。「自分に自信を持てていない」ということは、このようにして本人の周囲に起こっている出来事を、歪んだ解釈によって悪いようにねじ曲げてしまうことに繋がっているのである。
「自分の存在に対する揺るぎない自信」を持つということは、換言すると、「自分で自分を愛している」ということである。逆に自分に自信の持てていない人は、自分で自分のことを愛することが出来ていないのである。何故、それらの人々は自分で自分の存在を愛することが出来ていないのか。それは、幼少期より、彼ら彼女らが、各々の養育者より真の愛情を与えられずに育ってしまったからである。真の愛情を与えられぬまま、真の愛情とは何たるかを実感せぬまま、大人になってしまったからである。真の愛情を知らないから、「愛する」ということがどういうことなのか、分からない。愛が分からないからこそ、自分を愛することが出来ない。自分を愛せない人は、他者も愛せない。または、「自分を愛せていない」という受け入れ難い事実は他者へ投影され、「他者は自分を愛さない」という間違った解釈が為されることとなる。「他者を愛せない」事実は他者不信に直結し、「他者は信頼できない」という感覚を心底に抱えることになる。しかし自分に自信を持てていない人々は、そうした、心の底では信頼の感じられていない他者に自分の存在価値を担保して貰おうと涙ぐましいまでの努力をする。その努力の一つが、必要以上の他者迎合である。しかし幾ら他者に気に入られようとしても、根本にあるものが他者不信である限り、例えば「自分は笑われているのではないか」、「自分は失望されたのではないか」といった、懐疑に塗れた、歪んだ解釈によって事実が捉えられてしまう。そうして、その歪んだ事実解釈をもとに生き続けてきた結果こそ、神経症的思考・行動様式によって極度の生きづらさを抱えている現在の自分の姿なのである。従って、このような負のプロセスから脱するためには、まずは、幼少期より自身の無意識に抑圧されていた「愛情欲求」を、意識の上に引っ張り出す必要があるのである。「自分は養育者より正しく愛されなかった」、「自分は心の内では、自分に対する無条件の愛情を求めている」といった、自身の抑圧してきた事実、ないし本当の願望の自覚こそ、上述した諸問題の対処への第一歩、スタートラインとなるのである。
しかしこうした“親子間の愛”に関わる問題は一般的に道徳や良心に基づきセンシティブに扱われるため、このことについて深く言及することは禁忌とされている。「私は養育者から愛されませんでした」などと言おうものなら、よほどの理由が認められない限り、世間の大バッシングを受けることになるだろうし、または、「自分の養育者を悪く言ってはいけない」という己の良心に悖るか、「まさか、自分の養育者が愛情を全く与えてくれぬほど人格に問題があったとは考えられない」といった理性の働きによって、自身の心の声である「愛情欲求」、「愛情飢餓」を否定、抑圧してしまう。生物として根源的な欲求である「愛情欲求」が満たされず、けれどもその欲求不満を一向に満たそうとせず、無意識下に抑圧するようなことをし続けると、それが災いとなり、別の形となって、すなわち、上に挙げたような種々の神経症的思考・行動様式となって現れることになってしまう。従って、まずは道徳や体裁、自身の良識の声を一旦脇に置いて、「自分は養育者より、愛されなかった」、「自分は、正しい愛情を受けられず、歪んだ愛情を受け続けてきた」という事実を、または自分の本当の思いを、自覚する必要がある。
ここで述べている「真の愛情」、「正しい愛情」というのは、それを与える側が、“受け取る側の満足”を第一に考えた上で与えられる愛情のことである。反対に「歪んだ愛情」というのは、与える側が、“自分の満足”を第一に優先させた上で与えられる愛情のことである。決して、虐待がなかったから正しい愛情が与えられた、というような単純な話ではない。歪んだ愛情は、一見すると、“相手に向けられた愛情”のようであるが、その実は、“与える側に向けられた自己愛”である。歪んだ愛情は、愛情を受け取る側のことが全く考慮されていない、独りよがりの愛情である。子供に正しい愛情を与えられない養育者は、“相手への思い遣り”から生じる正しい愛情ではなく、“自分自身の満足”を目的として生じた、歪んだ愛情を与える。相手を喜ばせるために何かを一生懸命に与えるのではなく、相手を喜ばせる自分という存在に満足するために、見当違いな何かを必死に与えようとしたり、それを自分の思ったように受け取らなかった子供を激しく責めるようなことをする。
例えば、何かのきっかけで子供にプレゼントを買おうと思い立つ。ここで正しい養育者は、子供を喜ばせることが第一の目的であることを見失わず、子供の欲している物を一生懸命リサーチし、該当する物の入手に奔走することが出来る。そして子供の願望を満たすプレゼントを与えることで、子供の満足を引き出すことが出来る。また、たとえその苦労が報われず見当違いなプレゼントを与えてしまい、子供ががっかりした顔を見せたとしても、「ごめんね」と謝罪することが出来るし、もしくは、自分の思っていたほど子供が喜びを見せてくれなかったとしても、それについて過剰反応し、子供を責めるようなことはしない。一方で歪んだ愛情を与えてしまう養育者は、プレゼントを買うという行為が、自身の子供を喜ばせることではなく、子供を喜ばせることの出来る自分という存在に満足することが第一の目的になっている。従って、子供が欲している物のリサーチがおざなりになり、適当に子供の喜びそうな物を購入したり、または、自分の満足が満たされなかった際の心的衝撃を恐れるあまり、「失敗してはいけない」という強迫観念によって、リサーチから購入に至るまで死に物狂いの奔走を演じ、この場合は見事対象の物を手に入れる人もある。しかしいずれの場合も、子供がいざ封を開け、本当に欲している物でないことを見るにつけがっかりした顔を見せたり、或いは養育者本人が思っていたよりもその喜びの度合いが小さかった場合に、養育者は「残念だったな」という感情を自分の中だけで処理することが出来ず、自らも激しく落胆してみせたり、憤激したりする。「こんなに頑張って買ったのに喜んでくれないの」、「誰の為に高い金出してやったと思っているの」、「そんな態度を取るならもう二度と買わない」などと、自分可愛さにしてやったのだとする下心を隠し切れず、子供に責任を負わせようとする。これにより子供は、養育者から受け取ったプレゼントを喜べなかった自分に罪悪感を覚えるようになり、自尊感情を失う。その結果、類似の状況において、自分の本当の気持を抑圧し、養育者のご機嫌窺いの反応を示すようになる。見当違いなプレゼントを貰い、がっかりする気持ちを心底にしまい込み、これを貰った自分は嬉しいのだ、自分はこれが欲しかったのだと自らに言い聞かせ、「わあ、嬉しい」と大はしゃぎする。その姿を見ている親の顔色を傍目で確認しながら、本音がばれていないか、そんなことを頭の何処かで考えながら、自分の気持ちとは裏腹の態度を表明し続ける。これは子供にとって相当苦しいことで、このケースにおいて、子供はその時覚えた罪悪感をその先もずっと、幼少の時期ばかりに留まらず、思春期になっても、成人になっても抱き続けることになる。そしてそうした、自らの本当の気持ちの抑圧や、幼い頃より抱き続けてきた罪悪感、自尊感情の喪失は、自身の思考・行動様式に大きな影響を及ぼすようになる。例えば先ほど例に挙げた「自分は笑われているのではないか」、「自分は失望されるのではないか」といった継続する過度の不安感がそれである。また、このような自尊感情の喪失、罪悪感の意識、本心の抑圧は、以下のような連鎖にも結び付く。養育者より罪悪感を植え付けられた本人が大人になり、子供を持つ。そしてその子供が、自分の与えたプレゼントに少し不満げな表情を示したとする。この時、その親となった本人は自分が幼少期よりそうされてきたように、自らの好意に感謝を示さぬ我が子に、激怒する。このケースでは、自分が幼少期よりそれを許されず、ずっと抱き続けてきた罪悪感を他者にも味わわせ、自分の満たされぬ「愛情欲求」を間接的に満たそうとしている行為の典型例である。このように、幼少期より背負わされた負の感情は、養育者の元を離れた世界においても、様々な形で本人を縛り付けるのである。
自分の存在に自信がない養育者は、自らの子供に、自分の存在意義を何とかして示して貰おうと努める。そのため子供の何気ない一挙手一投足に過敏であり、このような、自らの存在意義の確認のために与えたプレゼントを喜んでくれないと、途端にその行為を自身の否定と捉え、子供を激しく攻撃することになるのである。これは勿論、プレゼントだけに限らない。無理な習い事の強制や、望まれぬ家族サービス等もそれに該当する。歪んだ養育者からこれらを与えられた子供は、親の機嫌を損ねぬよう、本当は楽しくも、嬉しくもないのに、それら提供されるサービスに対して、「楽しい」、「嬉しい」、「ありがたい」、「愛を感じる」などと本心とは裏腹に思わされ、それを証明するような反応を、外界に示し続けなければならない。これらのことは決して、「子供が望まぬのに与えられるのが悪い」のではない。「子供が望まぬのに与えられた上、それを有難がらなかった子供に罪悪感を抱かせるようなことばかりすることが悪い」のである。子供の満足を第一に考えているのならば、子供に責任を負わせるような言動は、為されないはずであり、たとえ為されたとしても、その比率は健全なる応対に対しては小さなものである。歪んだ愛情しか与えられない養育者が、子供に罪悪感を負わせようと躍起になるのは、養育者自らが自分の存在に自信を持てておらず、自分が存在していても良いという証明を自分の子供に、子供の責任によって示して貰おうとしているからであり、また、これは養育者自身が幼少期より同じような経験をし、自分の子供と同様に本心をこれまでずっと抑圧し続け、我が身に罪悪感を纏っているためなのである。罪悪感を纏う者は、相手に罪悪感を植え付けるような行動を取るが、何もこの連鎖は、罪悪感のみに留まらない。幼少期より失敗を責められてきた者は、他者の失敗を許容できない人格に成長するし、幼少期より過度の誠実を強要され続けた者は、他者の少しばかりの不誠実さえ許せない。幼少期に「お前は邪魔だ、迷惑だ」と言われて育ってきた者は、人様に多少の迷惑さえ与える他者を、ある意味病的な程に許せない。このようにして、親-子間(それだけに留まらないが)で展開される負の思考・行動様式は、世代を越えて受け継がれていく。この現象は、「世代間連鎖」と呼ばれるものである。実は、愛情不足を抱える者の親もまた、愛情不足を抱えている。正しい愛情を与えられなかった親自身も、その幼少期に、正しい愛情を与えられなかった。つまり正しき愛情というものがどういったものであるのか、分からない。そのため、正しい愛情を与えることが出来ない。正しき愛情を与えられなかった被害者の親は、それを与えなかった加害者であると同時に、与えられなかった被害者でもあるのである。否定的な養育者に育てられた子供は自分が親になった時、自分の子供が、自分がこれまでずっと抑圧してきた感情を刺激するような言動を取ることを許さない。そのような言動の見られた際は、まるで自分の人格が自身の養育者に乗っ取られたようになり、感情的に、自らの養育者が自らに取ってきたような言動を、我が子、ないし他者に与えてしまうのである。この負の連鎖を断ち切るためには、まずは自分が、自分自身の満たされていない「愛情欲求」が抑圧されていることに気が付くことである。これまで、「自分は養育者から愛情を貰ってきたのだ」と誤って思わされてきたことを自覚し、実はその愛情は歪んだ愛情であったこと、それにより自分が傷ついていたことに気付くことが大切なのである。この時、養育者はここまで自分を育ててくれたし、そのことに心から感謝していることは確かだから、そのようなことは絶対に言えない、などと考える必要は、ないのである。養育者は、自身をここまで成長させてくれた、そしてそのことに感謝をしていることは事実として認識していながらも、それでも、正しい愛情は与えてくれなかった、そこだけを認めるというやり方で、いいのである。兎に角、自身の内にある愛情欲求を、抑圧してはいけない。それが抑圧されている限り、種々の症状が手を変え品を変え、現れることになってしまうのだから。そしてそれを自覚した上で、自分のことを、自分自身で愛せるように努める。具体的には、自分自身のことを、決して自己批判的になったり、自罰的になったりしないで、徹底的に、思いやり、優しくすることである。幼少期より与えられなかった真の愛情を、幼少期より掛けてもらいたかった温かい言葉を、自分で与え、自分の存在に対する揺るぎない自信を取り戻し、自分を信頼し、愛することの出来るように努めるのである。これを、他者に与えて貰おうとしてしまうと失敗する。他者は、その人自身以外の成人に無条件の愛情を注ぐことは、出来ないためである。だから自分のことは自分で愛する必要があるのである。
また、自分の傷付いた心を癒やしながら、自身の神経症的思考・行動のパターンについて内省していくことが肝要である。対人関係においてついカッとなってしまった時、または、さして重要でないように思えることでも、どうにも許せなく感じて非難したくなる他者の言動があった時、それらの言動は、果たして幼少期に自身の否定されてきた自己の言動と重なる部分はないか、それら許せない言動に対し、世代間連鎖の原理と同じく、自身が幼少期より受けてきたような否定をその他者に与えようとしてしまっていないか、よく顧みることである。更に、他者へ否定的な感情が沸き起こった際、その他者に対して否定的になる感情を湧き起こしているのは本当に自分自身であるのか、顧みることである。つい感情的になってしまった時、自分が、一時的に自身の養育者に人格を乗っ取られたようになってしまっていないか、問いかけることである。つまり、自分が感情的になっているのではなく、自分に乗り移った自身の養育者が、その感情的な衝動を湧き上がらせている図になっていないか、顧みることである。そしてそのような現象が確認された際は、意識して、養育者に乗っ取られた人格を取り戻し、自分に帰ってくることである。そして他者と関わる際、自分の周りの他者は、そうそう簡単に自分を見捨てる人ばかりでないという事実を知ることである。自分に自信がないから、誰彼構わず愛想を振りまいて迎合し、好かれようとすることで自分の存在を認めてもらおうとしている自分の神経症的思考・行動様式を自覚しながら、実はその他者は、自分という存在が、彼ら、彼女らにとって都合が良いから好意を抱いてくれているわけではなく、また、自らの一挙手一投足に失敗がないから好意を抱いてくれているわけでもなく、ただ、縁によって、自分に好意を持ってくれていること、たとえ自らがその関係において何らかの失敗しようと、その失敗一つで全く失望し、それまでの関係性を解消してしまうような人間ばかりでないという事実、もっと言うと、そういった類の人間はまっすぐ育った人達の中では極少数であることをしっかりと知ることである。そしてその他者信頼のもと、「失敗しても良いんだ」、「迎合しなくても好意を持って貰えるんだ」という気付きを合言葉に、必要以上の他者迎合を慎んでいくことである。対人関係の多くは、ある他者個人の、自分(私)に感じたたった一つの嫌なところによってその評価がマイナスに傾いてしまうような極端な関係ではなく、その他者における自分(私)の嫌なところは、「総合的に好意を感じる自分(私)という存在の中の、たった一つの嫌な部分」であるという評価に留まり、決して、その一点を以て自分自身の存在が全面的に否定されるわけでないことを徹底的に自身に言い聞かせることである。その間も無論、自身の愛情欲求を満たし続けることは忘れてはならない。
上述した矯正法、すなわち――自己の抑圧された愛情欲求を自覚し、それを自分の力で癒やすことで自己愛、自己信頼感を獲得し、それらを他者信頼に繋げ、その他者信頼や自己信頼が自らの神経症的思考・行動様式の気付き、改善に大きく貢献するという一連の流れ、ないし相互作用――を上手に実行することが出来、その効果を実感する段階に足を踏み入れることが可能となった時、その人はもう、これまで首肯出来なかった多くの自己啓発本の内容に、心から首肯することが出来るようになっているであろう。もっと言うと、そのような類の自己啓発本に頼らなくても、自己信頼と他者信頼に基づく健全なる対人関係を築ける人格を獲得し、より魅力的な存在として、充実した人生を送ることが出来るようになっているであろう。
最近私は、自分の人間性の抱える諸問題について、かなり悩んでいた。私は昨年度より、自身の逆境とも言えた環境から今の程々に落ち着いた環境に逃れ、これにて、それまで悩まされてきた自罰的な、かつ自意識過剰的な思考回路、行動様式が徐々に健全になっていくものだと思っていた。
しかし、確かに私の周囲の環境はとても過ごし易いものになったにも関わらず。いつまで経っても、私は自身の過度に他者迎合してしまう性向や、外出時の自意識過剰による身体の異常な緊張が治まってくれることはなかった。私はその原因の正体を、徹底した自己分析の元、私の幼少期からの親子関係にあるのではないか、というところまではどうにか推察することは出来ていたのだが、「アダルトチルドレン」や「アタッチメント障害(愛着障害)」について記述された多くの書籍を当たってそこに正解を求める過程で、問題の核心には一応触れるのだけれども、それをしっかりと掴むには至らない、といった状況が続いていた。
そんな折私は、これは仕事柄、これまで自身の蓄積してきたコミュニケーション方法ではどうにも自分の意図したような関係性を築けない人達と沢山関わる機会を持ったわけだが、そういった人達に対峙する際、私は思いがけず、私が嫌な人間になっていることを自覚せずにはいられなかった。例えば、私がこれまで身に付け実践してきた対人関係の術は、自分を攻撃されないための防衛として為されているものが殆どであった。私はこれら防衛術によって、自分の存在価値を他者から否定されないよう、必死に守ってきたのである。つまり私も、自分の存在に対する揺るぎない自信というものを持てておらず、自らの存在を、他者の言動から示される刹那の肯定により常に担保して貰い続けようと試みていた人間の一人だった。しかしこれらの防衛術が通用しない他者と対峙するにあたり、どの法に依っても、自身の存在価値を担保してくれない眼前の他者への応対に混乱したのち、私は、自身の存在を守るための防衛が行き過ぎた結果、自身の存在を守るための攻撃に転じて、様々な心理戦をその相手に持ち掛けるようになっていたのである。そしてその心理戦というのがまさしく、私が幼少期より挑まれ続けてきた心理戦と同様のものだったのである。それにより、私は自分が、自分の思っていたような善い人間ではなかったことに気が付き、自分の人間性に激しく落胆しつつも、それを振り払うように、またはそれをどうにかして改善できるように、本ブログを通じて、様々な思考、及び行動矯正術を自ら考え出し、投稿してきた。『感情コントロールのスペシャリスト』に始まり、『愛とは何か』、『真の優しさ』、『人生の意味』といった記事は、それにあたる。しかしこれらの記事で展開した理屈は、記事を投稿した瞬間は“素晴らしいアイデア”だと感じても、どれをとっても、どうにも実践の場で長いこと自身の助けになってくれるものはなく、再度同じような、悪い、自分を疑いたくなるような思考・行動様式を繰り返す自分に立ち戻ってしまうばかりで、このような自身の将来に対する不安が日に日に大きくなるばかりであった。いわばこれらの記事は、問題の根本原因にアプローチすることなく、グラグラの頼りない土台の上で、上手くバランスを取って転ばないようにする工夫を提示しているに過ぎなかったのであり、そこに多少の風が吹くだけで、敢え無くバランスを崩してしまうような、脆い術だったのである。
そんなある日、偶然寄った本屋で、これまた偶然目に入った加藤諦三の『自分に気づく心理学』という本が何となく気になって、思わずふっと籠に入れたのを、これまたふっとそのまま会計してしまい、先日、自身の休日に思い出したように本を開き、何となしに読み進めていくと、概ね本記事で述べたような内容が展開されていて、私は次第に、夢中になってページを捲るようになっていたのである。活字を追うたびに、自身のこれまでの体験や、これまで考え悩んできたあれこれが湧き水のように次から次へと意識に上がってきて、それら一つ一つについて処理しながら、ゆっくりと二日をかけて最後の文章に目を通し終えた時、ドロドロとした、けれども妙にスッキリとした、これまでに感じたことのない読後感が襲ってきて、しばらくは興奮で夜も寝付けないほどに感じ入ってしまったのみならず、その後の生活において、随分自身の悪い思考や行動様式を改善し易くなっていることに気が付いたのである。ここにある内容が、私の抱える人間性における諸問題の根本的アプローチになり得るのではないかという事実に気が付くにつけ、この本に記述されている内容は大変示唆に富むものであり、私自身がこの本を読んでいる最中や、または読み終えた後に次から次へと湧いて出て来た関連した過去の体験や記憶、それに対する問いなどといった脳内の産物を一本の線上に並べたものを纏めて投稿することは、自分と同じような問題を抱える人々にとって重要な示唆を与え得るのではないか、という思いから、本記事を書き認めたわけである。本当はもっと分かりやすく書きたかったのであるが、一冊の本とそれに基づく自身の主張を僅か一万四千字弱という文字数に収めることの難しさ故か、はたまた私の体力不足故か、少々分かりづらい箇所や、説明不足の箇所があるかも知れない。しかし、もしこの記事により自分の心の何かを動かされたという方は、是非、上に挙げた本を一読していただき、自分なりの言葉によって、自身の抱える問題と向き合っていただければ、何かしら問題解決のヒントとなるものが得られるのではないかと思っている。そしてこの記事がそのきっかけを与えられる存在であってくれたら、と、そう考えている。
いつも楽しみに読ませて頂いております。
鶏さんの前のブログで、軽度の学習障害があり実習で苦労されているとの内容があったと思います。
私も実習で、作業が説明されても理解できず手が進まないことがあり、発達障害を疑いwais試験を先週受けてきました。
鶏さんは診断が下ったのち、発達障害の薬などを飲まれたのでしょうか?またそれにより、実習や実験をこなす能力に改善がみられたのでしょうか?
私と非常に症状が酷似しているため、お尋ねしたく思いました。宜しければ返信お待ちしております。
ありがとうございます。
実習等で手が動かないんですね。動作性IQ(WAIS-Ⅳではこの用語が用いられないらしいですが)の低さを疑いたくなりますよね。
ご質問への回答ですが、私は診断が下りた後、学習障害への薬物対処というものは為されませんでした(ADDやADHDならあったのかも知れませんが)。従って、薬について私から言及することは出来ません。お役に立てず申し訳ないです。
ちなみに通院の間はずっと、「自分の不得意な領域を使わないで済む環境に身を置くこと!」と医師から言われ続けていましたが、その言葉は恐らく正しく、現状、私は大学時代よりもずっと社会に健全に適応できています。
お返事ありがとうございます。
不得意を避けつつ、自分が適応できる環境を探っていこうと思います。
難しい課題ですが、お互い頑張りましょう。